寒椿、一輪

田所米子

寒椿、一輪

 この島には珍しく雪が積もった日だから、散歩ぐらいしか出来ることがない。初めて見る顔と、どことなく覚えがある顔。そして、慣れ親しんだ顔。様々な顔を寄せ合う親戚のおじさんおばさんたち相手に、曾祖母を喪ったという悲しみだけではなく、愛想の良さと礼儀正しさをも張り付けた顔をし続けるには、たまの休息も必要なのだ。

 喪主を務める祖父の家では、機転が利く祖母や伯母が親戚のおじさんたちにせっせとお茶やお菓子や吸い物を運んでいる。だから、いつもぼさっとしていると曾祖母に笑われていた私なんて、いてもいなくても構わない。それでも、役立たずは役立たずなりに、大往生を遂げた曾祖母のためにできることをしたい。少しでもいいから、曾祖母との思い出に浸りたかった。

 私が物心ついた時には既に九十近い高齢だった曾祖母は、とても元気で丈夫なおばあちゃんだった。最近はほとんど寝たきりだったけれど、百歳近くまで畑仕事をしていたぐらい。

 曾祖母の耳は、百歳を超えたあたりからかなり遠くなったし、目も悪くなった。それで会いに行くと「あー、来てくれたっかぁ……」とくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして歓迎してくれたのだから、かなり凄いばあちゃんなのではと思う。

 雪は降ってもほとんど積もらない島の住民は、当然雪道にも慣れていない。あまりどころか全く運動が得意ではない私にとっては、一歩一歩が転倒の危険と隣り合わせの散歩だが、頬を撫でる冷たさは快かった。

 寒さで洗れたような視界に映るのは空の灰色と雪の白、そして椿の濃緑と紅だけ。前半はともかく後半は、嫌になる程ではないけれど見飽きた色だった。なんせ、この島は椿の島。自宅の周りの林に生えている樹も椿なら、祖父の家の裏の山で繁茂しているのも椿。おまけに街路樹や学校に植えられる樹も椿である。この島で生まれ育った人間が、椿の赤と海の青を見慣れるのも当然なのだ。どちらも綺麗なのだけど、私たちにとってはありふれ過ぎていて、あまりありがたみを感じられない。

 これが都会の人間ならば、日本の水浴場百選に選ばれたという渚にはしゃぎ、椿の花をスマホで撮ってインスタにアップするのかもしれない。もしくは、田舎の住民でもSNSをやっている人なんてごまんといるのだろう。もっとも、この島の住民は五万人もいないけれど。

 なにはともあれ、私の周りにいるのは、「スマホの使い方が分からん」とガラケーに固執し続ける父の同類ばかり。スマホはほとんど通話機能ぐらいしか使わない私も、端くれながら父の同類である。

 曾祖母が亡くなったばかりという事情を差し引いても、一面の雪景色という情景を、スマホに収めようとは思えない。それは、小さな頃にひいおばあちゃんから聴いた話のせいかもしれなかった。昔、むかし。というほどでもない昔でもない百五十年前。丁度今のような季節に起きた、ある事件。


 白寿を迎えてもボケや痴呆とは無縁だった曾祖母だから、私がお菓子ほしさに祖父の家に突撃していた子供だった頃は、色々な話をしてくれた。

「こっはな、おっがあがぐらいの子供こどんやった時に、知り合っのばんばから聴った話やけどな、」

 標準語に侵食されつつあるとはいえ訛りは残っている平成世代の私たちと比べ、戦前生まれの曾祖母は方言バリバリである。たまに曾祖母が何と言っているのか分からないこともあった。フィーリングでなんとかなるのも事実だったが。

「近っに、秋におっと二人ふたっで椿の種ば拾んに行った樹があっやろ? 実ばびっしゃ付くっ、ふとか樹」

「ああ、あん樹ね。あっがどがっしたと? 昔、っか首でもくくっちょったと?」

 季節は冬。こたつに勝手に入り込んでせんべいをバリバリ、干し柿をむしゃむしゃと食い荒らしていた私は、今振り返ってもかなりババ臭い子供だった。だからこそ、曾祖母は地元にいる他のひ孫ではなく、私にあの話をする気になったのかもしれない。

