6章 人形のための人間劇

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 終わらせ方がわからないままで、日々を過ごしていた。

 表面上はなにもなかったかのような顔をして、青梅蛍は普通の大学生に戻った。考え続けてはいる。しかし、解答は見つからない。このまま時間が経つにつれて、少しずつ忘れていってしまうのでないかと思えた。また、それでいいとも。

 四條葵が逮捕され、世間も事件への関心を急速に失っていた。

 あのあと水喰土に電話して詳細を説明したが、特に驚きや称賛の声もなく、後日、アルバイト代を払うという話だけを告げられた。人形が破壊された事件についても特に触れられることはなかった。

 あの日あったことが幻であったかのようにさえ思える。密室殺人のトリックを説明し、犯人の名を告げた。そんな普通ではないことをしてしまった。どうしてできたのか、今になって考えてみるとまるでわからない。だけどあのときは自信があった。そうすることが普通なのだとでも言うぐらいに、確信を持って、あの場に立つことができた。

 その結果は、なんら嬉しいものではなかったけれど。

 犯行の証明により罪を認めた四條は、氷たち刑事に抵抗することなく素直に連行されていった。

 しかし、残された者たちの間で、殺人犯の逮捕という本来なら歓迎されるべきことを喜ぶ声は聞こえてこなかった。落ち着いて考えてみれば、当然だと言えるのかもしれない。数年、一緒に暮らしたり、付き合いのあった身内の者が、ここ数日、突然やってきた素性のあやしい人間に殺人の犯人とされて連れて行かれたのだ。たとえそれが真実だったとしても、受け入れることができなければ、敵対心は、その人間に向けられる。そして、人間はそのような非常の事態をすぐに受け入れられるようには作られていない。

 あの日、四條が消えた後のあの部屋で、上木弓海が泣きながら掴みかかってきた。泣きじゃくっているので、何を言っているのか理解できなかった。そして、良きことをなしたはずなのに、責められることも、あのときは理解できなかった。

 膝から崩れ落ちた。

 倒れそうになったけど、倒れることが許されず肩を捕まれ揺さぶられていた。

 理解しようと努める頭が余計な混乱を産み続け、

 処理できない感情が走り回って、

 それは存在しないかのように霧となった。

 茫然と世界が目に映っているだけ。

 声は聞こえていても、意味が届くことはない。

 とてもきもちわるかった。

 人間が嫌いだと思い出した。

 そうして、人形に戻った。


「じゃあ、またあとで」

 火曜日。大学。空がわずかに赤く染まり始めたころ、青梅は研究棟の廊下で、鈴掛椛と茜屋茅斗の二人と別れて、研究室に入る。担当教官である紫橋小桜に挨拶をしてから席につき、ノートパソコンを開いて開始の時間を待った。

「事件についてはわかりましたか?」

 紫橋が言った。先週のゼミの時間に殺人事件について犯人が逮捕されたことは話したのでこの事件とは人形が壊されたことについてだろう。

「いいえ、まったく」

 青梅はあまりはっきりとしない口調で言った。その弱々しさが自覚できてしまったので、青梅は冗談を無理して続けた。

「この時間の準備が忙しいですからね。それとも事件について考えて来たほうがよかったでしょうか」

「どちらでも」紫橋がコーヒーを啜る。「私には影響ありません。あなたの選択です」

 嫌味な人だ。

「ただ、そうなると事件は水喰土君が先に解決してしまいそうですね」

「は?」思わず声が出てしまった。

「先ほど、彼が尋ねてきました。これから、国城さんの元へ行ってきますと。入り口で会いませんでしたか? ほんとうについさっきだったのですが」

 会ってない。聞いてない。どういうことだ。

 青梅は時計を見る。時刻を確認できたが意味はない。考える。許されるか。どうすればいいか。決めよう。

「すみません、本日は欠席します」青梅はノートパソコンを勢い良く閉じた。

「体調でも崩しましたか」

「ええ、とてもストレスがあふれていて、座っていることもままなりません」

 立ち上がり、荷物を鞄にしまっていく。急いで駅に向かえば追いつけるだろうか。青梅はお屋敷までの経路を思い出す。駅までに追いつけなければ、タクシーに乗られて置いていかれることになる。もしそうなったらこちらもタクシーに乗るべきか。お金はあまりないが、仕方ない。

 チャイムの音が響いた。本来ならゼミがはじまる時間だ。

「失礼します」ファスナーを閉めきれていない鞄を肩にかけた。

「お気をつけて」

 紫橋が優雅に答えた。引き止めもしないし、怒りもしない。ゼミをさぼっていいのか、と聞けば、きっとさっきと同じように答えるのだろう。

「それがあなたの選択です」

 紫橋が言った。

「良き未来があるように願います」


 青梅蛍は走っていた。

 研究棟から飛び出して、出口の方へと向かう。キャンパスから駅までの間で追いつかなければならない。電車に乗られてしまっては追いつけないし、向こうの駅からお屋敷までの経路もひとつではない。だから、水喰土に追いつくチャンスはここから駅までの一本道しかない。

 講義時間中の人がまばらなキャンパスを青梅は走る。

 息があがっていた。

 ここのところまったく運動していなかったなと青梅は思う。せいぜい、毎日の自転車通学ぐらいだ。走るスピードが落ち、息が荒くなり、ついには歩くようになった。まだキャンパスの端から端に移動したぐらいで出ることすらできていない。やっと出口の門が見えてきた、そんなところだった。そんなところだったのに、キャンパスに入ってすぐの大きな木の辺りに、携帯電話を見ながら立っている人たちが集まっているのが見えた。そして、その中に、見知った顔の男がいた。周りの人間と同じように携帯電話を片手に持ち、画面を見ながら立ち止まっている。

