1章 殺された人形

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「感情は知性をエネルギーに変換する装置だといえます」

 青梅蛍は、研究室でノートパソコンに向かっていた。そして、担当教官である紫橋小桜の言葉を聞いていた。

「それとも触媒と言ったほうがいいかもしれませんが」

 ここは紫橋の研究室。大学三年の青梅はここで彼のゼミを受けている。そういっていいはずではあるが、もう少し微妙、もっといえば曖昧な状況ではあった。紫橋のゼミでは、毎回、学生が準備してきたプログラムやレポートなどを発表したり、それらを見せて意見をもらうような形となっている。そして、それが一通り終わったらあとは各自が作業をしつつ、紫橋の話を聞くことになっていた。それだけならばそこまでおかしくはないかもしれない。だが、彼の研究室に所属するゼミ生は二人しかいなかった。そしてそのうちの一人はずっと大学に来ていないらしく、青梅はその人間にあったことがない。そのため、三年でまだ所属したばかりの青梅が一人で一時間半と設定されているゼミの時間を乗り切るための何かを用意しなければならず、そんなこともできないので必ず紫橋の話を聞くという状況になっていた。

 専攻に関係有るのかないのかわからない、世間話のような言葉の数々を。

 そもそも環境ヒューマン情報学部というのが何をするところなのかわからないものではある。だから教授である紫橋の言葉がよくわからなくても仕方がないのだとも思える。

 この学部を選んだのは青梅自身で、こちらから出したものについては的確に指摘をしてくれることはたしかで、この先生が能力のある人だとはわかってる。ただ少し、少しだけ話の意図がわからず、困惑しているというだけだ。

 せめて他にもゼミ生がいればよかったのにと思う。

 本当は別のゼミに行きたかったが、人気多数のために行われた抽選にあぶれ、青梅は紫橋ゼミの所属となった。

 白髪交じりで、年老いたように見える紫橋だが、話すことにかけてはプロなのだろう、わかりやすい発音ですらすらと話していく。

「青梅くんは子供はいますか?」

 名前を呼ばれたので顔をあげた。バランスを取るように後ろ髪が背中の上を滑りながら下がる。それからゆっくりと言葉を噛みしめて大声を出した。

「いません!」

「そうですか」

「あの、先生、それはセクハラになるかもしれません」

 絶対にいないという年齢ではない。でも一般的というわけでもないだろう。だからこその質問だとも言えるが、そうでなくとも密室に男女ふたりきりなのだ。

「それはすみません。そういうつもりはありませんでしたが、言い訳にはなりませんね」

 紫橋が眼鏡の奥に申し訳なさそうな目を見せる。

 そんなつもりがないことも青梅はわかっていた。それでもそれなら許されるというわけではない。だから繰り返されないように言った。言えばわかってくれる人だと思っているから。ただ、概念全体ではなく、先ほどの質問にだけ限定される可能性はあったが。

「ペットを飼ったことなどはありますか?」

「ないです。でも動物は好きです」

 青梅はプログラムを書いていた手を止めた。目にかかった右の前髪を払う。

「かわいいのでしょうね。先ほどの質問もそういったことが聞きたいものでした。親ばかなどという言葉がありますね。ペットの飼い主が自身の飼っているペットを一番にかわいいと思う現象もあるでしょう。恋愛関係などもそうです。そういった好意のような感情によって、人は知性を失い、かわりにエネルギーを得ます。そのエネルギーが何に使われるかはともかく」

 紫橋が壁の時計を見た。つられて見たが終了の時間まであと十分ほどある。

「今日はここまでにしましょう。少し相談があるのですがいいですか。先程までの話に関係があるものです」

「はあ」青梅は息をもらすように答えた。

「青梅くんはアルバイトを探していましたよね」

 そういえば、そんな話を前にした。去年までやっていた家庭教師のアルバイトだったけれど、教えていた子が無事受験に合格したので、数カ月前から暇になっていたのだ。今は時折、短期のアルバイトをしてはいたが定期的なものはしていないため微妙に金欠だった。

「なにか紹介して頂けるのでしょうか」

 学生課からの仕事などだろうか、と青梅は考えた。大学主催のイベントの手伝いなどがあると、今までやったことはないけれどなんとなく聞く話ではある。

「探偵助手です」紫橋が言った。

「たんてい……」言葉の意味がわからなかった。

「シャーロックホームズとか知りませんか?」

「探偵……。探偵ですか」

「知り合いから事件を調査するのに誰かいい人はいないかと言われていまして。昔の生徒にひとりいるので紹介しようと思うのですが、彼もちょうど助手を探していたので私への報告係なども含めて青梅くんがどうかなと」

「私などできるのでしょうか」

「それを決めるのは私ではありませんが、まあ大丈夫だと思いますよ。彼は変わっているので、むしろ青梅くんが嫌だと言う可能性のほうが高いと思います。まずは顔合わせだけでもしてみませんか。今日、このあと時間があるようでしたら、彼の事務所に行ってみてください」

 紫橋が大きな封筒を差し出してきた。

「事件のことはそこに書いて入れてあります」

 青梅は黙ったまま封筒を受け取った。この後は友人と遊ぶつもりだったが、別に特別重要というわけでもない日常的な約束だったから断ることはできる。探偵助手という普段全く関わることのない言葉にもどこか惹かれていた。

「ダメそうだったら連絡してください。今日一日分のバイト代は私が支払います」

「楽しいでしょうか……」青梅は言った。

「仕事とは楽しむためにするものではないかもしれませんが……」

 紫橋が見えないものをプレゼントするように手を青梅へ向ける。

「それを決めることができるのはあなただけです」



   2


 チャイムがなっている。研究室から出て、青梅は友人が出てくるのをまった。所属している学部の研究室はみんなこのフロアにあり、この時間のゼミを終えた学生たちが少しずつ部屋から出てくる。そんな人の波の中に話しながらでてくる二人を見つけた。鈴掛椛と茜屋茅斗だ。大学にはいってからできた友達で、現在、青梅の一番仲が良い友人だった。

「おお、おつかれ」茜屋が言った。

「とりあえずどこか食べにいく?」鈴掛が問う。

「ごめん、ちょっとバイトが入っちゃって、遊べなくなっちゃった」青梅は頭をさげる。

「バイト?」

「うん、だから今日は二人で行ってもらえるかな」

「青梅行かないのかよー」茜屋が言った。

「残念だよね。あたしとふたりじゃ」鈴掛がさみそうな声を出して言う。

「三人のほうがいいよなってことだよ」茜屋が笑う。

「ごめんごめん。また今度ね」

 手を振って、笑顔で別れた。青梅は駐輪場へ向かって歩く。遊べなくなったことは残念だけど、二人の関係を進めるようなことを考えると自分はいないほうがいいのではないか、とも思う。あの二人はお似合いなのに、なぜか進展しない。もしかしたら自分が邪魔なのではないかと考えている青梅であった。

 お昼時だったので駐輪場は外に出る学生があふれていた。青梅は昼食をどうしようかと考える。ダイエットが必要なほど裕福な暮らしはしていない。かといってがっつり食べるほどの気分でもなかった。それなら二人と一緒にごはんだけ行ってもよかったんだし。結局、コンビニで軽くパンを買うことに決めた。

 自転車で街に出る。学生があふれている道を避けて大通りへ。先生に言われた事務所のあるところはだいたいわかってる。まずは近くまで行って、コンビニで食事でも買い、食べながら詳細な地図でも見ようと思った。

