第13話 Girl's Side(13)

 うちの学校が公立の学校とはカリキュラムが違う、と知ったのは、チーちゃんの話からだった。

「“おまえの学校、中2でこんな難しいことやってるのか”って、おに、ううん、兄貴が驚いてた」

「“おにいちゃん”って言えばいいじゃん」

 にやにやしているナギの頭をチーちゃんは無言で叩いた。しかもいつもより強めのようだった。チーちゃんにはお兄さんと弟がいるとエノから聞いていて、絶対にかっこいいはずだから写真を見たい、とわたしたちがいくらお願いしてもかたくなに拒否されていて、いまだに見られていなかった。家に呼んでくれないのもお兄さんたちに会わせたくないせいなのだろうか。

 それはともかく、わたしたち2年生が今数学で習っているのも、普通なら高校でやるところなのだという。この前の期末試験でも組み合わせの問題が出ることになって、とても苦労した。そこはガッキーに教わって、よくできた、とは言えないまでも、全く解けないということもなく、なんとか平均点を取ることができた。とはいうものの、問題を解くのとその問題を理解するのとでは話が違っていた。わたしがやったのは問題の解き方をいくつか覚えただけで、少しひねった応用問題を出されたら手も足も出なかったのは簡単に想像できた。でも、今になって、組み合わせというものが理解できたような気がする。たとえば、こんな問題を出されても今のわたしならすぐに解いてしまうはずだった。

「3組の夫婦がいます。それぞれが相手を入れ替えてセックスするとしたら、全部で何通りの組み合わせができるでしょうか?」


 電気もついていない真っ暗な部屋の中で、わたしは膝を抱えて床に座りこんでいた。顔をつけたままずっと泣き続けているので、ワンピースの裾はぐしょぐしょに濡れてしまっていた。さっきからしきりにドアをノックする音と、男の子の心配そうな声が聞こえている。

「ヒカルちゃん。大丈夫? 開けて、開けてよ」

 うるさいなあ。わたしのことはもう抛っておいてほしい。鍵を開けるつもりもないし、部屋に入れるつもりもなかった。またこみあげてくるものがあって、我慢しきれずに涙が流れた。いくら泣いても気持ちが落ち着くことはなかった。ふえええ、と力のない声が口から漏れ、なんて悲しい声なんだろう、と自分でも思って、余計に悲しくなってしまった。

 いつの間にか扉を叩く音が止んでいた。ようやくあきらめて自分の部屋に戻ったのだろう。リョウマくんに悪いことをした、とそこでやっと気がついた。あの子もショックを受けていたのに、わたし一人だけがつらいわけではないのに。でも、それと同時に、あきらめずにもうちょっと粘れよ、というわがままな思いも少なからずあった。わたしは彼に多くを求めすぎているのかもしれない。

 大人たちがあんなことになっていたのはもちろんショックだった。ただ、それとは別に、わたしはもうひとつあることに気づいて、怖くてたまらなくなってしまっていた。膝を抱えているのも、そうでもしないと震えが止まらないからだ。

 それは昼間の美術館でのことだ。リョウマくんのお父さんが西方のおじさんに大声を出して、そして西方のおじさんがわたしのほうへ手を伸ばしていたことだ。つまり、あれは、おじさんがわたしを大人たちの仲間に入れようとしていた、ということではないだろうか。あの手に込められていた意味が今ならわかったし、実際にあの手を見ていない人には何を言ってもわからない、そんな気がした。おじさんが前からわたしを仲間に入れようとしていたかはわからない。ただ、今日のわたしが引き金になってしまったことだけはわかる。レストランで告白してきたリョウマくんのように、あるいは街灯に惹かれて集まってくる虫のように。そうなってくると、おじさんと智世さんのなれそめも、わたしの中で違う意味を持ち出していた。チーちゃんがわたしから話を聞いて「なんかきもい」と言ったのは間違いでなく、おそらく正しかったのだ。見る目がなくてごめん、とチーちゃんに謝りたかったけれど、彼女があの話をまだ覚えているかはわからない。そして、電車であんな目に遭ったのに、警戒できていなかった自分に腹が立った。小さいときから知っている人だからといって、気を許してはいけなかったのだ。あの窓をのぞきこまなければ、やがてどうなっていたかわからなかった。