 青梅は、荒い息をなんとか抑えながら、追いついて、肩に手をかける。場違いな様子の青梅にいくらか視線が集まった。

 男がふりかえった。

「どうかした? そんなに興奮して」水喰土が言った。「怪人二十面相でも追いかけてるの?」

 お前だ、という言葉を飲み込んで、というよりも吐き出せるほどまだ息が落ち着いてなく、肩を握る手に力を込めた。

「痛いんだけど」

「つか、まえた……」言葉が上手く出せない。

「僕は怪盗じゃないよ」水喰土が自らの頬をひっぱってみせた。

「国城さんのところに行くんですよね」

 青梅の問いに、水喰土が一瞬、考えるような間を作ってから答えた。

「そう。すべてわかったからね」

「わかったのですか。四條さんがあの密室でどうやって人形を壊したか」

「いや、それはわからないけど」水喰土が言う。

 では、すべてとはなんなのだ。青梅は苛立ちつつも尋ねる。

「じゃあ、なにをしに?」

「わかったことを報告しに行くだけだよ。そろそろ一区切りつけて報酬をもらわないと、仕事はこれだけじゃないし、君へのアルバイト代も支払えない」

「人形を守れなかったのに支払ってもらえるんですか?」

「それはその、交渉次第という奴でしょ。経費などもあるわけで」

 結局、解決したというわけではないのか。だから呼ばれもしなかったのか、と青梅は思う。それならあまり行ってもしょうがないかもしれない。ただ、新しい情報が聞けるかもしれないし、現場へ行くことで得られるものがあるとも考えられる。それに、国城環がなにか思いついたことなどを話してくれる可能性もあった。

「ついて行ってもいいですか」

「いいんじゃない。探偵助手なわけだし」

 本当に不思議な響きだ。

 探偵なんてものの存在が信じられないし、その助手という役割もよくわからない。そんな奇妙なものに自分がなっていて、密室殺人に出くわし、さらにはそんな事件を解決することにまでなった。いったい、どこで道を間違えてしまったのだろうか。

「ところで、なんでこんなところにいたのですか?」

 研究棟を出た時間から考えれば、もうそろそろ駅に着いていてもおかしくはない時間だった。だから半ば追いつくのは無理ではないかと諦めかけたところだった。

「大学はプレイヤーも多いし、いろいろなオブジェが登録されていていいよね」

 水喰土が携帯電話の画面を見せてきた。ある位置情報ゲームの画面。

「ここにレアなモンスターがいたんだ」



   2


「こちらに住まわせてもらうことになりました」

 国城家を訪れると迎えに出てきてくれたのは上木弓海だった。なんだか少し変わったようで、顔を見た瞬間に一歩引いてしまった青梅を朗らかに笑い、それから丁寧に謝罪してくれた。その成長というのか変化が、また気持ち悪いように感じてしまうのだけど。

「どうぞご案内します」

 弓海の後に続いて歩いて行く。事件のあった部屋ではなく国城環の離れへ向かうようだ。

「国城先生のお世話をさせてもらっています。その代わりにいろいろ教わって」

 歩きながら弓海が話す。

 どうやら四條の位置に代わりとして入ったようだ。まだあの日から一ヶ月も経っていないのにはやいな、と青梅は思う。四條は特別なテストをパスしたことからその立場についたはずだけど、弓海の場合はどうなのだろうか。才能があったのか。それとも別のなにかがあるのか。

「失礼します」

 弓海が扉をあけて、国城環の部屋に入る。進んでいくとすでに席へついている国城環が見えた。青梅は軽く頭を下げて挨拶をする。それから、国城に促される通り、青梅と水喰土は座った。弓海が国城の背後に回ろうとしたところで、国城が言った。

「席を外してください」

 弓海がいささか不機嫌そうな表情を見せたが、すぐに笑顔を整える。

「では、後ほどお帰りの際にお呼びください」

 弓海が退出した。扉の閉まる音。

「別にいてもらってもこちらとしてはよかったですが」水喰土が言った。

「ええ、私の方がよくなかったもので」

「そうでしょうね」水喰土が苦笑する。

 一体、どういうことだ。話が見えない。

「うちのものは皆、あの事件でショックを受けました。血縁関係はなくとも長年共に暮らしてきた身内が身内を殺害したのです。いくらか日が経ち、表面上は明るさを取り戻しつつあってもまだ日常には戻れません。ですから私の中だけで留めておきたいのです」

「それにしては彼女を住まわせることにしたのですね」水喰土が言った。「彼女もまた特別なのでしょうか。あまりそうは感じませんでしたが」

「あの子は普通の子です」国城環が微笑む。「年相応に好奇心と個性への欲求を持ち、普通ではない状態を望んでいた。そうして、四條の代わりをしたいと言われたので、身の回りの世話を頼むことにしました。きっとどうにもならないでしょう。いつか挫けて、やめると言い出すまでは対価として付き合ってあげるだけのことです」

「残酷な話です」

 水喰土の表情は少しもその言葉に沿ったものではなかった。

 この人たちは最初からおかしいので、普通の人間の気持ちがわからないのだ、と青梅は思った。怒りのような感情も持った。普通の人間が、優れた人たちに憧れる気持ちがどれだけ醜く、そして捨てることのできないものであるか。

「それは酷いのではないですか」青梅は我慢できず思っていたことを口にした。

 国城環と水喰土が顔を見合わせてから笑う。

「ではどうすればいいでしょうか。あなたには才能がないからあきらめろと?」

「わかりません。でも、もっと普通の人間の気持ちも考えてください。それぐらい簡単にできますよね。天才なんですから」

「あなたは不思議な人ですね。まるで普通の人、代表のようなことをおしゃって」国城環がやさしい口調で話す。「悪いようにはしませんよ。いえ、そうですね、約束まではできませんが。きっと悪いようにはならないでしょう。そうなるためにも能力が必要ですから。そう思いませんか?」

 水喰土はその問いには答えなかった。

「それではそろそろ依頼されていた事件について報告させて頂いてもいいでしょうか」

 水喰土が顔をあげ国城環を見る。

「よろしいですか? 報酬の支払いさえお約束頂ければこのまま帰るということでもいいですが」

「お話ください」

「え、ちょっと待ってください」青梅は割り込むようにして言った。

「なに?」水喰土がだるそうに言う。「さっきから邪魔ばかりするなら君こそ帰ってもらってもいいんだけど」

「さっき……」青梅は国城環の顔を伺ってから小声で話す。「わかってないって言ってたじゃないですか

「いや、すべてわかった、と言ったはずだけど」

「四條さんがどうやって人形を壊したかものですか?」青梅は先程の問いを繰り返す。

「それはわからない。別にすべてといっても世の中の未解決問題をまとめて解いたというわけでは当然ないし、世界は未知で溢れている。ただ、必要なことはすべてわかったというだけの話だよ」