 自転車で進むと風が気持ちいい。探偵とはどんな人だろうか。先生は変わっていると言っていた。先生も他の大学の先生と比較してかなり変わっている方だとは思うけれど、それ以上なのだろうか。助手とはいったいどんな仕事をするのか。危険なことなどあるだろうか。アクションとか、と考えて青梅は笑ってしまった。なんとなく楽しい。自転車を立ち漕ぎしてスピードをあげる。肩掛けの鞄が大きく揺れた。

 たぶんこの辺だろう、というところにコンビニがあったので寄ることにした。少し息があがっている。はしゃぎすぎたな、と本心ではない反省をする。まず飲み物コーナーへ向かった。最近、売っているのはカロリーオフばかりだなと感じる。それに水も多い。もうちょっとエネルギーの補給になりそうなものがせっかくだからいいのだけど、と青梅は思う。それからパンの棚へ向かった。ピザのようなパンと甘いシナモンロールを手に取る。レジは混んでいたので、列に並んだ。前には三十代ぐらいの男の人が立っている。小さめのパックに入ったパスタを持っていた。これだけでお昼が足りるのだろうか。同じ男性である茜屋などが食べる量に比べるとかなり少ないように思う。

 前の男が振り返ったので、眼をふせた。

「青梅さん?」

 青梅は名前を呼ばれて顔をあげる。聞き違いではないかと思った。けれど男は言葉を続けた。

「紫橋先生のところの子だよね」

 青梅はうなずく。男の左目の下に泣きぼくろが見えた。そして引きずられるようにその上の目を見てしまう。笑っているように歪んでいる目。蛇のようだなんて、使い古された比喩が思い浮かぶ。

「あの……」

「僕は水喰土」

「お待ちのお客様どうぞー」

 レジから元気で明るい声が聞こえた。

「ああ、じゃあ、またあとで」

 男がレジの方に進む。

 青梅は男の方を見ていたが、別のレジがあいたのでそちらへ進んだ。頭はさっきの男性のことでいっぱいだった。

「ディーカードをお持ちですか」

「いえ……」

「こちら温めますか」

「いえ、いいです」

「飲み物とパンは別の袋にしますか」

「一緒でいいです」

「ディーカードはお持ちですか」

「えっ?」

「ディーカードをお持ちですか」

「いえ、持ってないです」

 二回目? 最初の返事が聞こえていなかったのだろうか。それとも出すまで聞く作戦なのか。お金を払い、商品を受け取った。男が行った方のレジはもう別の人の会計をしていた。さっきの男はどこに行ったのか。店の外に出ると、青梅の自転車のそばで男がコンビニの袋をさげて立っていた。

「じゃあ、事務所行こうか」

「あの……」

「これ、君の自転車でしょ」

「あ、はい」

「アルバイトということでいいんだよね」

「はい。あの……」

「なに?」

「あなたは……」

「水喰土礫。紫橋先生の元教え子で、職業は探偵ということになっている」

「水喰土さん」

「そう。偽名だけどね」

「えっ」

「君のことはもうすべてわかった」

 すべてとはなんだ。そんな簡単にすべてなんてわかるはずがない。

「説明はご飯を食べながらにしよう。お腹が空いてるんでしょう」

 水喰土が青梅の持つ袋を見て言った。

「別にそんなには」

 青梅は慌てて否定する。

「そう? ならいいけど」

「私の生年月日はわかりますか?」

「知るわけないだろう」

 ほら、すべてなんてあるはずがない。青梅はしてやった、というような気持ちになる。

 水喰土が青梅を見ていた。その眼はいやらしいようなものではなかった。もっとなにか実験のために動物を観察しているような、そういった冷たさを持つ眼のように思えた。

 青梅は恐る恐る尋ねる。

「なにかありますか?」

「君は僕を惚れさせてくれるかなって」



   3


 コンビニのすぐ近くに水喰土の事務所はあった。共有の駐輪場に自転車をとめて、階段を登り事務所へ。つけっぱなしだったらしいテレビからは殺人事件のニュースが流れていた。都内だ。電車を使えば一時間もかからないところ。

「座って」

 水喰土がソファを指して言った。彼はそのまま反対に座る。

 ここまで来るのに会話はほとんどなかった。彼の発言に驚いてしまって、あとはただ言われる通り、自転車を押してここまでやってきた。こんなところに来てしまって、危険ではないかという感覚はある。ただ先生の紹介なのだから、そんなおかしなことがそう簡単に起こるわけもないだろう、とも思っている。

 この恐怖は未知に対するものだ。

 だから対処法は知ることしかない。もしくはもう関わらないことにして逃げ出すか。

「食べながら話そう」

 水喰土が袋からパスタのパックを取り出した。割り箸で食べ始める。

 青梅もパンをテーブルの上に広げた。それからペットボトルのサイダーをあけて喉を潤す。

 またあの泣きぼくろだ。

 顔をあげると水喰土の目の下にある黒い点が目に入り、そこからあの目に引き寄せられる。まるでそういったシステムが組み上げられているかのように。

 目があって、水喰土が微笑んだ。だけどやさしさは感じない。

「あの……」青梅が言った。「なんでわかったんですか?」

 コンビニで初対面のはずなのになぜわかったのかということだ。

「先生から今日の君の服装を聞いていた。七分袖の上着に薄い青色のズボン。あと髪型。黒くてロング、前髪は右側だけ長くわずかに立っている。左側は額がはっきり見える形にあげてピンかなにかでとめられている。こういう子が行くよって」

「自転車は」

「君が降りるところを見てたから。僕のほうが前に並んでいたけど、お店に入ったのはあとだった。君が商品を選んでる間に、僕はいつも買っていたもののところへまっすぐに行って手に取り並んだというだけ。なにかとてもすごい考察でもあるかと思った? 不可能なことはできないよ。僕にできるのは可能なことだけ。人よりその範囲は広いけど」

 言われてみれば本当に単純なことだった。でも聞かなければ魔法のように思ってしまったかもしれない。

 水喰土は会話をしつつもテレビをみていた。

「これ、先生からです」

 青梅は鞄から封筒を取り出して渡した。水喰土がそれを受け取り、中に入っていたプリントを眺める。依頼の詳細が書いてあるのだろうか。

「アルバイトはどうする? 依頼の内容を部外者には話せない」

「水喰土さんは私でいいんですか?」

「ん? 問題はないよ。会話は成立するようだし」

 水喰土が笑った。

「青梅さんが嫌でなければお願いしたいな。お金もそんなに悪くはない程度に払うつもりだし、さきにそっちの説明がいるならしてもいい。依頼達成時のボーナスとか」

「さっきの言葉を説明してもらってもいいですか」

「惚れさせてとかだよね」

 なぜすぐにわかるのだろうか。

「僕はさ、バカになりたいんだ」

「バカ……ですか?」

「普通の人と同じようになりたい。くだらないことに笑ったり、怒ったり。まったく論理だってないことをさも当然のように話したり。不幸なことを不幸だと理解できないようなぐらい知性を失いたい。それがなかなか大変なんだ。歳をとればバカになれるんだろう、と思うけど、もしかしたらそれもダメかもしれない。だからテレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしたり、そんな努力をしてるんだけど、どうもまだ効果が出ない。人は集まるとバカになる。孤独は天才の学校だなんて言ったりする。だから多くの孤独な人たちはそこに入学するけれど、みんな卒業できるわけではない。結局、ただ孤独なだけの人はほとんどがそのままで終わるか、どこかで仲間を見つける。僕も仲間を探したけれど見つけることができなかった。仲間になるには同程度の知能まで落ちる必要があった。その知能程度を得るために仲間を欲してるのにね」

