Across the strait ③

 眼前一杯に広がる紺の深淵。私は目を凝らして、海面、或いは海中にその声の源を探す。

「あおちゃん、あれ!」

 刹那、クロウタドリが私が見ていたよりも下方を指差して、声を張り上げた。その指先を目で追ってみると、橋が落とした影で周囲より暗くなっている水面に、幾つかの飛沫が点々と続いているのが見えた。暗いせいで最初は良く分からなかったが、よく見てみると、飛沫は相当な範囲で上がっている。それらはやがて影を抜け、日光が照らす海域の中へ。すると、飛沫を上げている正体であろう、周囲の紺より更に色が深い魚影のようなものが、その先頭、二つの大きな影を追って群れを成している様子が分かった。

「……魚の群れ?」

「いや、あれは――」

 クロウタドリがそう言いかけた時、先頭の二つの影が海面にその一部を顕した。それらは、一様に日の光を受けてきらりと輝く。光沢のあるダークグレーの両側部から生える二つのヒレ様のもの。――イルカか? そう思ったが、続いてその下からヒトの身体そのものが姿を現したので、それで日に輝く二つの光沢物がアニマルガールらの頭部であることが分かった。

 二人はほぼ同時に背後を振り向く。片方の少女が後ろの飛沫を指差し、もう片方に対して何やら騒ぎ立てているようだが、大分距離が離れてしまったため何と言っているのかはここからでは判別がつかない。

「何してるのかしら」私は横のクロウタドリにそう話しかける。

「……あんまり悠長に高みの見物をきめている状況でも無さそうだ」

「え?」

「見えないのかい? あの二人の後ろにあるあれが」彼女は再び二人の方を指差す。「――セルリアンの大群だよ」

 私は再び彼女たちの方へと目を凝らす。そして、気付く。魚群だと思っていたそれが、到底魚ではあり得ないような極彩色の色を、砕ける波間に覗かせながら二人の方へと進んでいくことに。

「それって」私は今更大きな声を上げた「不味いじゃない!」

「ああ、不味いよ。でもここからじゃどうにも出来ない」

「じゃあ、見捨てるっていうの?」

「まさか。でも、今飛べる僕が単騎で乗り込んだとして、一人を救うのがやっとだろうな。だから、こうする外ない」

 彼女は、両手を口の傍に当てると、身体が仰け反る程深く息を吸い込み、そして、解放した。


「そこのっ、君たちぃぃぃーーーーーっ!!」


 出し抜けに出された大声に、私は思わず耳を塞ぐ。凄まじい声量――一体どんな肺活量をしていると言うんだ。

 クロウタドリの大声が届いたのか、遠くの波間に浮かぶ二人が、一斉にこちらの方を振り向いた。

「追われてるんだろぉっ? 早くこっちまでっ、来るんだぁぁーーーーーっ!!」

 二回目の大声から数秒経って、二人は顔を見合わせると、間も無くして海の中に潜り込んだ。二つの影は、セルリアンと鉢合わせないよう、大きく弧を描くかたちでこちらへと引き返してくる。

「……あなたね」

「何だよ」クロウタドリは息も切らさず、何事も無かったかのようにこちらを振り向く。

「ここから叫ばなくたって、二人の方まで飛んで行って、上から声を掛ければよかったじゃない」

「音速は毎秒約340m。僕が直接飛んでいくよりそっちの方が遥かに早く言いたいことが伝わるだろ」それに、と彼女は付け加えて言う。「体力も、サンドスターも、

 私は首を傾げた。そんな私を尻目に、彼女は体のストレッチを始める。脚の腱を伸ばしながら、彼女は私に指示を飛ばす。

「イルカちゃんなのかそれ以外の海獣ちゃんなのか分からないけど、あの子達の泳ぐ速度は相当なものだから、間も無く橋の下に着くだろう。あおちゃんは、二人に橋脚を伝って上に登るように伝えて」

「橋脚を伝ってって……海面からここまで30m以上はあるわよ」

「大丈夫だよ、アニマルガールだし」

 なんだその謎の根拠は、と思って眉を顰めた私だったが、その時早くも下からこちらを呼び掛ける声が響いてきたので、私は急いで欄干の方へ駆け寄ると、クロウタドリに言われた通りのことを、声の限りを尽くして伝えたのだった。