「だってどうやって人形が壊されたかわからないって」

「それはわかる。刀で斬りつけられてでしょ」

「そうじゃなくて密室が」

「それもわかる。説明は長くなるので後にするけど」

 なにを言っているのだ、この人は。

「存在する事象は理解することができるし、逆に存在しないことについては理解のしようがない。幽霊はまだ観測されていないんだ。ゆえにわからない」

 青梅はなにを言っているのかわからないという心をそのまま表情に浮かべた。

 水喰土が残念そうな表情を見せる。

「君はそこまでバカではないと思っていたのだけど、思い違いだったのかな。」

 今日は、と前置きしてから言った。

「国城環さんが人形を破壊した方法について、説明しに来たのだけど」



   3


 青梅蛍はたったいま聞いた言葉を頭の中で反芻していた。

 国城環が人形を破壊した。

 そう聞こえた。

 様々な考えが駆け巡る。整理される前の言葉にできない概念たちが嵐のように暴れまわって、そこから弾き飛ばされた欠片を積み上げて理屈と言葉を形作る。

 目を開いていたけれど、一瞬、どこも見ていない時間があった。考え込んでいたのだ。時間にすればわずかなものだったろうが、普段、光や音の処理にあてているリソースが、別のところへと集中して使われた。

 光を処理する能力を取り戻した青梅がはじめに見たのは向かいに座って微笑んでいる国城環の顔だった。

「じゃあ、能上さんを殺したのも」青梅は大きな声で言った。

「それは四條さん」水喰土が言った。「君が推理し、証明してみせたんでしょ。言ったことに自信と責任を持ちなよ。まあ、推理に雑なところはあるし、偶然証拠があったから結果的によかったというレベルだけど」

 反抗するような言葉をぶつけようと思ったが、上手くは浮かばなかった。

「ちょうどいいから、君の推理で足りないところから話そうか。よろしいですか?」

 水喰土が国城環に尋ねる。国城環が頷いた。

「順を追って、説明をお願いします。私が人形を壊したというところまで」

「素直に認めては頂けないのですね」

「認めることについては構いません。ただ、推理が間違っているような場合は報酬を払えないということです。ですからしっかりと私を負かしてください。反論が一切できなくなるまで」

 水喰土がため息をはいた。

「めんどうですが、仕事ですから仕方ないですね。報酬の分は働いてみせますよ」

 水喰土がコリをほぐすように首を回した。そして正面を向いて話し出す。

「まず、リハーサル用の人形からはじめましょう。あれを壊したのは誰か?」

「四條さんですよね」青梅は言った。

「違うね。君はそこから間違っている。よく四條さんを追い詰められたものだ」水喰土が笑った。「最初の人形を壊したのは能上さんでしょう。ただそれを依頼したのは国城さん、あなたです」

「証拠は?」国城環が尋ねる。

「ありません。ここはまあいいでしょう。別に否定されても構いません。そうですね、報酬の金額としても千円分にも満たない部分です」

「どういうことですか?」青梅は言った。

「些細な問題ということだよ」

「そうじゃなくて! 能上さんには人形を壊すことはできないのではないですか。最後に四條さんが確認されたわけですよね」

「それが四條さんの嘘だった。能上さんが夜間のうちに壊しておいた何ら不思議でない状況をひとつの嘘で謎にしたてあげた。最初は君もその発言を疑っていただろう?」

「なんでそんな嘘を」

 言葉を口にした瞬間に青梅は理解した。思考よりも言葉が先にでてしまうことは不思議だ。

「わかった?」

「能上さんを殺すためですか」

「そう。密室殺人を仕上げるためにもうひとつ謎を作り出した。必要というほどではないけれど、そのほうがいいと彼は判断したわけだ。脚色、装飾……、いや、アドリブというのが一番ふさわしいかな。彼は一瞬で判断し、選択して、行動に移したのだから」

 アドリブ。即興で作られた……犯罪?

 青梅の頭のなかに恐ろしい考えが浮かんだ。あのとき、はじめて国城環と四條のふたりと向かい合って、この部屋で話していた場面を思い出す。四條がレプリカの人形について昼間にまだ壊されていないのを見たと言ったとき、その前に、彼女はなんと言っていたか。

「『今は私自身が人形と向き合うべきだったか、という気持ちがあります』と国城さんは言われました」水喰土が言った。

 そのセリフは数週間前に聞いたものと一字一句同じものだとわかった。

「だから四條さんは能上さんを殺害することにしたのです。人形に対面する役割を国城さんへと渡すために。四條さんによる殺害計画はあの瞬間からはじまりました」

「そんなのおかしいですよ!」青梅は叫んだ。

「なぜ?」水喰土が首をかしげる。

「国城さんがそうしたいなら、最初から自分をその役割にすればいいだけじゃないですか」

「普通の人ならね」水喰土が言った。「でも、この人は普通じゃないんだ。そもそも普通なら僕らが呼ばれていることもおかしい。だから考え方を変えるんだ。天才の目的はひとつじゃない。人形を壊したかった。そして四條さんや招かれた我々をテストしたかった。より優秀な人間はいないか。本来なら紫橋先生を呼びたかったのだろうけどね。そんな複数の目的を同時に実行するためにこの事件は計画された。聞いたよ。君は言ったのだろう? 一流のプレイヤーはいつも複数の選択肢を持ち、そこから最適解を選ぶと。世の中にはもっと上がいるんだ。複数の選択肢を持ち、すべてを選んでみせる天才と呼ばれる人種がね」

 青梅は唖然とする。そんなのはルール違反だ、と喚きたくなる。

「天才が用意した舞台の上で、僕らは即興劇を演じさせられるはめになったわけだ。殺人犯や探偵役にわかれて」

「だからってそんなことで人を殺したりするわけないですよ」

「僕なら殺すことができる。尊敬する人がそのような意志を持って、僕に願うのなら、僕は実行するだろう」

 研究室で見た、紫橋と水喰土の姿を思い浮かべる。それは、国城環と四條に重なる姿だった。そうだ。あのとき四條が犯人であるとわかったのだ。なぜかはわからなかった。ただそれまでに集めていた材料がたまたまあの瞬間に組み上がったのだと思っていた。けれど、違った。どこか思考の奥深くで、崇拝と尊敬からの殺人が起こりうる可能性を思いついた。ゆえに、わかったのだ。