 水喰土が笑った。テレビを見ながら早口で語っている。

「何かに熱中すれば学者やプロの将棋指しやなにか、頭を使う偉い人になれたのかもしれない。でもそんなものよりも僕がなりたいものは普通の人間だった。普通のバカな人間」

 水喰土がテレビを見ながら早口で語る。

「恋をすれば人はバカになるでしょう? だから君に惚れることができたらいいな、と思った。それだけだ」

「それって失礼ですよ。それにそんなことを言ったら、嫌われるかもしれません」

「失礼ということについてはその通りだ。嫌われるかについては、別に片思いでもいいんだ。恋をしたいだけなのだから。それとも両思いになったほうがより知能を捨てることができるかな。それは僕だけの問題ではなく相手の意志が必要だから、それこそ失礼だと思って望みはしなかった」

「わかりません」

「そう」

「ただ、アルバイトはしようと思いますので、よろしくお願いします」

「それはよかった」

 水喰土の表情がぱあっと明るくなった。本当に喜んでいるらしい。

「もうひとつ質問ですが、紫橋先生はこのことを知っていて私を紹介したのですか」

「僕の考えは知っている。先生は僕の考えを説明すると言っていたけど聞いていない?」

 そういえば、そんなような話をしていたかもしれない。ただ、より抽象的だった。

「先生は頭がいいからね。誠実に話しすぎて、普通の人には理解できない言葉になったのかもしれない。一応、言っておくと君が女性だから紹介してもらったというのなら、それは違う。君の先輩も先生に紹介してもらって僕の助手をしていたことがある。彼は男性だった。僕は彼と友情を結びたかったけれど、それはダメだった。彼は旅にでてしまったよ。だから君が女性かどうかに作為はない。たまたま女性だったから、というだけだ」

「先輩はどこへ行ったのですか……」

「さあ?」

 彼は微笑んだ。意図が含まれているのかそれともなにもないのか、判断がつかないような笑みだった。

 彼が立ち上がって、机の方へ歩いた。それから書面をひとつ持って戻ってくる。

「一応、契約書にサインしてもらえるかな。秘密は漏らさないという約束だけはしてもらわないとね」

 書かれていることをしっかりと読む。何も問題のあるようなことは書いてなかった。探偵という職業はよくわからないが、業務で知り得たことを外に漏らしてはいけないという誓いのような文面だった。

 あとはここで働くことがいいのか、どうかということだ。この人が信頼できるのか。その答えは現状、ノーだ。恐怖心のようなものがある。だけど、そんな恐怖すらもなにか好奇心をおびたもののように思えた。

 ゆっくりと書面に名前を書いた。

「ありがとう。今日から君はうちの従業員だ」

「よろしくお願いします」

「じゃあさっそく依頼の内容を説明しよう」

「それ、見せてもらってもいいですか?」

「これ?」

 水喰土が先生からのプリントをテーブルの上に広げた。紙面の上に文字はほとんどなく、青梅の名前とちょっとした説明、紫橋のサインが入っているだけだった。

「これは紹介状みたいなものだよ。本人ですよっていうね。依頼の内容なんて部外者に持たせるわけにはいかない。依頼内容についてはネットを通してもらってる」

 水喰土がテレビのチャンネルを変えた。

「国城環って知ってる?」

「いえ……」

 青梅はテレビの方を見てから答えた。

「ああ、ごめん。テレビはドラマを見ようと変えただけで意味はない。今週、ずっと見ている再放送があってね。医療ものなんだ」

 たしかにちょうどドラマがはじまるところだった。オープニングから真剣な表情の役者たちが白衣に身を包んで叫んでいる。

「じゃあ深影傾は知ってるかな」

「はい」

 それは天才として有名な人の名前だった。まだ三十代の前半だが、さまざまな技術の発展、サービスの開発に関わり、多くの有名企業から支援を受けていると聞いたことがある。雲の上のような人だ。霞の先にいて、実態が掴めないというような意味でも。

「国城環は前世紀の深影傾のような人だった、と言えばわかりやすいかな。僕らよりももっと上の世代の人間に天才といえば誰か、と聞けば国城環の名前がでてくる、そんな人だ。もう八十歳ぐらいで随分前に引退したはず。亡くなったとは聞いていなかったけど、まだご存命だったんだね」

「その人がどう関わっているんですか?」

「国城環、彼女が今回の依頼者だ」



   4


 水喰土礫は新聞を読みながら依頼や今日、出会った青梅蛍のことを考えていた。

 青梅は、明日、一緒に依頼者と会う約束をして帰った。依頼の内容について簡単な説明はしたけれど、彼女は納得できていないようだった。そうだろう。水喰土も依頼についてはじめて聞いたときはおかしなものだと思った。

 密室で人形が殺されていたというのだから。

 ただ、まあ、それだけのことではある。

 なぜそんな状況になったのかは不思議だが、物理的に不可能というものではない。いや、聞いた限りでは不可能な状況ではあるのだけど、密室というのはいつだって一見、不可能な様子に作られているものだ。だからそれだけならば別に大騒ぎするほどのことではない。目の前の新聞におまけでついてくるようなただのパズルと強度こそ違えど大差はない。

 もっと不思議なものはそんなものを作ろうという人間の存在だ。

 テレビで昼間、放送していた殺人事件の続報が流れていた。どうも犯人が自殺したらしい。目的を達成したからだろうか、それとも罪を悔やんだからか、もしくは生きていく希望を失ったからか。

 今回の依頼を受けた事件は、明らかに作為的なもので偶然の産物ではない。だから、犯人と呼ぶべき人間がいることになる。その犯人からしてみれば、事件の謎を解いてしまうことは望んでいるものではないだろう。

 その結果、その人はどうするだろうか。

 答えが今、用意されているわけではないから、いくら考えてもわかりはしない。それはどんな天才だってそうだ。依頼の密室も、密室だったという話だけでは、解き明かすことはできない。

 だから考える価値がある。

 答えが存在する問題なんて、考えても楽しくはない。

 もっとわからない、わからない、と普通の人間みたいに悩んでいたい。

 そうして、悩むような問題がどんどん簡単になっていき、それでも何もわからなくて、誰かに答えを聞きたくなるようなそんな時をずっと待ち望んでいる。誰かに尋ねて、「これはこういうことだよ。こんな簡単なこともわからないんだね」と言われてみたい。

 その頃には探偵なんてもうできなくて、普通の人と同じような仕事をできるようになっているだろうか。我慢して、頭を使うふりをして、大変そうに、どうでもいいことに悩んでお給料をもらう。前はそれができなかった。だからこんな仕事をしている。