 それにしても、おじさんはわたしを仲間に入れられると、本気で思っていたのだろうか、とも思う。なによりパパとママが賛成するとは思えないし、リョウマくんのお父さんが怒っていたのも、子供まで巻き込みたくない、と思っているからだろう。普通はそう思うはずだった。いや、あんなことをしている時点で乙訓のおじさんも十分に変ではあるのだけれど。わたしにはまるで想像もつかないけれど、大人たちにはああいうことをするにあたって、何か立派な理由が、大義名分があるのかもしれない。もちろんそれは世間には通用しない、あの人たちの中でしか成り立たないものではあるのだろうけれど、そんな大義名分にかこつけて、おじさんはわたしへの欲情を正当化したかったのではないか、という気がしてならなかった。おじさんは見るからに理性的な人で、女子中学生とセックスしたくても、「したいからするんだ」と開き直れずに、「正しいからしてもいいんだ」と誰かに言ってほしかったのかもしれない。気持ちよさも正しさも欲しがるなんてかなりの欲張りだ。いつになく頭が働いて、そんなことを考えてしまっているけれど、頭が正しい方向に動いている保証は何もなくて、全部妄想に過ぎないのかもしれなかった。そうは言っても、今のわたしにとってそれは限りなく真実に近い確からしさを持つ考え方だった。

 ががががん、と何かが窓を激しく叩いた。背筋を冷たいものが一気に駆けあがるのを感じながら顔を上げると、窓に黒い人影が貼りついていた。泥棒? と思って、全速力で後ろ向きに這って逃げてドアにへばりついてからもう一度窓を見ると、人影の正体がリョウマくんだと気づいた。なんだ、と安心するのと、人騒がせな、という腹立たしいのが入り混じった気持ちで立ち上がると、ゆっくり近づいて横開きの窓を内側に開く。床に降り立った彼の息は荒かった。自分の部屋から外の壁をつたってここまで来るのにかなりの体力を使ったはずだった。

「ありがとう」

 わたしを見上げた目が優しいので戸惑ってしまう。

「あんた、何考えてるの。夜中にこんなことして」

「だって、ヒカルちゃんが入れてくれないから」

「だからって。それに落ちたら危ないじゃない」

「2階だし、下は芝生で柔らかいから大丈夫だよ。せいぜい足をぐねったりするくらいだよ」

 そう話していても、手はまだかすかに震えている。そこでやっと思い出した。リョウマくんは高所恐怖症だった。小学4年生のときに、2人の家族全員で遊園地に行ったのに、彼がジェットコースターに乗るのを泣いて嫌がって、結局ひとりだけ乗らずに他のみんなが乗って戻ってくるのを待っていたことがあった。そのときは、びびりなんだから、とばかにしていたけれど、そんな男の子があんな真似をして今わたしの部屋まで来ていた。それでも何も感じないほど、わたしは非人情ではなかった。将来的にはもうちょっと非人情になりたいけれど。

「ぼく、ここにいてもいいかな?」

 だから、彼にそう言われても断ることができなかった。

「好きにすれば」

 そう言い放つと、そのまま座り込んでまた膝を抱えながら壁に背中をもたれさせた。リョウマくんもわたしのそばに座る。ここにいるのは一応許したけれど、近くにいるのを許してはいなかったので、多少いらっとする。ちょっと優しくすると、すぐにつけあがるんだから。しばらく経ってから、彼が話しだした。

「あの後、もうひとつの部屋も見に行ったんだけど」

 やっぱりその話になるのか、とうんざりする。でも、今はその話を避けて通るわけにもいかないのかもしれない。その一言だけで、彼は黙りこんでしまった。

「どうだったの?」

 仕方なく先を促す。

「お母さんと、西方さんがいた」

 涙声になっていたのでさすがに気の毒になる。でも、だからあのとき止めたのに、とも思っていた。わたしが見た部屋とリョウマくんが見た部屋の様子を考えれば、残りの部屋がどうなっているかは確認するまでもなく消去法でわかることだった。それに、リョウマくんがお母さんのことを本当に好きなのもわたしはよく知っていた。男の子がお母さんを好きだと「マザコン」と言ってばかにされるようだけれど、自分のお母さんが好きで何が悪いのか、わたしにはよくわからなかった。少なくとも嫌いでいるよりはずっとましだろう。もしも、いつかわたしが男の子を産んだとしたら、その子にはわたしを好きでいてほしいしね。だから、そんな彼には見に行ってほしくなかったのだ。