 認めたくなかったから、認めないまま結果だけを得て。

 青梅はたったいま理解できてしまったことに戦慄する。

 探偵と天才はそんな青梅を気にすることもなく会話を続ける。

「そうですね。たしかに私が言えば彼は実行したでしょう。ですが、その言葉が人を殺してほしいという意味になるというような証拠はあるのですか」

「先日、こちらの助手が四條さんの用意した密室トリックを暴きました。あのトリックには証拠が残されていましたね」

 ルータへの接続と設定変更の記録が残されていた。だから四條は罪を認め、逮捕することができた。

「おかしくはないですか? なぜ証拠が残るようなトリックを選んだのでしょうか。密室を作る方法はいくつもありました。実際、それがカモフラージュとなり実行されたトリックと証拠を隠すようにもなっていました。でも、そもそもあのトリックを使う必要はなかったはずです。彼女は、想定されるトリックについていくつか考え、そして一番、複雑でおもしろいものが実行されたと考え、証拠があるとの確信から推理を披露し、見事、偶然にも当たりをひきました。これは、よくよく考えると彼女の失策がたまたま明らかにならなかっただけのようにも見えます。もし別のトリックが使われていたら、証拠はもっと小さく発見できないほどになっていたかもしれません。もっと言えば彼女が考えついた以外の素晴らしいトリックだってあったかもしれない。でも、四條さんはそれら予め準備の必要なトリックを選ぶことができなかったのです。犯行を決意したのは、事件の直前だったのですから。だからそれ以外のトリックはカモフラージュにしか使えなかった」

 青梅は先日の自らの推理を振り返っていた。たしかにその通りだ。今、考えてみれば足りない点が多く不完全なものだった。たまたま当たったと言われたら否定できない。

 ハンデ戦だったのだ。

 四條は極々限られた時間でトリックを考えだした。

 十五分か? 十分か? もっと短いかもしれない。

 事前に道具を準備することもできず、あの場でできることからあの密室を作り出した。そして、それが暴かれた場合のことも考えてあったのだろう。自らが実際に犯した罪を認めることで、国城による人形の破壊から目を逸らすように誘導していたのだ。

 恥ずかしさがこみ上げてきた。

 くやしい気持ちが湧き上がってきた。

 とても勝ったとは思えない。結果としてみれば勝っているはずだけど、幾重にも縛られた強者が、負ける場合を想定し、意図的に誘導して作り出した囮としての勝利だった。そこに自由はない。

「さて、それでも証拠にはなりえません。しかし、仮に以前から犯行を計画していたとした場合、四條さんはそんなことにも気付けないほど能力のない人でしょうか? 国城先生の教え子はそのような程度の低い者でしたか?」

「そうです、と言ったらどうしますか」

「その場合は僕の誤りでした、と謝罪します。四條さんもそしてそのような人を見出して育てていた国城さんも、その程度の人だったということなのでしょう」

「彼の名誉のために認めしょう」国城環が言った。「あの子は優秀でした」

「ありがとうございます」

 指示をしたということを認めた。だが、これで四條の罪が減るかといえばそんなことはないだろう。証言したとしても根拠が薄すぎるし、言葉のとおりならやはり実行に移すことがおかしい。それがわかった上で、認めているのだろう。

「では、最後に国城さんが人形を壊した事件について解明していきましょう」

 水喰土が話す。

「国城さんを犯人だとした場合、いくつか不可能な点があります。それらの謎を解き、実行された証拠をあげることができれば、犯人だと示すことができたものとします。よろしいですね?」

「ええ、ただし、先程のようなやりかたはもうなしですよ」国城環が微笑む。

 青梅は水喰土を見た。水喰土が頷く。

「まずは謎の方から解いていきましょう。そうでなければ証拠をあげても不可能だとなりますからね。一つ目は、凶器の日本刀をどうやって持ち出したかです。あの刀は施錠された奥の蔵に仕舞われているはずのものでした。人形が壊された直後でも蔵の鍵は施錠されたままだと確認されています。鍵を持っていたのは広間の外にいた国城伊都さんです」

 広間自体も施錠されており、その入口には警察と青梅がずっといた。隙間から鍵を渡すというようなこともできない。蔵には裏からの入り口もあるがそちらから入る場合の鍵もひとりでは揃わない。国城伊都は蔵の鍵を持っていたが、その前にある部屋の鍵を持っていたのは刑事である氷だ。二人が協力したと考えれば蔵の中に侵入することまではできるが、扉の下には刀は当然として、鍵を通すような隙間もなかった。それでは中から鍵を渡すようなこともできない。

「二つ目は麻酔針についてです。国城さんの指に刺さった形跡があり、薬品の種類から刺さった場合はすぐ眠ってしまうだろうものでした。つまり、そこからどうやって発見された箱の中まで移動したのかということが問題になります」

 国城環は眠った状態で発見された。あれは演技ではなかった。病院での検査からも薬品の成分が国城環の体内に残されていたことがわかっている。また、国城環の指には針の刺さった跡が、イデムについていた針にも微小な国城環の肉片と血が残されていた。少なくとも針と麻酔が使われたことは確からしい。

「三つ目としては、二つ目とも関連しています。国城さんはその少し前まで人形が入っていた箱から発見されました。箱は外から南京錠で施錠されており、周りをロボットたちが取り囲んでいました。箱の中にいる人間がどうやって外から鍵をかけることができるのか、これが三つ目の問題。そして、以上の三つの問題を解明すれば、不可能と呼べるような謎はなくなります。国城さんは広間の中にいたため、広間の施錠という密室は意味をなさないですからね」