 暫くして、二人の少女が橋の上に姿を現した。中層ビルクラスの高さを登ってきた彼女たちの身体能力には勿論、海を上がってから10分と経っていないのに服がすっかり乾ききっているのにも驚いた。彼女たちが着ている服は見た目では普通のセーラー服のようなもので、撥水素材には決して見えないのだが。

「あんた達、セルリアンハンター?!」

 二人のうち、若干背の低い方のアニマルガールが開口一番そう訊ねてきた。

「いや、違うけれど……」私はその勢いに戸惑いつつもそう返答する。

「えぇっ?! じゃあまずいわよーっ!」

 彼女は私の返答を聞くや否や、頭を抱えてそう言った。ユメちゃん、落ち着いて、と背後の少し背の高い少女が彼女を宥める。

「ハナはいっつもそうやってのんびりしてっ! セルリアンに追われたのも岩場でマイペースにイカ探しなんかしてたハナが悪いんだからね!」

「え~? ユメちゃんがブリーチングして遊んでたからセルリアンがやってきた音に気付かなかったんじゃないの~?」

「はあ~?!」

 青筋を立てんばかりの強い苛立ちを見せるユメちゃんと呼ばれたアニマルガールと対照的に、ハナと呼ばれた彼女は大した焦りも見せず、悠々と身体をぶらつかせている。

「大体ね、あんたがさっき──」

「君たち、名前は?」

 頭上で腕をストレッチしつつ、クロウタドリが二人の諍いに割り込んでそう訊ねた。鋭い舌鋒を遮られた「ユメちゃん」は、今度は持て余した怒りの矛先を、クロウタドリが入れた横槍に差し向ける。

「あんたね、さっき私たちを呼んだのはっ! セルリアンハンターでも何でもないっていうじゃない。どうしてくれんのよ、助けてくれると思ったからわざわざ苦手な陸まで上がってきたのにっ!」

「まあまあ。それで、名前は?」

 ぶつけた怒りをあっさりといなされた彼女は、再び何か言い返そうとするが、既の所でそれを飲み込み、肩で荒く数回呼吸をしたのちに、「ユメゴンドウよ」とぶっきらぼうに応えた。

「君は?」クロウタドリは視線を背後の「ハナ」に向けてそう訊く。

「わたしはハナゴンドウ~」そう名乗る彼女は、相も変わらずのんびりとした口調だ。

「そう。ハナちゃんにユメちゃんね。安心してよ、君たちは僕らが守るからさ」

 彼女のその言葉に、私も含め、きょとんとする。「僕ら」? いや、私はどちらかと言うと守って欲しい側なんだけれど……

 その時、下から聞こえた大きな音と共に、橋が僅かに揺れた。すぐさま反応したユメゴンドウは、欄干に走っていき、見下ろす。

「ああっ! やっぱり来てる!」

 彼女に続いて3人が下を見てみると、続々と海上へと姿を現していく極彩色の物体が、橋脚へと張り付き、じりじりと上へ登ってきていた。

 ――あれが、セルリアン。異変の時目撃したあの巨大セルリアンと比べればどれも遥かに小さいが、この世のものとは思えないその異形に、私は全身が粟立つのを感じた。

「ユメちゃん、ハナちゃん」至って冷静な声で呼びかけられたクロウタドリの声を聞いて、二人が顔を上げる。どちらも不安の色をその表情に浮かべていた。

「二人は、少し離れた橋の中央で、あおちゃん――この背高のっぽの子ね――の後ろに隠れてて」

 二人の目が一斉にこちらを向く。え。いやいや。私はクロウタドリに困惑の表情を向ける。二人を守るだなんて無理だって、と目で訴えた。

「君は特段何もしなくていいよ。ただ中央分離帯の上でじっとしていてくれ。後は全部、僕がやるからさ」

 私の訴えを読み取った彼女は、そう言ってのける。自分の肩の荷が下りたことにほっとするのも束の間、彼女の最後の言葉が頭に引っ掛かった。

「後は全部って……あなた、もしかして――」

「一人で倒すつもりなの?! いやっ、無理、無理無理無理無理!!」

 私の言葉を引き継いでユメゴンドウがそう叫んだ。私も同意見だ。橋脚に張り付いていたセルリアンの数は優に100匹を超えていた。あれくらいの大きさのセルリアンがどれほどの力を持つかは知らないが、一人で対処できる数を超えている気がする。

「いいからいいから、行った行った」

 クロウタドリはそう言うと、ごねる私たちをずいずいと両手で橋の中央へと押していく。彼女は―― 一体どうするつもりなんだ。そんな疑問と不安を抱えながら、押されるがままに私は歩いていくのだった。