「そう」

 そんな相槌しか打てない。何を言っても彼を傷つけてしまいそうだ。またしばらく静かになった後で、彼がこんな話を始めた。

「スワッピング」

「え?」

「確かそうだった。ああいうのをそう呼ぶんだ」

「ああいうのって?」

「だから、夫婦やカップルが相手を取り換えて」

「もういい」

 それ以上聞きたくなかった。なんでそんなくだらないことを知ってるんだ、とむかむかしてくる。こんなときだけれど、この前リョウマくんのお母さんがうちに立ち寄ったときに、「あの子はちっとも勉強しなくて」と嘆いていたのを教えてあげようか。

「それで?」

「それで、って?」

「その、スワッピング、だっけ? それって、いったい何のためにやるの?」

「さあ。ぼくはそういうの、全然趣味じゃないから」

 使えないなあ、こいつ。もっとも、そんな趣味の中学生がいたら気持ち悪すぎる。

「趣味じゃないのにどうして知ってるの?」

「それは。その。なんとなく、だよ」

「いつもみたいにスマホで、何かやらしいことでも調べてたんでしょ」

 ちが、と言いかけて黙ってしまった。調べてたんだ。自分で言っておいて引いてしまう。男の子はみんなばかだからそんなものかもしれないけれど。

「どうしたらいいんだろう」

 彼が天井を見上げながら呟く。

「何の話?」

「いや、こんなことを知っちゃってさ、どうしたらいいんだろう、って」

「そんなの、どうしようもないでしょ。やめてほしい、って頼めるわけないし」

「それはそうだけどさ」

 彼もわたしも溜息をついてしまう。

「やっぱり、知らないふりをするしかないのかなあ」

「できる?」

「そうするしかないと思う。ぼくらが大人になって、そうしてあげるしかないんじゃないかな」

「わたしたちのほうが子供なのに」

 思わず笑ってしまう。本当だ。あの人たちは、なんて子供じみたことをしているのだろう。

「そうだね」

 リョウマくんも笑った。暗闇の中で瞳が輝いたのが見える。そしてまた静かになる。もう0時を過ぎていて、部屋の中でも空気が冷たい。涙で濡らしてしまったせいで、ワンピースのお腹のあたりもひんやりしている。気をつけていたのに、結局汚してしまった。

 そのとき、わたしの右手にリョウマくんの左手がそっと乗せられているのに気がついた。重さをほとんど感じない。彼はわたしのほうを見ずに知らんぷりをしている。油断も隙もありはしない。でも、なぜか振り払う気にはなれなかった。

 とん、と隣に座った男の子の左肩に頭を乗せてみた。なぜそうしたかは自分でもわからない。いろいろ考えすぎて疲れてしまって、自分だけで支えられなくなったせいなのかもしれない。前触れもなくそんなことをされて、彼の身体がびくっと硬直するのがわかった。それが好きな女の子と触れ合ったときの正しい反応なのだろうか。

「え、ヒカルちゃん? ちょっと、いったい」

 声が震えすぎて波打っている。

「嫌ならやめるけど?」

「いや、いや、ちっとも嫌ではありません」

 何故か敬語になっている。ああ、本当にばかなんだな。左手に込められた力がだんだん強くなってきていた。痛くなるぎりぎり手前で止まってくれればいいのだけれど。

「あのさ、ヒカルちゃん。ぼく、ちょっともうやばい。ヒカルちゃんって、すごくいいにおいがするからさ、ちょっともう我慢できない」

 声が上ずりすぎてアニメのキャラみたいになっている。そういえばまだシャワーを浴びていなかった。この子は何をそんなに興奮しているのか、とそうさせた張本人なのに観察している気分になっていた。