「それで結構です」

 水喰土が国城環の表情を伺い、それから笑った。

「すべてわかっている人に説明するというのはどうもめんどうなものですね」

「お仕事ですから。それにわかっていない人に話したければ隣の方に向けて説明されてもいいのですよ」

 水喰土が青梅の方へ向く。

 なんなのだ。水喰土の表情からは意図が読み取れない。目元のほくろが視界にちらつき、純粋そうな目に惹きつけられる。

 水喰土がわずかに吹き出した。国城環の方へ向き直す。

「いえ、それはそれでいろいろとおもしろくないので、しっかりと先生に説明しましょう」

「そうですか。いささか残念ですが、ではお願いします」

「まず、一つめです。凶器の刀はどうやって奥の蔵か広間に持ち出されたのか。これは簡単な話ですね。事前に蔵から出していただけです。事件時の八田さんの映像を確認しましたが、蔵の中に入った際に刀が映ったということはありませんでした。もちろん単に映っていなかっただけとも考えられますが、少なくともあの瞬間に刀が蔵の中にあったという保証はないわけです。鞘だけを中に残しておいて、刀は事件前から外にあった。事前に持ち出すことは国城さんならさほど難しくはないでしょう。棚卸しのとき、最初の事件のとき、またはまったく関係のない日、蔵に入ることはできたはずです」

「でも、あのとき国城さんは刀なんて持ってませんでした」青梅は言った。

「君はそういう役職なの?」

 水喰土が不思議そうな顔を見せる。どういう意味だ。そう思った瞬間に気付いた。その変化が水喰土にも伝わったらしい。

「そうだよ。まず口を開く前に五秒考えてみればいい。慣れれば、それが直感と呼べるぐらいまで短くなる。まあ、僕はそうありたくはないのだけど」

 青梅は水喰土の言葉を無視して、国城に向かって言った。

「着物の中に隠していたんですね」

「それなら、実現は可能ですね」国城環が言った。

「そういうことです。刀は短い脇差でしたし、着物は胴回りに厚みがあるのでよく観察されなければ気付かれないでしょう。動きは制限されますが、そもそも着物が洋服と比較してそういうものですからね」

「あとは刀と着物をしっかりと調べれば証拠がでますね」青梅がすぐに言った。

「いや、捨ててるんじゃないかな。事件時にいろいろあって、汚れやシワもできただろうし」

「ええ、処分しました」国城環が微笑む。

 水喰土があざ笑うかのような表情で青梅を見る。証拠が消されたのに、なんでそんな表情をするんだ。

「証拠はありませんが、実現不可能という状況ではなくなりましたので、次に行きましょう。二つ目は麻酔針の痕跡についてですね。こちらも簡単です。残された事実として、見つかった針は国城さんに刺さり、そして国城さんは塗られた薬品のせいで眠ってしまった。それだけです」

 それでは、その後に箱の中へ入れないではないか、と青梅は一瞬思う。そして今度は言葉を出す前に気付いた。

「眠ってから……起きた?」

「そう言ってるでしょう」

 言ってない。その前に言葉を切ってしまっている。

「便利な時代になりました。大きくてうるさい目覚まし時計などを持ち込まなくても、携帯電話をポケットにいれておけばいいのですから。無音のバイブレーションが数分後に動作するようにセットしておけば眠ってしまってもいいわけです。そして起きてから現場を整え、目的を達し、箱の中へ入って、隠しておいた別の針で自らを刺し眠る。針は着物のどこかにでも仕込んでおけばいいでしょう。動いているときに刺さらず、また発見されたときに他の人間に刺さらないような場所ならどこでも構いません」

 確かにそれなら痕跡も残り、かつ自由に動くこともできる。聞いてみればシンプルな答えだ。けれど考えつくものだろうか、現場で眠ってしまおうなんてことを。実行するだろうか、そんな意識の及ばない空白を自ら作るような計画を。

 青梅は恐る恐る国城環の顔を見る。その表情には焦りなどはまったくなく変わらずに微笑んでいた。

「これで二つ目の問題もなくなりましたね。あとは三つ目だけでしょうか。こちらも簡単ですか?」

 国城環からの問いかけ。水喰土が答える。

「ええ、状況から推理すると答えはひとつしかありません。答えだけならば誰でも思いつくことができるでしょう。ねえ?」

 水喰土が青梅に話を振った。

「えっ」青梅は思わず声をこぼす。

「ヒントを聞いてからばかり答えを考えてもつまらないんじゃない?」

「そんなことは……」

 わからないということもあるが、そもそもつまらないとか楽しいとかの問題ではないと思う。

「国城さんが箱の中にいて、どうやって外側の南京錠に鍵をかけることができるか。こんなのは別に世界最高峰の頭脳なんてなくてもいい、趣味で手品をしている人にでもできるようなことでしょ」

 たしかにそれだけ聞けばそうだ。

 水喰土は大きな不思議に見えたものを、少しずつ小さな問題に分解して謎を解いてきた。その結果、残されたものはそんなにすごい不思議ではなく、手品と呼べるようなレベルになった。あとはそのタネを突き止めるだけ。それはそうなのだが、趣味の手品というようなものだってそんな簡単にタネがわかるわけでもないのではないか。

 青梅は頭を悩ませるが思いつかない。

「どうもうちの助手はダメそうですね。パターンをパターンとして認識できていない。もっと抽象化すればいいのに、問題を解くために局所的な視点から遠ざかるということができない。集中しすぎなのかな」

 なにを言っているのかわからない。バカにされていることだけがわかる。

「きっかけを与えればすぐにわかるでしょう」国城環が言った。「そう、これはさっきと同じ話です。もう一度、今度は反対側から考えてみればいいのです」

「それはヒントを与えすぎですね」

 さっき? どの話だろうか。それになんでこのふたりはこんなに余裕な様子で話をしているのだろう。今、ヒントをくれたのは犯人だと追い詰められている側の人間のはずだ。このさきにあるのが罠なのだろうか。いや違う、そうではないと感じる。ただ、単純に理解の及ばない人間に高みから助言を与えているのだ。傲慢。

 くやしいという気持ちはない。

 そんな感想を持つことが許されるぐらい真剣に考えてはいなかったからだ。

 けれど、体のどこかにそれだけで済ましたくはない気持ち悪さがあった。

 別にこんなことはわからなくたって生きていく上で何の問題もあるはずがない。だから今まではそれでいいと思っていた。今だって思っている。普通の人間として上でも下でもないほどいい位置でゆっくりと暮らしていければそれでいいと。だけど、内心のどこかでそれを嫌がる気持ちがあることに最近、気付いた。どうしてだろうか。そちらに平穏はないと感じるのに、ひどく惹かれてしまうのは。