***



 植栽がある中央分離帯は、身を隠すのにうってつけだった。茂みに三人が隠れ終わったのを見届けると、クロウタドリは路上へと足を踏み入れる。

 私は植え込みから顔を出して、橋の縁の方を伺った。さっき私たちが見下ろした欄干の所からは、既に幾匹かのセルリアンが溢れ出していた。もうあんなところまで――私は改めてぞっとする。

「本当に無理だって」

 背後から囁かれた声に私は振り向く。そこには、体育座りで縮こまっているユメゴンドウの姿があった。さっきまでの威勢のいい様子は何処へやら、今は不安と恐怖で目の端に薄っすら涙すら浮かんでいる。

「あんな数、ハンターが10人いてやっとだよ。あんなに小さなフレンズじゃ、敵いっこない。あの子が負けたら、今度はあたしたちが……」

 消え入りそうな声でそう呟く彼女。大丈夫だよ、とその後ろにいたハナゴンドウが彼女の方に手を置いて勇気づけた。

「きっと、作戦か何かがあるんだって。だからあんなに自信満々なんじゃないかな」

「……あんたはなんでこんな時も楽観的なのよ」

 ユメゴンドウが涙目で彼女の方をきっと睨む。えー、とハナゴンドウは彼女の問いに困ったような声を出す。

「そんなに楽観的かな。それに、わたしだって怖いよ? 輝きが奪われちゃうのは嫌だし~」

「それどころの話じゃないわよ。死んじゃうかもしれないんだから」

 死んじゃうかもしれないんだから。その言葉に、私はどきりとした。異変の際に飼育員に言われた、セルリアンに取り込まれたアニマルガールはまず助からない、という言葉が頭を過る。今の今まで意識していなかったが、私は今、昨日崖に落ちかけた時と同じ様に死の危機に瀕しているのか。

「じゃあ……もしも危なくなったら、ユメちゃんだけ先に逃げて? 前みたいにわたしが引き付けて時間を稼ぐからさ~」

「それはダメッ!!」

 ユメゴンドウはハナゴンドウの提案から間を置かずしてそう叫んだ。彼女の眉間には先程以上に深い皺が刻まれていた。

「ダメ……そんなの、もうあたしが許さないわ」

 彼女は涙を拭うと、口の端を引き結び、その場に矢庭にすっくと立ちあがった。

「ユメちゃん……?」

「あたしは、もう逃げない。あんたを二度と危険な目に遭わせないって、心に誓ったんだからっ」

 立ち上がった彼女は、震える足に力を入れて仁王立ちになると、気合を入れるために両手で頬を数度強かに叩いてみせた。そして、セルリアンが橋上に登ってくる様子を観察しているクロウタドリを指差して声を張り上げる。

「ちょっと、そこののフレンズッ!」

 初めは自分のことと思わず微動だにしなかったクロウタドリだが、妙な間が空いたことに気が付き振り返ったのちに、私たちの視線を一斉に浴びて目を丸くする。

「……え、僕?」彼女は眉根を寄せつつ自分のことを指差した。

「あんた以外に誰がいんのよ!」

「いや、僕はクロウタドリなんだけど」彼女は口を尖らせて訂正する。

「え……? じ、じゃあクロウタドリッ!」出鼻を挫かれて動揺の声を洩らしたユメゴンドウだったが、直ぐにそう仕切り直した。「あたしも戦うわ。何か作戦があるなら、教えてちょうだい!」

「作戦? にそんなの要らないよ。そして、君は戦わなくていい」

 クロウタドリのにべも無い言葉に、彼女は口を開けたまま硬直した。そしてそんなユメゴンドウを尻目に、彼女は私に顔を向ける。

「あおちゃん、良い機会だ。ちょっとした講義レッスンをしようか」

「は?」

 私が言葉を飲み込めないでいることなどお構いなしに、彼女は今も続々と集結しつつあるセルリアン達を指差して話を続ける。

「あの尾鰭がついたセルリアン――まあ、便宜上『海棲セルリアン』とでも呼んでおこうか。連中の特性は何だと思う?」

「え……泳ぐのが得意、とか」突如始まった謎のレッスンに当惑する私だったが、取り敢えず返答する。

「そうだね、泳ぐのに特化しているんだ。じゃあ、陸ではどうかな?」

「海中に特化しているなら、当然、陸は不得意でしょうね」

「大正解。橋上へと誘導した目的はそれだ」クロウタドリはスナップを利かせて指を鳴らすと、言葉を継ぐ。「だから、海の中ならともかく、今は数が多くとも烏合の群れ、というわけ」