「あがあっぱかこっばっかうな」

「冗談たい、冗談」

 空になった湯のみを出すと、曾祖母はお茶を注いでくれた。

「食うてすぐっとはいなか。牛になっとぞ、牛に」

 緑茶で一服の後、ごろりと横になった私に向けた曾祖母の呵々とした笑いに応じ、致し方なく身を起こす。

「そんばんばな、なーわいれしもたけど、おっの親戚やったんやけどな、そんばんばがこんまかったとっにはな、こんあたっにもカクレがおったと」

 珍しく。というか覚えがある限りは初めて、神妙な面持ちの曾祖母が語ったのは、取り立てて驚くに値しない話だった。

「隠れキリシタン? そう言えば、おとうも言っちょったよ。“おっのクラスにも、カクレがおった”とか“あっこにはカクレの集落があっとぞ”って。そっがどがっしたと?」

 九州の最西端に位置するこの島は、言い換えれば最も大陸に近いということでもある。そのためなのか、中世には藩主が洗礼を受けたこともあって多くの島民がキリスト教徒になり、教会も建てられたのだ。しかし、日本全土のキリスト教徒に襲い掛かった運命には逆らえず、島内のキリスト教徒はほぼ全滅する。

 しかし、西の果ての離島であるということはつまり、江戸から遠く、監視の目が届きにくいということでもある。なんせこの島は、藩主が参勤交代を免除されたこともあるぐらいの僻地なのだ。

 辛うじて生き残っていた本土のキリシタンたちは、僻地ゆえのこの島の地の利に引かれ、また人口減少に悩む藩主の政策としても、この島に渡ってきた。それから、めぼしい耕作地は従来の島民に取られ、生活や農業漁業には不向きな土地に追いやられながらも、隠れキリシタンとして信仰を守ってきた。

 ……なんてことは、大きくなってネットで調べてから知ったことだけれど、明治維新後にこの島で吹き荒れた迫害の嵐のことは、当時小学生だった私でも朧ながらに知っていた。

「そんばんばがよー遊んじょった友達ともだっがおったとやけどな、家んそばによー実ば付くっ椿があってな、よー一緒に種ば拾っちょったとやけどな、そん子ん家もカクレやったと。そん子がな、椿の枝で作った十字架ばばんばにやっち、ばんばはきれかけんて親に見せっち、分かったったい」

 同じ島内にある母の実家の近くの、アスレチック広場に行った際、通りかかった小屋。その前に設置された、跪く農民の像を思い出す。

「そんで捕まえられてな。そんでな、そん子どころかそん子の親兄弟も、二度と戻ってこんやったと」

 あれは何、と像を指さした私に母は何でもないことのように応えた。昔キリスト教徒が閉じ込められた所、と。もっともその言葉には、拷問もあったらしい、という事実が抜け落ちていたけれど。

 当時――あるいは百年以上前から人口減少に悩んでいた島では、クラスで三十名に迫る私の学年には、教室は少し狭いぐらいだった。その教室よりもさらに狭い小屋に、地区全員のキリスト教徒が閉じ込められ、拷問される。ただ、宗教が違うという理由で。

 母の口調が淡々としていた分、生まれ育った島の歴史の影は、幼心を震えさせた。人間がやることではないと思ったが、紛れもなく人間がやったことである。

「狭かとっに詰めっ、芋しかせんち、つんだしかよな。真冬のこっやったけん、子供こどんから死んでいっとはしょんなかっこったい」

 もちろん、父や私のクラスメイトの祖先のように、禁止令が撤廃されるまで生き残ったキリスト教徒も存在する。ただ、曾祖母が語る子供は……。

「いっでんしょしゃんなかやっはおっもんでな、そん子どんが連れっ行かれた後は、村中カクレの家から盗んだ金やはたっから掘ん起こした芋で酒盛りたい。そん子の家もな、金目んもんば探すち壊され荒らされっ、残ったのはあん椿の樹だけやったと。ばんばがめーば供えながらーちょったわ」

 迫害から百五十年後の現代に生きる私たちは、宗教に関わらず友達になるし、結婚もする。ただ、百五十年前は、それは赦されないことだったのだ。

 百五十年より更に昔。この島は、西方に――浄土に最も近い場所だと信じられていた。喪った愛しい者に逢える島だと。ただ、平安時代の都人にとっては日本で最も浄土に近しかった島は、五榜の掲示の高札が撤去されるまでのキリスト教徒にとっては地獄に等しかったのだろう。

「ばんばもな、みなば採りに行くちうんに行ってあっば滑らせっ、死んだとよ」

 ほとんど皺に埋もれているが穏やかな目をしばし伏せた曾祖母も亡い今、この話を知るのは私と椿の大樹のみである。

 私がほうと白い息を吐いた瞬間、椿の花が一輪、ぽとりと落ちた。遠目で眺める寒椿は、血のようでも涙のようでもあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

寒椿、一輪 田所米子 @kome_yoneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