 正面からわたしは抱きすくめられていた。強い力で動けないし逃げられない。でも不思議なことにまったく怖くはなかった。

「あのさ、ヒカルちゃん。さっきも言ったけどさ。ぼくは本当にヒカルちゃんのことが好きなんだ。大好きなんだ。きみがほしくてたまらないんだ」

 そう言われても身体と同じで心は動かない。わたしには、彼の荒い呼吸に耳を澄ませることしかできなかった。告白に返事をしないのは夕方と同じでも、あのときは言葉を探す努力を一応していたのに、今はそれすらも必要のない気分になっていた。わたしが黙っているのに辛抱しきれなくなったのか、彼の身体がぶるっと一度だけ激しく震えた。

 唇と唇とが一瞬触れ合った。味も何もしない。ただ、柔らかい感触だけがあった。彼がわたしの目をのぞきこむ。反応を確かめたかったのかもしれないけれど、それはとてもいかがわしいことのように思えて、できればやめてほしかった。あーあ、とうとうされちゃったよ、と石ころでも蹴りたかったけれど、そこへもう一度、一人殺すのも二人殺すのも同じだ、というセリフが頭の中によみがえってきた。唇にする気はなぜか起きなかったので、彼の左頬に軽くキスをした。彼の身体がまたびくっと固くなった後ですぐにふにゃっと力が抜けてしまった。いちいち反応しすぎなので動物実験でもやっている気分になる。そこで急に思い出した。幼稚園のころ、リョウマくんの家の庭でビニールプールで一緒に遊んだことがあった。ちょうど夏休みで、確かサラもいた。何かのはずみでそうなったのか、細かくは覚えていないけれど、目の前にいたリョウマくんに温かい気持ちが急にこみあげてきて、左頬にキスをしたのだ。まだ小さいころは、パパとママによくそうしていた。もちろんもうやってはいないけれど、パパは今でもたまにわたしにキスをせがんで、ママに「ばかね、やめてよ」と怒られている。とにかく、そのころはちょっと好きな人にはすぐにそんなことをしていたのだ。わたしにキスをされて、リョウマくんは固まってしまっていた。考えてみると、今と反応が変わっていない。その後すぐにおやつか何かで呼ばれて家の中に入ったので、リョウマくんがどうなったかは覚えていない。

「そうか」

 頭の中だけで呟きながらわたしは目を閉じた。わたしが彼を勘違いさせてしまっていた、ということもあるのか、とひそかに思っていた。だからといって、その責任を取りたいとも思わなかったけれど、理由はどうあれ今は彼の腕の中で動く気になれずにいた。そこでもう一度唇が重ね合わせられた。今度は一瞬ではなく、かなり長い間それは続いた。


 電気をつけたい、と頼まれても、大人が様子を見に来るかもしれない、と言って断った。もちろん本当の理由は裸を見られたくないからだ。すると、今度は服を脱がせたい、と言って来た。女の子の服がどうなってるのかわかってる? といらいらしながら聞いたら黙ってしまった。こうなった以上、わたしのペースでやらせてほしい。

 恥ずかしさはもちろんあったけれど、恥ずかしく思っていると気づかせたくはなかった。どうせ裸なんて子供のころに見られているのだ。いまさら気にする話でもない、と思いこもうとする。ワンピースを脱いで、アンダーの上も下もさっさと脱いでしまう。他に誰もいないかのような情緒のない脱ぎ方だな、と思ったけれど、情緒なんて出してもしょうがない。何も着ていないわたしを見たリョウマくんは固まっている。何か言えよ、と思うのと、何も言ってほしくない、と思うのが同時に起こる。彼に対する相反する感情がわたしの中に常にあるらしい。とりあえず、胸のことを何も言ってこないのはよかった。何か言っていたら、ぶん殴って外に追い出すつもりだった。いきなり、リョウマくんが両手を軽く前に差し出したまま、わたしのほうへふらふら歩きだした。ふー、と息も漏れていて、まるでゾンビだ。