 携帯電話が震えた。

 電話か、めんどうだな、と水喰土は思った。

 手にとって、かけてきた人間が紫橋だとわかって、水喰土は歓喜した。今にも崩れ落ちそうにだらけていた姿勢をただし、テレビを消した。それからボタンを押す。

「先生!」

 水喰土は自分の声がうわずっているようなのを感じた。平静を取り戻そうと息を吐く。

「もしもし」紫橋のいつでも変わりない落ち着いた声。「依頼は問題なく受けてもらえるということでいいですか」

「もちろんです。明日、会いに行くとアポイントをとっています」

「それはよかった」

「国城さんとはお知り合いだったのですね」

「昔、少しお世話になりましてね。ここ数年はまったく連絡をとっていませんでしたが」

 二人が揃ったところを思い浮かべた。どんな会話をしたのだろう、想像はむずかしい。

「どのような方ですか」

「聞いている噂があれば、その通りだと思っていいと思います。聡明で、理想のような。まさに天才でした。今もまだそうかもしれません」

 そんな天才と呼ばれていた人が、自身で解決するのではなく、先生に依頼したのですね、という言葉が浮かんだが口にはしなかった。

「それならば僕の手に負えない可能性もありますね」

 そうしたら、助けてもらえますか、と水喰土は心のなかでつぶやいた。

「可能性はいつだってありますが、明日、隕石に打たれる心配はしていません」紫橋が自明とでも言うような口調で話した。「彼女はどうですか。助手のアルバイトをすることにしたと連絡はありましたが」

「どうでしょう。とりあえず働いてくれるというだけで十分だと思っています。普通の学生さんですよね」

「いまのところは」

 その言葉に水喰土は声を出して笑った。

「いつか変わるのでしょうか。できればずっと普通でいてもらいたいものです」

「その願いは叶わないと思っていたほうがいいでしょう。それではよろしくお願いします」

「はい。何かあれば報告します」

 電話を終えて、水喰土はソファに体を投げ出した。天井のライトを見つめる。紫橋から頼りにされたことが嬉しかった。それは普通になりたいという水喰土が常日頃から抱いている願望とは矛盾する。紫橋は、水喰土の能力を見込んで、この依頼を持ってきた。もし、水喰土が普通の人間だったらこんな風に話す機会もなかった。

 むずかしいものだな、と思う。

 だけど、そんな矛盾を抱えることが普通の人間らしい、とも思える。

 そしていつか、矛盾を抱えたまま、しかし認識は持たずに生きるようになれればいい。

 今日、会った女性の顔が浮かんだ。

 青梅蛍。

 彼女も先生に何かを期待されているのだろうか。

 眼からは涙がこぼれていた。

 


   5


 青梅蛍と水喰土礫はタクシーに乗って移動していた。ふたりは後部座席で、離れて座っている。駅で待ち合わせ、タクシーに乗ってから会話はない。青梅は沈黙に耐え切れずに声を出した。

「水喰土さんはどのぐらい本気なのですか?」

「なにが?」

 フロントミラー越しに水喰土が外を眺めている顔が見えた。

「人形のことです」

「人形を壊した人を調査するだけでしょ。普通にするだけ」

 そう言われれば、そうなのだけど、人形は密室という奇妙な状況で壊されていたのだ。そんなおかしな点についてもう少し話したいと青梅は思っていたが、タクシーの中で運転手にも聞こえることを考えるとこれ以上、内容を突き詰めて言えなかった。

「私はどうすればいいですか?」

「普通にしてくれればいいよ。助手としてふさわしい行動を自分で考えてください。問題があったら言います」

「わかりました」

 会話が続かない。続ける気が感じられないと思う。青梅は自身をそんなにコミュニケーション能力の低い方だとは思ったことがない。初対面の人であればそれなりに緊張するが、特に苦もなくそのうち打ち解けて話せるようになることが多かった。だが、それは相手も同じように話をしようとしていたからなのかもしれない、と今、思う。水喰土は言葉を無視するわけではない。ただ、キャッチボールをして返ってくる球に、これで終りね、というような意志が込められている気がするのだ。年齢の問題なのか、能力の問題か。昨日、孤独が云々と言っていたが、そんな気質のせいで友達ができなかっただけなのではないだろうか、と青梅は思う。天才とか関係なく。

 なにかやっぱりまずい人に付いてしまったかな、という気がしていた。それでも仕事は仕事なので、できることはしようと思う。それに密室で壊された人形という事件も気になっていた。いざとなったらこんな人に頼らずじぶんで解決してしまえばいい。

 昨日、帰ってから国城環についていくらかインターネットで調べた。そうしてわかったことはこの人がいたからこそ、今、使っている携帯電話やパソコン、ネットワークなどがここまで発展したのだという偉業の数々である。なにより目を惹いたのは、単一の事業ではなく、その数だ。まるで分身でもしているのではないかというぐらいの功績に関わっており、最初は名義貸しかなにかだと思っていたがさらに調べるとそうではないらしいことが見て取れた。たしかに部下がおり、実働部隊も存在するが、そんな者たちを導き、実行させる元となるのものは国城のアイデアであり、それまでの思考だった。

 世の中にはすごい人がいるものだ、というのが青梅の感想である。

 そんなすごい人でも時代が経てば忘れられていくのだから大変だとも思った。

 勉強不足と言われればそうなのだが、今の学生たちに聞いても国城のことを知っている者はあまりいないのではないかと思われる。授業で教わった覚えも、テレビで見たような記憶もない。青梅自身、優秀な成績の持ち主というわけではないが、さほど悪くもない。平均的な知識量からの一般的な感想ではないかと思う。

「着いたよ」水喰土が言った。

 窓の外には高い塀がずっと続いている。天才と言われるだけあって、お金もたくさん稼いできたのであろう。特許なども多く持っているはずである。それにもとから資産家の家系であるらしい。塀の長さから敷地の広大さを想像し、そこからさらにお屋敷まで考えて、青梅は少々、緊張してきた。

 入り口らしきところで青梅はタクシーから降りる。水喰土が料金を払っている間、ふらっと進んで門の前に立った。高く続く塀にも驚かされたが、この門はさらに迫力が感じられた。お客を迎え入れようという雰囲気はなく、侵入を拒んでいるかのようだ。青梅は監視カメラに気付いた。じっと見られているのに耐えられないのでインターホンを押したいが、それは水喰土の役目ではないかと思う。青梅は手持ち無沙汰だったので携帯電話で時間を確認しようとポケットに手をいれた。しかし、あるはずの携帯電話がズボンのポケットにない。どうしてだ、少なくとも駅までは持っていた。まさか……。

「どうかした?」水喰土がタクシーから降りてきた。

 タクシーの扉がしまる。

「ケータイ、タクシーの中に落としたかも」

 青梅はタクシーを止めようとする。だけど、それよりもはやく出た水喰土が運転席の窓を軽く叩いた。サイドウインドウを少し開き、水喰土が説明すると扉を再度あけてくれた。水喰土が中に入り探してくれているようだ。

 できれば自分で探したいと青梅は思う。自分のミスで、ただでさえ恥ずかしいのに、何もできないこの時間がもどかしかった。

「あったよ」水喰土が携帯電話を持って出てきた。そのまま運転手にお礼を言う。

 笑顔の運転手がタクシーを出し、残された私は、親切な探偵から携帯電話を受け取った。

「ありがとうございます」

「普通ぽくっていいね」

 水喰土が微笑んでいる。

「忘れ物とかしないんですか?」

 水喰土がわずかに考えるそぶりをしてから言った。

「した記憶がないな」

 さらに考える姿を見せる。

「忘れ物した記憶を忘れてるだけかもしれない」

 水喰土が門のインターホンを押した。すぐに反応がある。

「どのようなご用件でしょうか」男性の声。

「水喰土と申します。紫橋の紹介で参りました。国城環様にお取次ぎ願えますでしょうか」

「お迎えに伺いますので少々お待ちください」

 インターホンの接続が切れる。お屋敷の方からこちらへやってくるのだろうか。しばらく待っていると横の通用口が開いた。中から青年が現れる。

「四條葵と申します」

 青年が礼儀正しく頭を下げる。見た目からは自身と同い年ぐらいではないだろうか、と青梅は思う。ただ、あまり学校で見たことがないタイプにも見えた。ほどよく整えられた黒い髪、しっかりとした姿勢や落ち着いた口調から聡明さを感じさせる。かっこいいであるとかイケているというよりも端麗という言葉がふさわしい雰囲気を持っていた。

