第27話

 お袋は俺の両肩を掴んだ。


「ちょっ、母さん、どうしたんだよ!?」


 中年の一般女性とは思えない気迫で俺を圧倒、そのまま階段下まで俺を追いやった。そのすぐそば、玄関横の棚に置かれた固定電話を手にし、素早く一一九とダイヤルする。

 その時の俺に与えられていた情報は、『リビングで何かがあったらしい』ということだけ。


「一体どうしたってんだよ……」


 首を傾げながらリビングに向かおうとお袋に背を向ける。が、そんな俺の後ろ襟を、お袋は片手でむんずと捕まえた。


「うおっと!」


 その場でたたらを踏む俺には目もくれず、お袋は淡々と電話先の質問に応じていた。


「はい、はい……夫です。昨日までは普通に生活を……」


 親父? 親父の身に何かあったのか? それで一一九となると、心臓発作とか脳内出血とかで倒れたというところだろうか。


 再びリビングへ向かおうとする俺を、お袋の悲鳴が引き戻した。


「俊介、行かないで!!」

「ッ!!」


 今度は息をも詰まる勢いだった。俺の首は容赦なく上半身のシャツに絞められ、喉仏が潰れそうになる。かと思えば、布地が限界を迎えたのか、ビリビリと俺のシャツは裂けてしまった。

 と同時、両腕を伸ばし、ギリギリで立っていたお袋は、電話機の方も引っ張り込み、壁からケーブルが外れる事態となった。

 俺はお袋の腕を振り払おうとしたが、それには及ばなかった。


「う……うぁ……」


 精根尽き果てたのか、お袋はもう通じない受話器を握ったまま、泣き崩れた。瓦解したと言っても過言ではない、身体がバラバラになるような勢いで。

 もちろん、こんな状況なのだから、俺は『お袋に肩を貸す』なり『水を持ってきて飲ませる』なり選択肢はあったはずだ。だが、それよりも半ばパニックの伝染を受けてしまった俺は、怖いもの見たさも相まって、三度リビングへと足を向けてしまった。


 ちらりとお袋を振り返る。これ以上衣服を裂かれては困ると思ったのだ。が、お袋は完全に沈黙し、涙と鼻水で玄関フロアに水たまりを作っていた。

 俺は思い切ってお袋から視線を外した。リビングへと一歩、また一歩と踏み出す。そして、親父と邂逅した。


 その瞬間のことは、よく覚えていない。親父の足が浮いていて、全身が脱力し、首に縄がかかっていた。

 認識できたのはそこまで。実際の首つり自殺というのは、頚椎の骨折やら気道の圧迫やらが原因で死に至るそうだが、これらは単なる後づけの知識にすぎない。重要なのは、親父が『自ら』命を絶った現場に居合わせた、ということだ。


 だが、考えてみれば妙なものだ。その事件以降、いろんな書籍やネットの情報にあたってみたが、どうも生物は『自らの生存』を第一に考えるものらしい。つまり、親父が行ったような自殺というのは、極めてイレギュラーな行為だと言える。


 となると、そのイレギュラーな行為の原因は、親父の内心ではなく外部にあるわけだ。そして、この事件の表舞台に引っ張り出されたのが、お袋だった。

 親父は平々凡々なサラリーマンだったが、出身は古い名家だった。だからと言って、直接的に俺たち家族に影響があったわけではない。しかし事ここに至って、『名家出身』の親父の肩書は、お袋に牙をむいた。

 妻であるお前が主人の自殺を招いたのだ、と。


 我が家の家系から、自殺などする脆弱な者が現れるわけがない。

 内心からこの世を憂うような暗い人間が出るわけがない。

 だから、原因は家庭環境にあるはずだ。

 

 それが、名家としての、親父の実家による見解だった。

 今思えば滅茶苦茶な話だ。誰にだって弱みはあるし、凹む時もある。問題は、それを外部に訴え出ることができるかどうかだ。親父とお袋は仲が良かった、というか喧嘩したことがなかったようだし、それは十分可能だったのではないか。


 しかし、それは数ヶ月後、あっさり破られることになる。


「俊介くん、世の中そう上手くはいかないんだよ」


 弱った顔をしながら相談に乗ってくれたのは、伯父だった。親父の兄だ。


「名家の出身だからこそ、自分が耐えて見せなければ。お父さんはきっとそう思ったんだ。私の弟だからね、考えることは分かる。だが、そうやって我慢することが、お父さんにとって、自分で自分の首を絞めるような結果になってしまったんだ」


 と、そこまで語ってから、伯父ははっとした様子で口元に手を遣り、


「俊介くん、本当に申し訳ない!」


 と言って畳の上で頭を下げた。


「えっ、申し訳ないって、何が……」


 俺がポカンとしていると、伯父はゆるゆると顔を上げ、


「あ、ああ、何ともないならそれでいいんだ。気にならなければ……」


 という謎の言葉を放ち、素早くお袋に礼をして去っていった。

 今思えば、なるほど、絞首自殺した親父の話の中で『首を絞める』という言葉を使ってしまったことで、俺が不快な思いをしたと思ったのだろう。そのことに気づいたのは、実はつい最近のことだ。


 伯父が突然やってきて、俺とお袋に面会の機会を設けた時期。その頃には、本家・葉山家からのお袋への風当たりは相当なものになっていた。

 まず、家への書類の投函数が一気に増えた。それらは、親父が死んだことへのお悔やみの皮を被った、お袋へのいわれもない誹謗中傷だった。何故俺がそんなことを知っているのか、というか察しているのかと言えば、ある夜、お袋のすすり泣きを聞いてしまったからだ。


 そっと、灯りの漏れ出すお袋の自室を覗いてみると、化粧台に座ったお袋の背中が目に入った。次に、その前に置かれた封筒の束。あのすすり泣きは、悲しみや喜びによるものではない。そんなことは、直感的に察せられた。これはきっと、悔し泣きなのだ。それは、俺にも肌で感じられた。


 次に、イタズラ電話があった。無論、二回や三回ではない。多い日で二桁。大抵は無言で切れたが、たまに変声機を通したような無機質な声で『死ね』『殺す』などと吹き込まれたこともあった。

 初めて俺がイタズラ電話を取ってしまった時の言葉は、『この恥さらし!』という甲高い声で、その日は流石に寝つきが悪くなってしまった。


 ここで重要なのは、俺がイタズラ被害に遭った回数は、所詮氷山の一角に過ぎない、ということだ。特に書類・手紙の類については、お袋は決して俺には見せようとしなかった。見たいとも思わなかったが。


 恐らく、本家の連中がお袋を責めるために、近所の人たちをそそのかしたのだろう。幸い、俺は葉山家の血を継いでいる、ということで攻撃対象を免れた。それでもお袋がされていることを思うと、居ても立ってもいられなくなった。それで勉強に支障が出たとしたら、と思うと背筋が凍る思いがした。


 幸い俺は現役時代に狙っていた志望校に合格を果たし、それを機に、お袋とは別々に、それぞれ引っ越したわけだ。それがどちらも上手くいっていないことは、もはや言うまでもない。

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