「あんたは?」

 あわてて言うと、彼の動きは止まった。

「え?」

「あんたは脱がないの?」

 そう言われて少し考えると、

「見たい?」

「ん?」

「ぼくの裸も見たいの?」

 そんなわけあるか。でも、これ以上「脱げ」と言うと、見たがっていると思われてしまうかもしれない。罠にはめられた気分になって、ベッドに横たわる。わたしだけが裸だとそれだけで負けているように思ってしまう。

 すかさず彼が覆いかぶさってきた。がっついてるな、と思う。パパがごんに「待て」を仕込もうとしたけれど、あの子はエサを目の前にすると全然我慢できなくて、結局あきらめたのを思い出した。素肌に服がこすれて少し痛い。あのなぞなぞみたいなおかしな服装のまま、彼はこんなことをしている。またキスをされた。わたしはもう十分だったけれど、彼はまだ飽きないようだ。うわ。舌が入ってきた。ぬめぬめして気持ち悪い。歯茎まで舐められた。舐めすぎだよ。虫歯菌が伝染らないか、と思ったけれど、わたしから伝染されたとしてもそれはそれで彼は喜びかねなかった。なんといっても、ばかだから。

 彼の顔が下りていく。首筋に唇をつけられて、強く吸われた。次は胸。腋。おへそ。おいおい、と思った。わたしの身体全部をそうするつもりなのだろうか。コーティングでもするつもり? と思って気持ち悪くなった。でも、こうなるのをわたしも拒否しなかったのだから、もうしょうがない。悪いのは彼ではなくわたしだ。

 わたしでもよく見えないところを見られて、わたしでも触らない場所を触られている。自分の身体を他人が好き勝手にしているのも不思議なものだった。その間、彼はずっと、かわいい、とか、好き、とか言い続けている。頭がおかしくなってるなあ、と思ってしまう。いつもそこそこおかしいけれど、今はあっちの世界に完全に行ってしまっている。そういうわたしも実はあまり冷静ではない。頭が熱くなって鼻の通りが悪くなった気がする。目も少しかすんできた。

 いきなり彼がベッドから下りた。え、と思って寝たまま顔を少しだけ上げると、もどかしそうに腰に手をやっていて、かちゃかちゃと金属の鳴る音が聞こえる。ズボンを脱いでいるんだ、とわかってちょっと怖くなる。ついに、か。電気を消したままにしておいたおかげで何も見えないのはよかったけれど、それでも彼の下半身に何か尖ったものがあるのは気配だけでわかる。またベッドに2人分の体重がかかった。緊張で身体を固くして、目を閉じる。

 いくら待っても何も起こらない。あれ? と思って目を開けるのと同時に、彼がベッドから下りた。また金属が鳴る。ズボンを履き直しているらしい。

「どうしたの?」

 舌足らずなしゃべりかたになってしまった。何かわたしにだめなところがあって、やる気がなくなったのだろうか。もちろん、どうしてもしたいわけではないけれど、それでも途中でやめられるのはそれなりに傷つくことみたいだった。

「ごめん。大事なことを思い出したから、いっぺん部屋に戻ってくる」

 はあ? と声を出してしまう。ここまで来てどうしてそうなるのか。飲み物がないから近くのコンビニまで行って買ってくるのと同じ調子で言わないでほしい。何考えてるの、と怒ろうとして、そこでやっと思い当たった。避妊だ。その用意をしなければならない、と彼は気づいたのではないか。そういう道具があるらしいのはわたしも知っていたけれど、彼はそれを持たずにここまで来たのではないか。逆に持ってきていたらそれはそれで気持ち悪すぎるけれど。

「なによ、大事なことって。もう別にいいじゃない。こんなの。どうなったっていいじゃない」

 泣き声になってしまっていた。自分でもみっともないとわかる。でも、それはわたしの本心でもあった。避妊なんかしなくても別にいい。パパたちはあんなことをしていたし、わたしもこんなことをしてしまっているし、こんな世界は消えてなくなったほうがいいんだ、と中二病みたいなことを考えてしまう。でも、実際今わたしは中2だから、そう考えるのは病気ではなくてただ単に年相応なだけなのかもしれない。