「どうぞこちらへ。ご案内致します」

 青年の後につづいて、青梅と水喰土は庭園の小道を進んだ。どの木も樹形が整えられている。自然ではなく人の手が入っているからこその美しさだ。青梅は前を歩く青年の背中を見る。彼は屋敷の使用人だろうか。ただ、まさにというような、そういったイメージの服は来ておらず、服装だけでいえばその辺りの大学生となんら変わらない。雰囲気だけが違うのだ。

 お屋敷の前に着いた。和風の建築だ。外見からは時代を感じさせる。開かれていた引き戸から中へ。ここは中庭へ続く通路となっているようだった。通路と言っても狭い道ではなく、両腕を広げて三人分ぐらいの幅がある。その両側にお屋敷への入り口があり、わかりやすいように石段が置かれていた。サンダルがいくつか並んでいるところを見るとここで靴を脱ぐらしい。こういう場所をなんと呼ぶのだったか。

「どうかした?」水喰土が言った。

 表情に出ていただろうかと青梅は思う。

「すごくどうでもいいんですけどね。こういう和風の靴を脱ぐ場所になにか名前があったようなと。玄関でなくて、昇降口とかでもなくて」

 本当にどうでもいいと水喰土が嘲笑し、それから言った。

「土間」

 ああ、と青梅は声をもらす。謎めいて空いていたスペースに言葉がぴったりとあてはまった。

「よろしいでしょうか」

 青年が言った。青梅はいくらか頬がわずかに熱くなるのを感じる。青年の後に続いて靴を脱ぎ、青梅と水喰土は屋敷にあがった。

 全体がどれぐらい広いのかよくわからない。どこかに隠れてお殿様でも住んでいそうだ、と青梅は思う。

 縁側の廊下を進んでいく。入ってくるときに見えた庭園も離れてみるとまた違った印象だった。たぶんこちらから見る方が正しいのだろう。角を曲がり奥へ進んでいく。向こうから壮年の女性がやってきた。

「四條くん、お客様?」

「国城先生がお呼びした探偵の方々です。人形の事件について調査して頂こうと」

 女性が水喰土と青梅を見る。歳をとってはいるが、くたびれてはおらず、芯のある強さを感じさせる。そんな雰囲気と目をしていた。

「水喰土です。こちらは助手の……」

「青梅蛍です」青梅は慌てて変な声を出してしまう。

「そう」女性は視線を切った。「国城環の娘の喬子です。お夕飯はどうされるの?」

「特に決まってはいませんが、どうされますか?」

 四條が水喰土に尋ねる。返答を待たずに喬子が笑顔で言った。

「よろしければ食べていってください。いろいろ話も聞けるでしょうし」

 水喰土が青梅を見る。どうしようか、ということだろう。青梅は肯定の意志を込めて頷いた。水喰土もそれを理解する。

「ではよろしくお願いします」

 水喰土の言葉を聞いて、喬子が喜びならが言った。

「お口にあうかはわかりませんが、腕によりをかけましょう」

 喬子が楽しそうな様子で去っていく。四條が小声で説明してくれた。

「奥様は料理がお好きなのです。よほどの大勢でない限りはお一人でご用意されます」

「ごちそうしてもらうだけで喜んでもらえるならそんなに簡単なことはないですね。おいしければ」

「味は保証します。下手の横好きではありません」

「それはよかった」

 渡り廊下を過ぎて、離れにやってきた。和風だった建物がいつのまにか洋風に変わっている。この離れだけだろうか。外からはわからなかった。四條が扉をあけた。入ってすぐ衝立があり奥は見えないようになっている。導かれるがままに室内を進んでいくと無機質で殺風景な部屋の中央に短い白髪の女性が座っていた。ひと目でわかる。この人が国城環だ。

「おかけになってください」しわがれた、しかし弱さの感じない声だった。

 水喰土と青梅は言われた通り、テーブルを挟んで向かいのソファに座る。後から入って扉をしめた四條は、椅子には座らずに女性の後ろに立った。まるでガードマンのように。

 青梅は、なにかの意志を感じたように思う。視線を戻した。目の前の女性を見つめる。彼女は静かな眼差しからそっと微笑んだ。

「国城環と申します」

 不思議な印象だった。昨日調べた限りではもう八十歳であるはずなのだけど、しっかりとした声と姿からはとてもそうは思えなかった。もちろん若くはない。痩せているし相応に皺も目立つ。ただ、どうにかしてやっと体を動かしているというような雰囲気が感じられず、いくらでもこの世界に存在していられるのでは、とさえ思える。

 水喰土が自己紹介をしたので、青梅も慌てて続いた。

「あなたたちが紫橋さんの……」

「教え子です。僕は随分前ですが」

「私は現在、お世話になってます」緊張から口調が強くなってしまう。

「そう」環がくすくすと笑う。「本当は紫橋さん本人に来てほしかったのだけど、あの人も忙しいのかしら」

「ええ」水喰土が言った。「残念そうに話していました」

 そうなのだろうか。あまり忙しそうにしているところを見たことがない。いつ行っても部屋にいるし、授業もあまり受け持ってないようだ。まあ、研究職で実験もないので、部屋にいてもさぼっているというわけではないだろうし、一応、教授なのだから、見えないところで忙しくしているのかもしれないが。

 背後のドアがノックされた。

「どうぞ」

 ドアが開くとそこからゆっくりと顔がでてきた。

「すみません、お手洗いに行ってまして」

 若い女性だった。わずかに息を弾ませている。多分、歳上かな、と青梅は思う。二十代後半で、三十は超えていないのではないかという感じの印象。彼女は自分の居場所を決めかねているようでうろうろとしていた。大きなスポーツバッグを肩から下げている。