 四條の顔が浮かんだ。

 彼もそんな高みに振り回されて、人生を壊されてしまった人間の一人ではないのか。実行したのは彼だ。ゆえに責任も当然、彼にある。けれど、もし国城環に見初められなければ、もっと普通の秀才として、いや、そんな優れた人にもならずに普通の人生を送れたのではないか。

 ああ、そういうことか。

「鍵をかけたのは四條さんですね」青梅は言った。

「そういうこと」水喰土が言った。笑みはなくやっと気付いたかとでも言う表情。

 さっきとはこの二つ目の事件そのもののことだ。殺人事件の犯人が四條だったので、人形を壊した犯人も四條だと考えていた。それが答えの出ない誤った道だった。同じように人形を壊したのが国城環だと話していたことで、ある一つの事件という枠組みの中でトリックをしかけたのはすべて一人だと誤認してしまった。

 言われた通り視点が近過ぎたのだ。

 もっと離れて見るべきだった。

 集中して考えて、しかし一点だけを考え続けるのではなく、俯瞰して見る。

「協力してもらうように依頼した……? いや、たぶんしていない」

 青梅は独り言のようにつぶやいたあとで国城環を見た。

 この人は、そんなことを人に頼んだりはしない。そうなるように場をデザインし、見えないレールに沿って人を動かす。四條なら一番に駆け寄って、その状況に気付き鍵をかけるはずだと信頼していたのだ。もちろんもしそうならなかったときのことも考えていただろう。鍵がかけられていなくとも大きな問題はない。謎が少し減るだけだ。

「そうだろうね。まったく四條さんは優秀な人間だよ。そんな彼を使い捨てるんだから目の前の人間はなお恐ろしい」

「より良いものがあるのなら、交換しようと考えるのは当然ではありませんか? 良いものが現れなければ、そのままで使い続けていられたのです。日々、継続的なテストが必要でしょう?」

「さあ、どうでしょう。趣味は人それぞれですからね。世の中にはコレクターもいるでしょうし」水喰土が笑う。「まあ、これで三つの謎は解けて消えたわけです。些細な問題としては能上さんの携帯電話がありますが、こちらは事件時は国城さんが能上さんのものだけを持ち込んで使用し、事件後は自室の机の上にでもおいておいたのでしょう。その後に、いつでも素晴らしい仕事をしてくれる四條さんが勝手に処分してくれたわけです」

 国城からの否定の言葉はない。

 すべて実現は可能だということだ。

「あとは証拠の提示だけですね。それがあれば認めましょう。なければまだ、不可能な状況を可能な状況だと説明しただけに過ぎません。それだけなら、他の方の不可能な状況も同様に可能だと説明することもできるかもしれませんからね」

「できるでしょうね、あなたなら」水喰土が言った。

 国城環が微笑む。

 まるで負けることを知らない顔だ。

 けれど、それを待っているようにも思える。

「しかし、証拠の提示とは難しい話です」水喰土が頭をひねる。「これがなんてことのない相手ならミスや油断もあるでしょう。けれど、あなたはあの天才として名を広めた国城環です。もし仮に国城さんが犯人だとして、証拠を残すような計画を実行しますか?」

「しませんね」

「そうです。四條さんとは違い時間が限られていたわけでもない。すべてを自身でコントロールできたわけです。それで、もし仮に証拠が残っていたとするならそれは罠でしょう。今回は、そんな罠のようなものもなかったわけですが」

 えらく饒舌だ。言葉だけでは敗北宣言にしか聞こえないのに、その口調には余裕と嘲りが感じられる。

「証拠はないということでしょうか」

「ええ、考えた限りでは見つかりませんでした。だから作りました」

 証拠を作った。言葉の意味を受け入れるのに時間がかかる。それは捏造ということではないのか。

「こちらが証拠です」

 水喰土が携帯電話をポケットから出し、テーブルの上に置いた。

「あのときの室内を録音したものです。人形が入っていた箱を調べる際に上に置きました」

 人を踏み台にしてまであんなことをしたのは、このためだったのか、と青梅は驚く。それなら踏み台になったのは無駄ではなかったと。

「下からでは見えないため、お気づきにならなかったでしょう。迷いましたよ。先程お話したとおり、私は、能上さんが殺害された段階で、それがあなたの望みから起こったものだと考えました。人形を壊すことも望みなのだろうと。そうしたとき、私は人形を守ってほしいという依頼と依頼主が本当に望んでいる未来のどちらを優先すべきか。結果としては人形が壊れる方を望んでいると考え、守ることをやめました。言われたことを実行するだけでは一流ですからね」

「一流を超える者は言われたこと以上をすると?」

「二流の人間も余計なことをするでしょう。どちらにしても一流なんてつまらないものにならなくて済むわけです」

 水喰土が笑った。なにがおもしろいのかわからない。

「守って頂いてもよかったのですけどね」国城環が苦笑した。「しかし録音はルール違反ではないですか。お願いしていたはずですよ。録画や録音は控えてくださいと」

「ルールとは破るためにあるものだと行動力に優れた人はよく言いますね」

「それはひどい……」

 言葉とは裏腹に国城環はまだ笑うように目元をあげている。

「ところで中は確認されたのでしょうか」

「いえ」

 水喰土が不思議そうな顔を見せた。

「ここでお互い聞くのがいいだろうと考えました。では、よろしいですね」

 水喰土が机の上に置かれた携帯電話に手を伸ばした。画面をタッチし録音にしようしたアプリを起動しようとしていた。しかし、音声は一向に聞こえてこない。

「どうされましたか?」国城環が尋ねる。「申し訳ありません。私もいい歳なものであまり若い人の使う道具はわからないのですが、そういったアプリは録音していない音声も再生することができるのでしょうか?」

