第26話

 お袋は笑みを深める。『おっちょこちょい』と言われて気分がよくはないが、かと言って悪くもない。そんな、親子の距離感。母子の駆け引き。


 通されたのは、少し手狭なダイニングキッチン。冷蔵庫や炊飯器、コンロが並び、奥にはシンクがある。中央には楕円形のテーブルだ。

 どれも小奇麗にされていたので、俺はほっとした。お袋が精神的な病か何かで、まともな生活を送れていないのではと思っていたのだ。しかし、それは杞憂だったらしい。


「俊介が来ると分かってたら、ケーキくらい準備したのに」


 冷蔵庫の陰に引っ込むお袋の背中を見ながら、


「そういう風な気を遣わせたくなかったから、敢えて何も言わずに来たんじゃないか」


 と、俺は誤魔化しながらも唇を尖らせる。


「まあ、これで我慢してちょうだい」


 台所から戻ってきた母が両手に持っていたのは、近所の和菓子屋名物の煎餅だった。


「あらいけない、飲み物出すの忘れてたわね。喉渇いたでしょう?」

「ああ、いや、大丈夫。買ってきたから」


 俺は背負ったリュックサックから炭酸飲料を取り出して見せた。


「そんなものばっかり飲んでると、骨が溶けちゃうわよ」

「たまにしか飲まないよ。心配しないで」


 俺はテーブルの、入り口側に座った。真横の窓から、さんさんと陽が照りつけている。観葉植物だろうか、反対側には、無造作に花瓶に挿された花が飾られている。というか、伸びるがままになっている。


 俺は五百ミリのペットボトルのジュースをラッパ飲みした。

『飲み物はなくても大丈夫だ』とお袋に知らせるつもりだったのだが、お袋は冷蔵庫を漁ったり、麦茶をコップに注いだりで、全く気づく様子がない。

 というか、わざと無視しているのだろうか? もしかしたら、久々に会った息子に世話を焼きたかったのかもしれない。


「お待たせ、俊介」


 お袋は麦茶のコップを二つ持ってきて、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。


「ああ、ありがとう」


 軽く意地を張っていた俺だが、やはり真夏の水分補給に、飲み物の飲みすぎということはないらしい。一気飲みしてしまった。それだけ麦茶が美味かった、ということでもある。


「麦茶、まだあるから自由に飲んでね」

「うん」


 コトリ、とコップを置きながら、俺は頷く。すると顔を上げた時、ちょうど席に座り直したお袋と目が合った。


「で、今日はどうしたの?」

「ああ、それが――」


 と言いかけて、俺は一旦、口をつぐんでしまった。だが、ここまで来た以上、引き下がるわけにはいかない。


「最近、人助けをしたんだ」

「あら、よかったわね。一体何があったの?」


 興味津々で俺の顔を覗き込んでくるお袋。

 その目を見て、俺は狼狽した。俺が今から語ろうとしていることは、今のお袋にはキツすぎるのではないかと思ったのだ。だが俺とお袋の間に、心理的な壁、隠し事はしたくない。