「お隣へどうぞ」環が横にずれて自らの隣の席をぽんぽんと叩いた。

「どうもすみません」女性がバッグを床に置いて、申し訳なさそうに座る。

「こちらはライターの八田秋流さんです」四條が紹介する。

「どうも」

 八田が中腰で立って、手を水喰土の前にのばす。握手を求めているようだ。水喰土が少し驚いたようだったが返すよう手を出し共に両手で握手をする。

「探偵の水喰土です。よろしく」

 それが終わると八田が青梅の前にも同じようにして手を出してきた。青梅はジャンプでもしかねない勢いで立って手をだす。八田の手は硬く温かかった。

「青梅です。探偵助手です」言っていて自分でも、はてなが付きそうな口調だな、と思ってしまった。

「八田さんは初対面の人と握手するのが趣味なんですよ」環が楽しそうに笑う。

 青梅は離された手をつい勢い良くひっこめてしまった。そのまま座る。

「その紹介は悪趣味じゃないですか」八田が座りながら冗談ぽく怒った。「手に触れるといろいろ人となりが感じられるんですよ。趣味じゃなくて職業病です」

「なにかわかりましたか?」青梅は尋ねる。

「いや、ほんとそういうんじゃないですよ。なんか確かめておきたいってだけで。そういうのは探偵さんが得意の役割なんじゃないですか」

 ふいに話をふられた水喰土がきょとんとした顔を見せる。

「やってみましょうか? 国城さんか、四條さんがよければ」

「よろしくお願いします」環がさっと手を出す。

「国城先生は有名人じゃないですか」八田が言った。

「まあ、余興ですから」水喰土がそっと環の手を包んだ。そしてすぐに離す。「結構です」

「もう?」名残惜しそうな環の声。

「そうですね……。天才の手とはこういうものか、とまず思いましたが、人となりとしては、とても自分勝手な性格をされているのではないでしょうか」

「まあ」環が声を出す。

「能力で場を支配し、思うがままに人を操っていきます。それでもその見据えているものが常により正解に近いものなので誰も逆らおうとはしません」

「ひどいことを言うものです」

「……と紫橋先生がおっしゃってました。当たっていましたか?」

「そうですね。ここで怒ってしまっては正解だと証明してしまうようなものです。後で紫橋さんにきつく怒っておくことにしましょう」

「それがいいです」水喰土がにこにことしている。

「まったく、あの人は。人の教えることにいつも逆らってばかりいたのにこんなことを」

「紫橋先生の先生だったのですか?」青梅が尋ねる。

「ええ。もうずっと昔のことですけどね。頭がいいのに、様々なものを見られる子でした」

 頭がいいから、ではないのだろうか、と青梅は思う。

「八田さんは人形を取材するために滞在されています。人形が壊れたときも写真を撮影されていたので、協力してもらうためにお呼びしたの」

 環が水喰土のほうを見て言った。横を見ると水喰土が苦笑いを浮かべている。なにか表情に出していたのだろうか。

「別に帰ってもいいんですけどね、せっかくなので泊まらせてもらっていろいろ撮らせてもらってるんですよ。かわいいおばあちゃんとか美少年とか」八田がカメラのシャッターを切るジェスチャーを見せた。

 八田の説明によれば、文章も書くがメインは写真ということだった。本当は写真だけにしたいのだけど、それだけでは食べていけないと笑う。バッグの中にはカメラなどの機材が入っているのだろう。

「なにかあったら聞いてください。写真は見せますし、説明もできます」

「では、そろそろ依頼についてお聞きかせ頂けますか」水喰土が環のほうを見て言った。「情報は頂いていますが、はじめから説明をして頂けるとありがたいです。もしあるのなら写真なども添えて」

 水喰土の言葉に、環はわずかに固まった様子を見せてから微笑んだ。

「そうね。どう説明しようかしらん。結論から言えば、人形を壊した犯人を来週の日曜日までに見つけてもらいたいということです。それがもし叶わないならば、最低限、事件を繰り返さないようにしてください」

 繰り返さない。

 そう、それが大事なことなのだ。

「来週の日曜日、人形を蔵から出します。三十年に一度だけ箱から外に出した人形を清めるというのが昔から続く我が家のしきたりなのです。先日、壊された人形はリハーサル用のレプリカでした」

「これがその写真です」八田がテーブルの上にタブレットを置いた。

 水喰土がタブレットを手元に引き寄せる。

 画面の中には人形が写っていた。

 周りの人間から考えて等身大と言っていい大きさのようだ。

 黒い箱から項垂れるように上半身が飛び出していて、首の辺りから伸びるロープで宙に固定されていた。

 壊されたと聞いたからもっといろいろなところを潰されたのかと思っていたが、想像よりも原型を保っていた。だから、まだ人間のようで、気持ち悪さを感じる。

 首吊りの死体。

 長く黒い髪で表情は見えない。緑色の着物を着ていて、足元がいくらか乱れているようだ。膝を付くような形で曲がっている。壊されたのは足だろうか。それとも首の辺りに負荷がかかったのかもしれない。

 タブレットを指で操作し、水喰土が写真を続けてみていく。

 壊れた人形と怯える人間たちの写真でいっぱいだった。

「一応、お聞きしますが、こういった縄で縛られる趣向の人形ではありませんよね?」

「違います。本来は立ったままの状態です」環が微笑みながら言った。「縄は箱の上部に固定されていました。そこから伸びて人形の首に輪の形で巻き付いておりました」

 ピンと貼ったロープが写っている。

「人間なら死んでいますね」水喰土が言った。

「絞殺です」環が言う。「ええ、ですからこの人形は殺されていたのかもしれません」

 壊されていたのではなく、殺されていた。違いは本来、対象が生命を持っているのかどうかのはずだ。しかし、人形は当然、生きてはいない。それでも殺された、と言うのは、どのような違いだろうか。悪意。そんな言葉が頭に浮かんで、泡のようにはじけて消えた。

「現場はどのような状況だったのですか」

「こことはちょうど反対にある離れでした」環が話す。「連理の間と呼ばれている場所です。蔵の前に広間が二つ、それから蔵があり、さらに裏側には小部屋が二つと連なった構造となっていて、その二つめの広間で発見されました」

「見取り図あります」

 八田がタブレットを逆から操作して、この家の見取り図を出した。

「いまいる場所がここ」八田が端の方を指差す。「事件はこっちです」

 見取り図をタブレット上でスライドさせて、反対側の離れを出していた。たしかに五つの区画に分かれている。渡り廊下から入った部屋、その奥の広間、そしてさらに奥が蔵なのだろう。裏にも小部屋が二つあった。

「一番外側の部屋は施錠されておらず、二つ目の部屋と蔵はそれぞれ別の鍵で施錠されています。蔵を基準として対象となる位置の鍵は同じものです」八田が続けて説明してくれた。

 青梅は言われた言葉を頭で反芻しながら見取り図を確認する。表から二つ目の部屋と裏から二つ目の部屋は同じ鍵ということだ。

「人形はレプリカも本物も普段は奥の蔵に箱へいれ鍵をかけた状態でしまっています」環が説明した。「儀式の際は箱にいれたまま中央の広間へと運び、そこで一度、ひとりを残して皆が外へでます。そうして残されたひとりが箱から人形を出し、清め、すべてを終えた後で皆が広間へと戻るのです」

「なぜそんなことを?」

「人形が恥ずかしいからじゃないかしらん」環が小首を傾げる。「服を脱がせて、全身を拭くのです。彼女の裸を見世物にするのは失礼でしょう?」

「人形に感情はありませんよ」水喰土が手を組んで言う。

「ええ」

 さも当然という風に環は肯定し、説明する。

「持っているのは人間です」

 環が続ける。

「ずっと続いているしきたりです」

 水喰土は黙っている。環が言葉を続けようとしていることが青梅にもわかった。

「人間は感情の生き物なので」

 青梅はどこか寒気を感じた。

「たとえ意味がない非科学的なことでも人間はするものでしょう?」

「意味がないかは人間のそれぞれ個人が決めるものですからね」

 水喰土が軽く声を出して笑う。

「たとえば人形を殺したり」

「あるいは人形を作るということ自体が不思議です」環が話す。「私もイデムを作りました」

「イデム?」

「それはあとのお楽しみとしましょう」

 よくわからないはぐらかしだが、環と四條の様子を見ているとあとで説明してくれるのだろう。八田も楽しそうな表情を浮かべている。

 水喰土が顔の前で手を組んだ。

「続きをお聞かせください」

「人形を清めている際は、鍵がかけられています。誰も覗き見ることさえもできないように」いたずらな人をたしなめるような言葉で環が言った。「扉が閉まり中の人間が人形の元へ戻って少しして、声がしました。ひどく慌てた様子で、要領を得ず、混乱しているようでした。そうして、やっと開かれた入り口から中を見ると、目に入ったのが先ほどの壊された人形です」