 裸の肩を優しく抱かれた。

「大丈夫だよ、ヒカルちゃん」

 わたしが感情的になっているのに、彼はあくまで落ち着いていて、それはそれで腹立たしい。

「ぼくはヒカルちゃんを、本当に大事だと思っているんだ。だから、ちゃんとしたいんだ。ちょっと待っててくれる?」

 そう言うとリョウマくんはわたしのおでこに軽くキスをした。何度もキスをされて、身体中を舐められたり触られたりしても、いっこうに何も感じなかったのに、そのキスにはどきっとしてしまった。ひどく甘い感じがした。あまりに甘くて勘違いしてしまいそうになる。まるで、わたしもリョウマくんのことが好きなのだと。

「いい?」

 黙って頷く。自分が5歳の子供に戻った気がした。といっても、たかだか9歳若返っただけなのだけれど。

「ありがとう」

 そう微笑むと、彼は部屋の奥へと向かい、窓を開けて外へと出た。また壁をつたって自分の部屋に戻るつもりらしい。すぐに彼の姿が見えなくなる。

「あ」

 そんな必要ないのに、と気づいた。入るときはわたしが鍵を開けなかったからわざわざ外から来るしかなかったのだけれど、もう普通にドアから廊下に出てよかったのに。同じ方法でないと出入りしなければならないきまりなんてあるわけがないのに、リョウマくんはそう思い込んでしまっているらしい。でも、いまさら引き返すように言えもしない。途中で声をかけたら落ちてしまうかもしれない。

「もう。本当にばかなんだから」

 声に出して笑ってしまう。起き上がって、ベッドから下りる。何かがつまさきに当たった。暗い部屋でも白いものだとわかる。拾ってみると、お城のぬいぐるみだった。パニックになっても落とさずに持って帰ってきていたらしい。奇蹟だ。明日ルリに渡してあげなきゃね。温かい気持ちが湧き上がってくる。

 時間が経ちすぎていた。裸だから余計に寒く感じる。コンドームを取ってくるだけなのに、何をまごまごしているのだろう。まさか、ここに戻ってくるのもまた外からやってくるのだろうか。かといって、わたしから向こうの部屋に行くわけにもいかない。もう、バカリョウマ、と思うのと同時に窓ガラスがこんこん叩かれた。やっぱりそっちから来たのか、とうんざりしながら、脱ぎっぱなしにしていたワンピースで前を隠してから、窓を開けてあげる。わたしが待ちくたびれていたとは考えもしていなかったのか、彼は微笑んだまま、窓の縁に両足を乗せている。

「ほら。ちゃんと見てきたよ」

 何のこと、と思っていると、彼は左手でズボンのポケットからスマホを取り出した。ぱっと画面が光って、そこに「正しいSEXのやりかた」という文字があるのが見えた瞬間に、どん、と彼の身体を思い切り空中へと突き飛ばしていた。ものも言わず彼が宙をゆっくりと舞う。何かが地面に落ちる鈍い音を聞いてから、窓を勢いよく閉めた。そのまま、その場に座りこんでしまう。

 なに? わたしを抛っておいて、そんなことを調べてたの? そんなこと調べなくてもなんとなくわかるでしょ。マニュアルを見ないと何もできないのか。ばかじゃないの。ばかじゃないの。

 そんなことが脈絡なく頭に思い浮かぶ。ばかすぎて怒る気もしない。溜息しか出てこない。

「もう寝よう」

 そう呟いて、手にしていたワンピースを着直してベッドに寝転がる。嫌なことは寝て忘れるしかなさそうだった。身体がべとべとするけれど、シャワーは明日の朝にしよう。あいつと出くわしても嫌だし。

「あ」

 そこで彼が無事なのかどうか、はじめて気になった。打ち所が悪くて怪我していたらどうしよう、と思ったけれど、2階だし地面が柔らかいから大丈夫、と彼も言っていた。だいたい外から来るのが悪い。知るもんか、あんなやつ。ふん、と鼻を鳴らして無理に寝ようとする。

 結局、その後、彼がわたしの部屋のドアをノックすることはなかった。死ぬほど反省してほしい。

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