 水喰土が顔をあげる。

「ええ、まさか箱の上にあるとは思いませんでしたが、たまたま確認したときに誰かの忘れ物を発見したので、ルール通りに録音は停止し、それまで録っていたものは削除させて頂きました。壊してしまっていないかだけ心配でしたが謝る機会もなく、探偵さんのものでしたか。大丈夫ですか?」

「壊れてはいませんね。ゲームも普通にできてます。穏当に扱って頂きありがとうございました」

「それはよかった」国城環が微笑んだ。「それで、話が逸れていましたが証拠はどちらにあるのでしょうか?」

 目を覆いたくなる。

 あの状況で油断せず確認して見つけることができたこの人が恐ろしい。

 どうすればいいのか。

 トリックの不可能性は排除した。

 だから証拠だけあればいいのに。

「指紋というものはご存知ですよね」

 当然だ。国城環も頷く。いきなりなにを言い出すのだろうか。用意していたものがだめになって言い訳でも並べようというのか。

「人形を壊すのに使われた日本刀からは誰の指紋も見つかりませんでした。考えられるのはあとで拭いたか、手袋をしていたということですが、今回は拭いた形跡はあったとのことです」

「拭いただけでは誰が持っていたのかはわかりませんね」

「人間の手の脂というものはその程度ということですね。ところでインクが手について落ちなくなったことなどはありますか? 印鑑を押すための朱肉などが気づかないうちに手について、インクがさわった別のものに移ってしまうとなかなか落ちずに困ったりしますよね」

 青梅は子供の頃の経験を思い出す。指が赤く染まって触った紙に指の模様が赤くついていった。そこで青梅は気付く。もう答えは目の前に用意されていたけれど。

 油断はなかった。

 この人にも。

「仮に、この携帯電話に無色透明無味無臭のインクが塗られていたらどうでしょうか。失礼ながら、ルールを大切にされる方の手を汚してしまったかもしれません。ええ、健康上の問題がでるようなものではないです。洗えばすぐに落ちますし、着物は別の目立つ汚れから処分されたとのことなので、弁償を要求されずに済みそうで助かりました。ところで、人が死んでいないのであまりしっかりとは調べていなかった警察に再度、お願いしたところ刀から国城さんの指紋と同じ模様がべっとりとついていたそうです。通常の指紋とは違う方法で調べなければいけなかったので最初は見逃していたようです。証拠はこちらでいいでしょうか?」

「もしその携帯電話に素手では触っていないと言ったら」

「同じインクをあの箱の南京錠にも塗っておきました。ルールブックにはインクのついた手で触らないでくださいと載っていましたでしょうか。一応、触る前に触ってもいいかは尋ねさせてもらいましたが」

 水喰土が両の手の平を見せる。

「素手でお触りになりましたよね?」

 それなら踏み台はいらなかったではないか、と青梅は思うが、あの頭の悪い大騒ぎが囮だったのかと考え直す。わざわざ箱の上を確認して、そこに何かがあるように思わせ、録音が目的だったように見せつつ、本当の罠は別のところに仕掛けてあった。

 青梅は国城環の顔を伺う。

 歪んでいたりはしなかった。変わらず微笑んでいる。まだ何か覆すようなことがあるのか。

 国城環が口を開いた。

「いいでしょう。合格です」

 なんという上からの言葉だろうか。予想外の言葉に青梅は反応できない。そんな青梅の動揺を気にせず、水喰土が緊張を解いてみせる。

「ああ、よかった。これで報酬も頂けます。疲れました。もう相手にしたくない」

「なんですかそれ」青梅は怒気を混ぜて言った。

 二人の空気が理解できなかった。探偵と犯人であるはずだ。犯罪を暴いたはずだ。彼女は人を殺すような指示を出したのだ。それなのにまるで勝ち負けがついたという様子でもない。国城環から悔しさのようなものは感じられない。

「仕方ない」水喰土が言った。「別に僕らが勝ったわけでもないし」

「だって」

「国城さんは、自らの所有する人形を壊しただけ。四條さんへの指示は証拠もないし、言葉通りに受け取れば指示とさえ言えない。殺人幇助とするのも難しいだろう。出題された問いを完璧に解いたからといって、出題者を超えたわけにはならない。君も僕も、所詮、手のひらの上で踊らされていたようなもので、せいぜい要求されたマイムをこなせたかどうかの差がわずかにあるだけ。すべては想定の範囲内だろう」

 青梅は言われた言葉を理解する。間違ってはいない。正しい。国城環を見る。微笑んでいた。薄気味が悪く、気持ち悪い。人間ではない人形のようだ。人間を超えてしまっている。

「いえ、お二人とも期待以上の活躍でした」

 褒められても嬉しくない。

「一つお聞きしてもいいでしょうか。どうして人形を壊したかったのか。紫橋先生から聞いてきてほしいと言われていまして」

「人形を殺したかっただけです」

 笑みが消えた。わずかな時間でまた、能面のような笑みが戻る。錯覚だっただろうか。いや、そうではなかった。確かに見た。

「助手の方にはお話しましたね」

「なにか聞いたの? 共有されていなけれど」

 なんのことだろう。心当たりがない。

「六十年前、私のはじめての接吻をあの人形は見ていました」

 接吻? 言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。ゆっくり咀嚼して思い出す。

「おぞましいことです。私はある男性に無理矢理、唇を奪われました。その場面をあの人形に目撃されたのです」

「ちょっと待ってください」青梅はあせって声をだした。「あれですね。ファーストキスの話ですよね。それが無理矢理だったということですか」

「そうです」

 青梅は恐る恐る浮かんだイメージについて尋ねる。

「大変失礼なことを伺いますが、強姦されたということですか?」

 ニュアンスをぼかして言っているということかと青梅は考えた。国城環が答える。

「違います。言葉のとおりです」

「人形にキスシーンを見られたぐらいで、こんな大事にしたということですか? 六十年前のことですよね。人形ですよ。見たと言っても記録されるわけでもない」

「ただただショックでした。そうではありませんか? 私の記憶にはあのときの人形の目が今もしっかりと残っています。あのおぞましい瞬間を眺めていた冷たい人形の目が」

 たしかにショックを受けるものだとは思う。つらいことだろう。だが、そうは言ってもずっと昔の話で、それもたかがキスひとつだけのことではないのか。歳をとって耄碌したのか。しかし、それでは説明がつかないぐらいに頭が冴えている。ただ狂気に溢れているという点を除いて。