「いくつか質問してもよろしいですか?」

「どうぞ」

「人形が入った箱はレプリカも三十年ぶりにあけられたのでしょうか」

「いいえ、違います」環が言う。「その前の日に準備として一度、あけました。そのときは元の形を保っていましたので、その後、壊した人間がいるのだろう、と考えています」

 それはそうだ。三十年前に壊した犯人を探すのは難しい。そんな依頼はしないだろう。

「中にいたひとりというのはどなたですか」

「使用人の能上さんです」

「どのような方ですか」

「ずっと我が家に仕えてくれている男性です」

「本番でもその方が?」

「ええ、そういったしきたりです。そうでなければ練習になりませんから。もっとも今回はその練習自体ができませんでしたが」

「誰が担当するかもしきたりがあるのでしょうか」

「私が決めました。こちらは特に決まりがありませんので、信頼のおける能上さんにお願いしました」

「不安はありますか?」水喰土が問う。

「ないということはありません」環が平然とした調子で答えた。「こんなことがなければ不安もありませんでしたが、今は私自身が人形と向き合うべきだったか、という気持ちがあります」

「代わることは可能です。物理的には」

「しきたりですから」

 シンプルな答え。水喰土は少々面食らった様子に見える。

「しきたりを破るとどうなるのでしょう」

「家の繁栄が途絶えると」

「失礼ですが、それを信じられているのでしょうか」

「まさか」環が笑う。「そもそも家の繁栄などというものに興味もありません。ただ、無為に反抗するほど若くはないだけです」

 青梅は不意に四條を見た。目が合う。微笑みかけられるわけでもなく、ほんの数秒互いに見つめ合い、青梅は恥ずかしくなって視線を外した。雰囲気のある人だ。国城環にも感じたが、それよりもさらに深くミステリアスな印象を感じる。なにを考えているのだろうか。さきほどから国城環の斜め後ろで、じっと立っている。さっきはガードマンのようだと思ったが、なにかもっと献身的で、物語の中で恩ある者を守る獣のように感じられた。獣と言っても野蛮ではなく知恵があり温厚だが敵意を見せれば襲い掛かってくる。そのようなイメージ。

 彼はモテるだろう。だけどきっとそんな風に近寄る人間を相手にもしないだろう。

「この一連の行いに名前はありますか?」水喰土が確認するように尋ねた。

「いえ、ただ儀式と呼ぶようにだけ伝えられています。名前がないことに価値があるのかもしれません」

 そういうものだろうか。なんとなくかっこいい名前があるようなイメージだったが、まあ、日常で儀式などという言葉を使う機会がないのでそれで充分なのかもしれない。

「鍵はどのように管理されていましたか?」

「蔵と広間とレプリカの箱の鍵は建物の鍵を管理する共同の場所にいつもあります」

「誰が持ち出せますか?」

「身内のものならば誰でも」

「そうすると誰でも壊せたことになりますね。夜中にみんな寝静まったころ起きだして、鍵をとり、人形を壊す。難しくはないでしょう。最後に確認したのが前日ならば丸一日、皆にチャンスがあることになる。これではちょっとアリバイを調べるというわけにもいきません」

「申し訳ありません」四條がふいに声を出した。「最後に確認したのは前日ではありません」

 国城環がゆっくりとふりかえった。

「国城先生が最後に確認されたのが前日です。一番最後に壊れていない人形を確認したのは私だと思います」

「いつですか?」

「当日のお昼過ぎぐらいです。ログが残っているはずですから調べれば正確な時刻がわかります」

「ログ?」

「部屋の入口はICカードでのロックになっています。カードが使用された時間、内側からか外側からか、扉の開け閉めなどが記録されるのです」

「ちょっと待ってください」水喰土がわずかに乗り出す。「それはオートロックなのではないですか? 扉が閉められたら自動的に施錠されるような」

「そうです」

「つまり密室というようなおおげさなものではないのですね」

 自動で鍵がかかるのならば、話の上でも不可能ではないということだ。人形を壊してそのまま部屋から出るだけいい。

「そうなの」国城が無邪気な様子で微笑む。「紫橋さんに来てもらおうとわざと黙っていました」

 青梅の頭に攻撃的で品のない言葉が浮かんだが、すぐに振り払った。

「けれど、そんな必要はなかったかもしれませんね」

「人形が壊されて発見されたのは何時でしたでしょうか」

「午後の二時過ぎです。集まりが二時にはじまりましたから」八田が答えた。

「そうすると二時間弱の間に壊されたことになりますね」

 一気に時間がせばまった。

「そのときはなにをしに?」

「能上さんと一緒に最後の確認をしていました。部屋の様子と人形を確かめ、しっかりと扉をしめて鍵がかかったのを確認して離れました。皆様が昼食をとられている時間です」

「そのときは人形は無事だったと。それで、その鍵となるカードはどうされました? 管理している場所に戻したのでしょうか」

「いえ、儀式の前まで持っていて、はじまるときに能上さんに渡しました」

「合鍵は?」水喰土が四條から環の方へ視線を動かしつつ尋ねる。

「管理会社に預けております」環が答えた。「連絡すればすぐに持ってきてもらえますし、複製して増やしてもらうことも可能ですがその場合は記録が残ります」

「事件のあと念のため確認しましたがそのような記録はありませんでした。カードは持ちだされておらず、複製もされていません」四條が話す。「ログについても発見時のものを除けば、先程の確認が最後でした」

 青梅は頭の中で状況を確認する。おもちゃの人形がシンバルを叩こうとするように、ゆっくりとした回転で理解を積み上げていく。

 合鍵は使われていない。当日のお昼の段階で人形は無事だった。その後、鍵が渡されてすぐ、人形が壊された状態で見つかった。

 つまり、誰にも壊せないということだ。自然崩壊でもしたのか。人形が自ら壊れ、首を吊ったのでもなければ。

 そんなバカな話があるはずがない。

 ここはもっと聞かなければいけない。そう思った時に水喰土が言った。

「すべてわかりました」

 えっ、と思う。

「犯人がわかったのですか?」青梅は尋ねた。

「それは対象外だ。当然だろう?」

 水喰土がなにを言っているのだ、と呆れたような顔を見せる。ああ、当然だ。呆れたいのはこちらなのだ。当然ゆえに普通、その状態で「すべて」とは言わない。水喰土の目と泣きぼくろが斜めに動くのが見える。視線が国城の方へ戻った。

「現場と人形をみせてもらえますか」水喰土が話す。「あとはできれば能上さんにもお話をお伺いしたいですね」

「もちろん構いません。能上さんはいまはどこかしら」と国城。

「連絡してみましょう」四條が言った。「まずは人形のところまでご案内致します」

「それではまたのちほど、お夕飯のときにでもお話しましょう」国城環が言った。

「ええ、楽しみしています」水喰土が立ちながら言った。

「ありがとうございました」青梅も追うように立つ。

 あれ、どうして夕飯に参加するってわかったのだろう。

 国城環が微笑んだ。

「こちらこそ」



   6


「その不満そうな顔は四條さんのこと?」

 現場へと向かう途中、水喰土が聞いてきた。青梅は、はっとして表情をもどそうとするが普段がどうだったかよくわからず赤くなってしまう。

「それがひとつです。四條さんの言葉についてなぜもっと聞かなかったのかなと」

 言葉という言葉を強調した。

 四條はいま近くにいない。現場の鍵をとってくるとのことで、青梅と水喰土、八田の三人を離れ近くの待合室のような場所に案内した後、どこかへ行っていた。三十分ぐらい経っただろうか。