「そ、そうとも言えないわよ!」硬直から解放されたユメゴンドウが横から声を張り上げた。「海の中にいるやつらは、。相当強い力でぶっ叩かないと、パッカーンできないんだから」

「鋭いね、ユメちゃん」クロウタドリは再び指を打ち鳴らし、彼女の洞察を讃えた。

「馴れ馴れしく呼ばないでっ」

「セルリアンをよく知らないあおちゃんのために説明しておくと、『石』というのはセルリアンの弱点のことだ。これはヒトで言う瘤や血豆みたいなもんで――つまり、ダメージを受けた個所に出来るんだよ」

 ユメゴンドウの抗議を無視して彼女はそう話すと、ゆっくりとセルリアンのもとへと歩き始める。

「『石』というくらいなんだから、むしろガードが堅いんじゃないの?」

「そう、堅いよ。故に脆いんだよ。セルリアンの身体の大半は流動性のある物質で出来ていて、与えられた衝撃を吸収してしまう。でも、石が出来てしまうと、インパクトがそのまま伝わるようになるんだ。石さえ破壊すれば、そこから入った亀裂から全体を砕くことが出来るというわけだね」

 そこで、私はクロウタドリの両手が淡く発光し始めたことに気付く。あれは――アーケードの大穴の前で、そして、滑落しそうになった私を救う時に見たものと、同じだ。

「でもぉ、その石が無いんでしょ? だったらどうやってあんなに沢山のセルリアンを倒すの?」

 茂みの中にいたハナゴンドウが不安そうな声で訊ねる。そう、問題はそこだ。

「ま、海棲セルリアンは陸棲と違って何かにぶつかることは殆ど無いからね、石も出来ずに非常に厄介だ」

 刹那、両手に携えていた発光がふっと消え、代わりに両脚が眩く閃いた。


「だから、こうする」


 一瞬だった。


 気付いた時には、彼女は既に欄干の傍にまで到達しており、周囲に残ったのは砕け散った一部のセルリアンが残した輝く残滓だけだ。

 速い――目で追えなかった。周囲のセルリアンも同様で、突如目前に現れたアニマルガールと、散った仲間の破片に、状況を処理し切れずに刹那硬直した。


 クロウタドリはその隙を見逃さない。片足を前に踏み出したかと思うと、眩く輝いた左の掌で蝟集した前方のセルリアンの群れを抉る――と同時に、軸足を切り替え、背後を強襲する別の群れを薙ぎ払った。凄まじい体幹で以って体勢を瞬時に整えると、いつの間にか橋のケーブルを伝って彼女の直上に来ていたセルリアンらによる落下攻撃をロンダートで回避。着地と共に素早く重心を動かし、足払いで地面に落着した瞬間のそれを崩したのち、落ちてきた上澄みの個体に凄まじい勢いで掌底を叩きこんだ。

 間も無くして、一回り大きい個体が橋の脇から現れる。カブトガニによく似た形態を持つそれはクロウタドリの背後を取り、彼女の死角を突くように鋭い尾を高く上げたのち、その首元に振り下ろす。が、それは蟷螂の斧に終わった。一瞥もくれずに背後に伸ばした腕で尾を受け止めた彼女は、そのまま自分を上回る巨躯をいとも簡単に引き寄せ、前体と後体の接合部を折り曲げるようにしてがっしりとホールドを決めたのだ。クロウタドリは凄まじい膂力でその接合部――甲羅状の部位が覆っていない場所から見える柔らかい基質に腕を突き刺すと、間も無くそこから球状の何かを引き出した。球体からはなにか筋線維のようなものが伸びており、ホールドを解いた彼女が、ブチブチブチッ、と筋肉が断裂するような生々しい音を立てつつそれを引き抜くと、大型個体はぐったりとして動かなくなってしまう。まるで分銅鎖のように繊維部を把持したまま先端の球体を振り回し始めると、再び周囲に集まってきた小個体を、球で殴打し、或いは巻き付けた上で貫き、撃破していく。

 私が見えたのはそこまで。

 間も無くして、橋の上に山のように群がっていたセルリアンはいとも容易く掃討され、地面やワイヤーにこびり付いた血飛沫の様な基質の色と、そこから立ち昇る蜃気楼の様な煌めきという、ある種凄惨とさえ言える景色だけが後に残された。