「人形なんていつでも壊せるじゃないですか。好きなときに処分すればいいんですよ。ご自身の持ち物なんですから」

「できるだけ大勢の前で辱めて殺したかったのです。私が受けた屈辱と同じように。三十年前は機会があいませんでした」

 目の前の人間がなにを言っているのかまったく理解できない。天才? まるで子供じゃないか。

「ちょっといいですか」水喰土が言葉をはさんだ。「その先生の唇を奪った男性はどうされているのでしょうか。まだご存命ですか」

「その少しあとに、研究に行き詰り自殺されたとのことです」国城環が悲しみにあふれるような口調で楽しげに微笑んだ。

 絶対に自殺ではない。

「わかりました。受け入れることはできませんが、理解はしました」水喰土が言った。「紫橋先生にそのまま伝えます」

 青梅はそんな簡単に理解することができない。これまでも国城環がどのような人間なのかまるで掴めてはいなかったが、余計にわからなくなった。

「もちろんそれ以外にも目的はありました。彼の代わりとして育てた四條を見てもらいたかったのです」

「彼?」

「あなた方の恩師です。私の手を離れてしまったあの子を呼び寄せて、四條と比べたかった。残念ながら本人は現れずその教え子たちが送られてきましたが。しかし、期待以上でした」

 製品を比較して機能をテストするというような言葉。その対象は四條、水喰土、そして青梅自身だ。青梅はその考え方に嫌悪する。生きていればそれぞれ多くの人間と比較されるのは当然、どうしようもなく存在することはわかっている。学業のテストであり、仕事であり、恋愛であり、みんな誰かから何かの基準で評価され、自身が選ばれることを望む。しかし、目の前の人間の言葉はもっと次元が違うように感じられた。鋭利な感情。

 機械だってもっとやさしいのではないか。

「水喰土さん、もし二つ目の事件が生きている人間をターゲットにしたものだった場合、あなたは同じような手段を選択しましたか?」

 人間が殺されるとわかっている場合に、人間を助けるのではなく証拠を残すことを選ぶのかと尋ねている。そうだ。これもまたハンデのひとつであった。

 青梅は水喰土よりもはやく声を出す。思わず机を叩いてしまった。

「するわけないじゃないですか!」

 国城環からの視線は、おさなごを暖かく見守るようなまなざしだった。まだなにも世界をわかっておらず、無邪気で微笑ましいとでもいうような。

 青梅は憤りつつ水喰土を見る。ゆっくりとした佇まいで、思考を巡らせているように見えた。目元のほくろに視界を囚われ、わずかに遅れて水喰土が微笑んでいることに気付いた。

「うちの助手が代わりに答えてくれたとおりです」水喰土が答えた。「少なくとも今はそう考えているとしか言えません」

 含みのある言葉だった。青梅はその返答にも納得がいかない。心のどこかでは条件次第ということも理解していた。もしその先で千人が死ぬようなことがあるのなら、一人の被害で食い止めることが正しいと言うこともできる。だけどそれを受け入れたくはなかった。

「どちらもまだ開花していないところが多くあるのでしょう」国城環が話す。

 青梅はくやしかった。

 この人間を傷つけたいと思った。

 罪に問うことはできない。

 なら、ぶん殴ってやろうか。

 それは悪いことだ。

 正義ではない。

 ただ我慢ができないだけで、そして目の前の天才と違って、その罪を隠すほどの余裕を持っていないだけだ。

 それでも……。

「青梅さん、やめましょう」国城環が言った。

 気付かれていた。表情に出ていただろうか。破裂しそうだった感情を抑え込む。

「私はあなたを高く評価しています。水喰土さんについても同様です。どうですか? 私のもとに来ませんか? より能力を伸ばすための方法を教えましょう。金銭的な支援もします」

 水喰土はともかく、一体、自分のなにがそんなに気に入られたのか、青梅にはわからなかった。必死に考えてハンデ付きの戦いに運良く勝っただけだ。平等な勝負なら四條の足元にも及ばないだろう。それなのに、心のどこかで嬉しいと感じてしまう自分が嫌だった。

「私は能力を伸ばしたくないのです」水喰土が言った。「バカで普通の人間になって、無知で無能になり、つまらないことに憤りながら、ささやかな幸せを感じて生きて行きたいのです」

 まあ、と国城環が感嘆の声をもらす。

「何より、紫橋先生を尊敬しています」

「奇特な人」

 国城環が残念そうな表情を見せたあとで、視線を青梅に移した。目が合う。油断すると飲み込まれてしまいそうで、しかし、逸らすこともできない。深淵が、あの目の奥にある。

「あなたはいかがですか? 紫橋さんの元を離れて、私の元へ来ませんか。あなたが望むような、いえ、今、考えられる望みよりも素晴らしい人間になれるようにしてみせましょう」

 同じような問いを幼かった四條は聞いたのだろうか。

 そして四條は使い捨てられた。

「四條のことなら、私は見捨てたわけではありません。あれも貴重な才能です。可能な限りはやく出所できるように手を尽くします。その後についても不自由なく暮らせるように用意するつもりです」

 口にしていないことすら表情から読まれた。

「能上さんという方は」

「良く尽くしてくれました。丁重に葬儀を執り行います」

 それだけか。それが才能の違いか。そして、今、自分は選ばれた側の存在にいるのだと青梅は実感した。

「ありがたいお話ですが、お断りさせて頂きます」

「なぜでしょうか。あなたもバカな人間になりたいということですか? それとも紫橋さんを尊敬しているということでしょうか」

 青梅は、首を横に振る。

 尊敬などした覚えはまったくないし、バカになりたいとも思わない。もっと素晴らしい一角の人間になって、明るい世界で行きてみたいとだって夢を見る。スターになってみたい。有名になりたい。そんなささやかで、叶うことがないと知っている願いを持っている。

 それが普通の人間というものだろう。

「紫橋先生のゼミを取らないと単位がもらえないんです」

「単位……?」

 天才が、はじめて、まったく意味を理解できないというような表情を見せた。

「大学の単位です。ゼミを受けないと卒業できません」

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