「不思議なことではあるけれど、そう言われたらあれ以上、聞いてもしょうがないかなと思って」水喰土が笑いながら言う。「可能性は考えられる。事実。嘘。事実であり彼が実行犯。事実であり誰かをかばってる。嘘であり彼が実行犯。嘘であり誰かをかばってる。事実でも嘘でもそれ以外の理由。強気で問い詰めれば口を割りそうな人ならしてもいいけど、彼はどうもそうではないように思える。だから今はとりあえず話を聞いている。いいかな?」

「はい……」

「それに気になるなら自分から聞いてくれいいんだよ。探偵助手なんだから」

 水喰土の笑み。いやらしい。

 それはそうなのだ。しかし、もっとこうマニュアルとか用意してくれたっていいだろう。まだアルバイトをはじめて一日目の研修期間のようなものだ。うまく動けなくたって仕方ない。

 雇い主に対して複雑な気持ちはあったが口には出さなかった。

「次からは、そうします」

「顔はあまりそう言っていない」

 きびしい雇い主だ。

「複雑な気持ちがあるんですよ。探偵助手なので。事件に対して」

「なにかわかったら教えてね」

 奥のふすまが開いた。四條だ。こちらへとゆっくり歩いてくる。

「お待たせしました」四條が主に青梅の顔を見て言う。「どうかされましたか?」

「いえ、別に」青梅は答える。

「事件の考察をされていました」八田が言った。

 四條について話していたことを言うだろうかと一瞬、どきっとしたがそういったことはなかった。大人だからか。でも、それはここに水喰土と青梅がいるからで、いなくなれば話すのかもしれないなとも思う。

「そうですか」

 四條の笑みには怖さがない。水喰土となにが違うのだろうか。興味のあるなしか。それが感情というものかもしれない。

「カードキーを探してみたのですが、見つかりませんでした。能上さんが持ち出しているのかもしれません」

「電話はできますか?」水喰土が尋ねる。

「先程から何度かかけていますが」

 四條がポケットから携帯電話を取り出して、画面を操作する。そのまま耳にあてたが、どうも反応がないらしい。

「出ませんね」

 四條が携帯電話をおろして画面を見ながら首を傾げる。

「行ってみましょう。鍵を持ち出しているのならば人形のもとに行っている可能性が高いです」

 青梅と水喰土は四條のあとに続いて歩く。さらにその後ろに八田が続いていた。それにしても広い家だ。国城環のところからなので、家の端から端まで移動していることになる。一体、どれぐらいの広さがあるのだろうか、と青梅は大学のキャンパスを思い浮かべた。どちらが広いか、たぶん大学のほうだとは思うけれど、それでも絶対にかと言われれば迷う程度の広さはある。

 ぞろぞろと歩いていく。

 土間に出て、一度靴を履いて向こう側へ、そしてすぐまた室内にあがる。奥へ回ればそのままでも行けるらしいがこちらのほうがはやいということだろう。庭に面した廊下を進んでいると少女がいるのが見えた。長いスカートで池の前の石に座っている。

 少女もこちらに気付いて首をかしげる。

「彼女は?」水喰土が四條に尋ねた。

「上木弓海さんです。国城先生の甥である上木亮平さんの娘さんです。今回の儀式のために週末はお父様とこちらへ滞在されています」

 立ち止まって話していると少女がこちらへとやってきた。

 なんだかふらふらしているような、安定感がない。綺麗な女の子だ、と青梅は思う。人形のようだ。でも糸が切れてしまっているような印象がある。

「こんにちは」弓海が青梅を見て言った。

「こんにちは」青梅が返事をする。

 間近で見るとかなり細く小さい。まだ成長しきっていないような幼いからだ。自分にもそんな頃があったなと青梅は思い出す。中学生ぐらいだろうか。いつのまにかそんな弱さはなくなって、体はやわらかくなった。大人になってしまった体は、これから老いていくのだろう。

「四條さん、お客様ですか?」

「人形の事件を解決するために国城先生がお呼びした探偵の方々です」

「探偵さん」

「あ、私は助手です」

「久那国のお姫様ですね」弓海が朗らかに笑った。「どうしても遊べないのでしょう?」

「え、え……」青梅はわけが分からず声をだす。

「これからどちらへ?」弓海が四條に尋ねる。

「連理の間です。人形を見てもらおうと」

「ご一緒してもよろしいかしら」

「よろしい?」水喰土が青梅に聞く。

「私が決めることなんですか」

「嫌なら断るよ。僕は構わない」

「私も構いませんよ」

「よかった」弓海が胸の前で手を合わせて喜ぶ。履いていたサンダルを脱いで縁側からあがった。

 歩きながら簡単に自己紹介を交わした。弓海は中学二年生とのことだった。

「弓の海と書いて弓海と読むんです。おかしいでしょう?」

「おかしい?」

「だって、海には矢がないですもの。矢がなければ誰も傷つけることができません」

「誰も傷つかないのならいいんじゃないですか」

 弓海が目を丸くする。それから楽しそうに微笑んだ。

「そうですね。そういう考え方、素敵です。青梅さんはやさしい人ですね」

 角を曲がり、離れが見えた。

 国城環がいた部屋と対象に配置されているなら、あそこが問題の連理の間であるはずだ。渡り廊下を進んで行く。先頭を歩いていた四條が連理の間へ入ろうとしたところで表情を変えた。続いていた水喰土も不思議そうな顔を見せる。

 どうしたのだろうか。

 中へ入ろうとしない四條たちに追いついた青梅も連理の間を見た。

 少しおかしなものが目に入った。

 人間が倒れている?

 部屋の中央になにかが転がっている。

「あれはなに?」八田が言った。

 誰もが思っていたことだろう。

「行ってみましょう」水喰土が言う。声は落ち着いている。

 恐る恐る近づいたが、人間ではないということがわかった。いきものでもない。人間の大きさと形を持ったもの。人形だ。

 壊れた人形が緑色の着物を着せられて転がっていた。

 長い黒髪が花のように広がっている。

「これはどっちですか?」水喰土が尋ねる。

「このまえ、壊されてたお人形さん……」弓海が言う。

「本物のほうを見たことはないので確かなことは言えませんが」四條が人形を観察しながら話す。「着物の色などからして先週に壊されたリハーサル用の人形だと思います。この奥の部屋にあるはずの」

 八田が持っていたかばんからカメラを出して写真を撮り始めた。

「誰がこんなことをしたのでしょうね」青梅はつぶやく。

 人間ではなかった。

 だから安心した。

 一瞬。

 だけど人間ではなかったから不安が広がる。

 どうして?

 どうして、人形が奥の部屋から出されて、ここに転がっているのか。勝手に歩き出したわけではない。気分が悪くて倒れているわけでもない。誰かが何かの目的を持って、やったのだ。

 四條が扉を開けようとするがダメだった。当然だ。この扉は自動的に施錠される。四條もわかった上での確認だったのだろうけれど。

 ここに人形があるのなら、中は今どうなっているのか。まるで想像ができない。

 水喰土が足元を見て、ひとりごとのように言った。

「人形だねえ」

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