 彼女は虹の鱗粉のようなものと共に両翼を展開すると、ワイヤーや支柱に残存した残党の追撃に入る。たったひと羽搏きで数十メートルある塔柱の上部まで達すると、自由落下による加速を利用して柱に張り付いた個体を各個撃破。

 地上すれすれで身を翻すと、両翼を羽搏かせ、ワイヤーを伝いながらセルリアンを貫いてゆく。橋上は、躯体やワイヤーが揺れる異様な音と、セルリアンが弾ける破裂音だけが支配していた。


 最後の一体を潰し、塔柱同士を繋ぐ水平材の上に着地したクロウタドリを私たちは見上げた。彼女は頬に付いた基質の残渣を片手で拭い払う。その鬼神の如き出で立ちに、私は初めてセルリアンらを見たとき以上の恐れを覚えた。


「お、終わったの……?」呆気に取られていた私は、何とかそれだけを口に出す。

「いや、まだだと思う……」横に居たハナゴンドウが呟いた。

「え?」

「あの小さなセルリアンだけじゃなかったと思うの。その奥に、もっと大きなやつが居たような……」

 そうだよね、ユメちゃん、と彼女はユメゴンドウに問い掛ける。彼女は俯いたまま暫し黙り込んでいたが、やがて徐に頷いた。

「そうだよ、間も無く大物のお出ましだ」

 いつの間に降りてきたのか、背後から聞こえたクロウタドリの声に私たちは振り向いた。間を置かずして、彼女越しにワイヤーが激しく揺れる様が目に飛び込んできた。うち何本かは破断したらしく、ワイヤーの端が空高く舞い上がる。その基部に目を遣ると、先程の群れを成していたセルリアンと形態がほぼ同一の、しかし大きさ自体はその何倍もある巨躯がのそりのそりと這い上がってくる様子が見えた。

「ひぃっ」ハナゴンドウがか細い叫び声を上げた。

 橋上に全身を顕したそれは威嚇するかのように長い尾を塔柱に打ち付け、その轟音と揺れがこちらにまで響いてくる。

「あおちゃん、ちょっとおさらいしようか」

 クロウタドリはそう言って指をピンと立てつつ、こちらを軽く振り向いてそう言った。

「海棲セルリアンは通常石を持たず、撃破が難しい。ここまでやったね?」

 私は眉根を寄せつつも、頷いて肯定した。

「よし。で、難しいのはこれからなんだけど」彼女は大型セルリアンの方を指差しつつ語を継ぐ。「小さい個体は力加減や使ことでさっきみたいに余裕で倒せることが分かったろう。じゃあ、ああいったデカくて硬そうなやつはどうすればいいと思う?」

 私は彼女の金の輪に囲まれた漆黒の目を一瞥する。相変わらず底の見えない、不気味な眼だ。大型セルリアンの方は、助走を付けて今にもこちらに突進せんとしている。――考えて正しい答えを出す暇は無いだろう。

「……もう、こういうのは良いわよ。セルリアンの脅威は十二分に分かったわ。早く模範解答を見せてちょうだい」


 はいはい、と軽やかに返事を返した彼女は、件の発光を携えて、肩を聳やかしつつ悠然と大型セルリアンの方へと向かっていく。そして、再び虹の輝きと共に両翼を拡げると、素早く飛び立った。

 ――そこで、あれ、と思う。

 先の縮地のような人間離れの速度ではなく、私でも余裕で目で追えるほどの速さで彼女はセルリアンのもとへと飛んで行ったのだ。決して遅くは無い。遅くは無いが、しかしあれでは――随分と隙が出来てしまう。

 大型セルリアンは、その巨躯に見合わない素早さでクロウタドリに先立って前に進み出ると、片方に重心を乗せた。

「駄目ッ!」

 いつの間にか私のすぐ横にまで来ていたユメゴンドウが叫んだ。その声から間を置かずして、アスファルトと隙間から生えていた雑草を撒き散らしながら大型セルリアンは自身の長い尾を振り回し、近付いてくるクロウタドリの方へと放った。凄まじい速さでまともに彼女の横っ腹を捉えたそれは、その身体を塔柱の方へと吹き飛ばす。

「クロウ――」

 ついそう叫びかけて、刹那、息を呑んだ。

 塔柱に激突するかと思われたその華奢な身体は、先程の打撃を食らったことが嘘であったかのように軽々と身を翻し、いとも容易に塔柱に対して垂直に着地したからだ。そして間もなく、視界から消えた。否――彼女が再び高速度で移動したのだと気付いたのは、視界の端に映った凄まじい粉塵と共に響いてくる轟音を聞いた時だった。