 そこまで思い至って、俺は口を開いた。


「自殺しようとしていた人を助けた」


 一瞬、静寂が訪れた。セミの鳴き声が、馬鹿みたいに俺の鼓膜を震わせる。それだけ俺には勇気の要る発言だったのだ。

 しかしお袋は、特に驚く様子はない。


「あら、素敵じゃない」


 と、両手で頬杖をつきながら嫌味のない笑みを向けてくるばかり。

 俺はどうしたものかと思ったが、お袋は表情を崩さなかった。ただ少し、笑みを浮かべるのとは別に、皺が深まったように見える。


「どうやって助けたの?」

「それは――」


 俺は、神崎がパイプの下敷きになった件について語って聞かせた。とんでもない事故だったが、お袋は全く落ち着いた態度で、うんうんと頷きながら聞いていた。


「じゃあ、その場にいた皆で、神崎さんを助けたのね?」

「うん。まあ、俺にできたことなんて微々たるもんだったろうけどね」


 そう。微々たるもの。しかしそれで救われる命があることを、俺は二年前の事件を思い出しながらぼんやり考えていた。


         ※


「俊介、釣りに行こう!」

「は?」

「釣りだよ。浪人が決まって大変なのは分かるが、リフレッシュも必要だぞ。父さんの腕前を見せつけてやる」

「んなこと言ってる暇があったら、せめて邪魔しないでくれる?」

「全く、俊介はつれないな。魚は釣れるのに!」

「……」


 俺は必死に耐えていた。勉強中だというのに、親父がうるさい。

 俺にとって浪人することは、さして精神的苦痛をもたらすものではなかった。まあ、人生こんなもんだろうというくらいの認識にすぎない。だが、その邪魔をされるのは心外だった。自分の努力が他人に踏みにじられるようで。


 そもそも、最近の親父の言動がおかしいのだ。半年前から、何やら精神疾患で会社を長期休養することになり、一日中布団を引っ被っているのが普通だった。

 しかし、今日の親父は、ここ数ヶ月の休養の中で最もおかしかった。つい先ほどの、両親の会話を思い出す。


「あなた、大丈夫なの? 無理して立たなくても……」

「心配するな。今日は調子がいいんだ」


 明るい会話に興じる親父。その対象が、今度は俺に向いたということらしい。


「なあ俊介、つき合ってくれよ。お前も少しは自然に触れて気分を切り替えた方が、勉強もはかどるぞ」


 俺はシカト。


「微分と積分だな? どれ、父さんが見てやる」


 すっと俺の手元から、テキストを取り上げられた。


「あっ、おい!!」


 俺は座ったまま手を伸ばした。が、親父はわざと意地悪をするかのように、ひょいひょいとテキストを振り回す。

 畜生、せっかく集中でき始めたところだったのに……!


「返してくれよ、父さん!」


 と言った直後、


「ぶわ!」


 椅子が傾き、俺は椅子ごと机の引き出しのあたりに倒れ込んだ。


「いってぇ……」

「おお、分かったぞ! ここの答えは――」


 その答えが何だったのかは覚えていない。それよりも、


「返せよ!!」


 と怒鳴ったことの方が、ずっと頭に残っている。


「ん? ああ、悪い悪い。邪魔したか」


 俺は無言で、親父の手からテキストを引ったくる。


「父さん、俺は遊びでやってるんじゃないんだぞ!? 釣りだか何だか知らないが、出てってくれ!」

「おい俊介、鼻血が――」

「いいから消えろ! 鬱陶しい!」


 この言葉は、咄嗟に怒りが表出したものだ。しかし、この二言、今になって思えば、親父にとっては致命傷だったのだ。


 言ってみれば、ストレスで限界だった親父の心、崖っぷちで立ち続けている親父の背中を、俺は言葉という武器で思いっきり突き飛ばしたのだ。

 当時の俺にはそんな実感はなく、ただただ怒っていた。とても冷静ではいられない。

 親父の差し出してきたティッシュペーパーを、親父の手を叩くことで突き落とした。普通だったら喧嘩にでもなりそうなパターンだが、親父は、揺れる瞳で俺と視線を合わせた後、『そうか』と呟いて出ていった。


 翌日、親父は自殺した。


 第一発見者はお袋だった。

 俺が勉強中居眠りしてしまい、そのまま朝を迎えたその日。シャワーを浴びようと階段を下りたところで、お袋がリビングの前でへたり込んでいるのを俺が見つけた。


「母さん、どしたの?」


 などと呑気に声をかける。

 お袋は手を口に当て、もう片方の腕で、倒れそうになる自分の身体を支えていた。


「なあ、母さん?」


 不覚にも居眠りをしてしまったことでイラついていた俺は、無造作にお袋に歩み寄り、お袋の視線の先にあるものを見ようとした。しかし、


「俊介、見ちゃ駄目よ!!」


 というヒステリックな、狂気じみた声に足を止めた。今思えば、俺の全身を震わせるようなお袋の声音は、一種の悲鳴だったのかもしれない。

 そこからのお袋の対応は早かった。火事場の馬鹿力、という言葉があるが、似たようなものだと俺は思う。混乱が一周回って、お袋は冷静になったのだ。

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