 間も無くしてぱらぱらと音を立てながら疎らに降り注ぐ小さなアスファルトの欠片。衝撃によって押し出された風が私たちを吹き過ぎ去り、その時に運ばれてきた石油と青臭さが混ざり合ったような独特な臭気が鼻を衝いた。


 須臾の静寂。


 私はゆっくりと目を開け、反射的に頭を覆っていた両腕の隙間から前方へと目を向ける。橋上を覆っていた粉塵の幕が海風に流されて徐々に薄くなっていく様子が見えた。段々と先程の大型セルリアンのシルエットが浮かび上がってきたので不安になったが、間も無くして聞こえてきたクロウタドリの声に私はほっとする。

「……とまあ、こんな感じかな」

 悠々と霞の中を抜けて姿を現した彼女の片手には、漆黒の、黒曜石を磨き上げて作った球のようなものが握られている。完全に視界が利くようになった彼女の遠く離れた背後には、セルリアンのずんぐりとした体が横たわっていた。

「何なのよ、それ」ユメゴンドウが怪訝そうに訊く。

「これ? これはあれの""」

「カクぅ?」彼女は更に訝しげな声を上げた。「そんなの聞いたことないわよ。石じゃないの?」

「石と核は別物だ。君が言ってたじゃないか、海棲セルリアンは石を持たないものが多いって」

「そりゃそうだけど……で、結局その『カク』ってのは何なのよ」

「石を血豆とすると、核はセルリアンの心臓と言える。或いは脳と言ってもいいかもしれないね。ここから神経のようなものが伸びていて、身体の約九割を構成する基質を動かしているわけだ」

 クロウタドリはそう言うと、持っていた核と呼ぶ黒い球をひょいと持ち上げてみせた。よく見ると、その背後からは太いケーブルの様なものが伸びていて、それは遠くにある大型セルリアンのもとまで続いているようだった。

「つまり、一番の弱点ってこと?」ユメゴンドウの後ろに隠れていたハナゴンドウがおどおどと訊ねる。

「そう。一般的に弱点と言われるのは石だけど、つまるところあれはこの核に衝撃を伝わりやすいようにするものなんだよ。だからこいつを直接壊しさえすれば、セルリアンは簡単に倒せるってわけ」

「ふぅん、なるほどね……いや、ちょっと待って」合点がいったように顎の下に片手を当てて頷いていたユメゴンドウだったが、何かに気付いたらしくぴたりと動きを止めた。

「今、それを壊せばセルリアンを簡単に倒せるって言ったわよね」

「うん」

「でも、あんたが持ってるそれは、ぴかぴかのまま残ってるわけでしょ」

「そうだね」

「じゃあ――」彼女の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。そして私も気付く。……相も変わらず、彼女は質の悪い――。

「――まだパッカーン出来てないってことじゃないっ!!」


 クロウタドリの背後から再び盛大に粉塵が上がった。大型セルリアンが道路を蹴り上げたのだ。先程クロウタドリを吹き飛ばした尾を荒々しく振り回しながら、こちらへと猪突猛進の勢いで向かってくる。その距離僅か50mと少し。私たちは迫りくる大質量の塊に竦み、動けないでいた―― 一人を除いては。

「折角のデモンストレーション中だったのに。随分と活きの良い野暮天だね」

 彼女はあたかも今の状況が何でもない些末なことであるかのように肩を落として軽く溜息を吐くと、ケーブル様の線で繋がった大型セルリアンに、把持していた黒球を差し向けてみせた。


「君はもう用済み」


 黒球を乗せる手が眩いほどの発光を見せる。先に見た以上の輝きだった。球を包んでいた五指が、みるみるうちに伸びてゆき、やがてそれらは先端に鋭い鉤爪を備えた鳥趾ちょうしの形を取った。私はその目の前で繰り広げられる現実離れした光景に、すっかり目が釘付けにされていた。


 ばきっ。鋭く甲高い音が耳をつんざく。見ると、球に一筋のひび。まさか――あれを片手で? 亀裂は一瞬で全体へと枝分かれしてゆき、そして間もなく、大型セルリアンが図太い尾で私たちを一掃せんとするその瞬間、クロウタドリが核と呼んだそれは、彼女の異形の手の中でいとも容易くのだった。


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