岸辺の守り人

ざっと

ver.0 守り人の願い

 どうもご苦労様でございました。なに、このような身なりはしておりますが、怪しい者ではございません。このうつろな岸辺に、あなた様を迎えに上がりました者でございます。そうですね、便宜上、私の外見からとって、“虚無僧こむそう”とでも呼んでください。

 一応、初めましてというわけではないのですが、なにぶん、あなた様に記憶がないのですから仕方のないことでございます。お会いするのは、あなた様をこちらへ送り届けて以来ですから、二度目の邂逅かいこうと相なります。…ああ、一方的にお話しを致して申し訳ございませんでした。

 …聞きたい事ですか。はい、なんでございましょうか。…ここがどこか、でございますか。そうですね、あなた様の疑問ももっともでございます。ですが、この場でここに関する事をお答えすることは禁じられております故、何卒ご容赦の程をよろしくお願い致します。

 …は、私が誰か、でございますか?そうですね、説明するにも少し煩雑な事情がございまして、顔を明かせぬ船頭、とでも申しましょうか。とにかく、運河を渡って、あなた様を送り迎えする役職の者にございます。

 …ではどうしてあなた様がここにいらっしゃるのか、でございますか?それは、あなた様がそう望まれたから、としかお答えが出来ません。なにせ、ここはそういう場所なのですから。

 訳が分からないといったご様子ですね。無理もないことでございます。先ほども申し上げた通り、今のあなた様には記憶がないのですから、そうなってしまうのも当然でございます。

 …では、なぜあなた様が記憶を失くしたのか、でございますか。そのことにつきましては、帰りの途上にてゆっくりとご説明させていただきましょう。…この場ではダメなのか、ですか?ええ、この場で詳らかにご説明差し上げるのは固く禁じられております。もしこの禁を破ってしまえば、私だけでなくあなた様にまで何かしらの損害を与えてしまう可能性がございます。それ故、何卒ご寛恕かんじょくださいますようお願い申し上げます。…はい、ご納得いただきましてありがとうございます。

では、早速でございますが、お足元に気を付けてこの舟にお乗りあそばしてください。万が一にでも落ちてしまうと、大変ですからね。…ええ、ここの水は大層痛かったでしょう。なにぶん、勿忘草わすれなぐさの色をしたこの大運河は特別製のものでございますからね。

 …はい、それを話してしまってもよいのか、でございますか?ああ、それならご心配には及びません。既に岸を離れておりますから。

 といいますのも、私があなた様のご質問にお答えできなかったのは、ひとえにあの岸の上にあなた様がいらっしゃったからでございます。岸を離れ、運河を渡るこの舟の上でなら、あの場で話せなかったことも話せるというものでございます。

なぜ、ですって?それはと申しますと、この舟の上で起きたことは忘れてしまうのですが、あの岸の上で会得した“記憶”は、現世うつしよに持ち帰ることが出来るからでございます。

 …あそこやここはあなた様が生活していた場所とはちがうのか、ですか?それはあなた様も薄々感じ取っていらっしゃったのではございませんか?あの場所が、どこかこの世ならざる場所であることを。…ええ。あなた様が目覚められたという洞窟の中には、現世うつしよにはないような光を放つ発光植物が自生しておりました。そのほかにも、大地を取り巻くもやの中は、進めども進めども、どこへも辿りつけない永遠の迷宮の如くだったでしょう。岸辺に生えた草花は手折る事すら叶わず、また泥や砂は体にまとわりつくこともない。まるで、そこにあるあらゆる物が、その場所に固定されたオブジェクトのようだったのではございませんか?

 …柔らかいのに土には指すら入らなかった…と。そうでしょうとも。そして、勿忘草わすれなぐさの色をしたこの河の水は、触れるだけで激しい痛みを伴った。まるで、骨を砕き、身を切り裂かれたように。

 …ああ、それは災難でございましたね。ですが、無事こうして戻っていらっしゃってなによりでございます。…はあ、この水はどうなっているのか、ですか。そうですね、端的に申せば逃亡を予防するための安全装置の役割ですが…ええ、安全装置としては役以上の効果がございますよね。ですが、この水は安全装置以外にも役割がございます。

 この水に触れたときの痛みとは、“忘れられる痛み”なのでございます。骨身が粉微塵と裂かれたような錯覚と、どれほど努めても力が入らないというのは、そういうよしにございます。

 どこかで「人は2回死ぬ」といったことをお聞き覚えになられてはおりませんでしょうか?…ええ、その通りでございます。一度目は肉体の死、二度目は人々の記憶からの死。つまりは忘却の事でございますね。

 …ええ、ご明察でございます。あの水の中に溺れるという事は、あなた様の知己の人々の中から、あなた様の記憶が完全に抹消されることを意味します。そうなってしまえば、あなた様は二度と現世に戻ることは叶わず、あの水底で揺蕩たゆたいながらいずこかへと流されてゆくばかりでございました。私自身、この河の上流がどこから始まり、下流がどこへと行き着くのか知らされておりません。ですが、過去に溺れてしまわれた方は二度と現世うつしよに戻ることはできませんでした。そういう意味では、あなた様は幸運でございました。

 …そういう事なら注意書きでもして欲しかった、ですか。それは申し訳ございませんでした。ですが、その要望にはお応えできかねます。そういった不利な状況も含めて、あの場所には必要だったのですから。…それはどういう意味か、ですか。申し訳ございません、その質問にはお答え致しかねます。そのご質問に答えてしまっては、あなた様がひと月もの間励まれた成果が水泡に帰してしまうというもの。私の失言で無用な疑念を生じさせてしまったのは謝罪いたします。ですが、この場は何卒ご容赦いただきますようお願い致します。

 …ご納得がいかないのも無理はございませんが、これも決められたことでございますので。…あの岸の上でなければ問題ないのではないのか、ですって?ええ、確かにあの岸の上で会得した記憶しか持ち帰ることはできず、この舟の上で話したことであればいずれ記憶の中から消えるようになっております。ですが、それでも話すことのできない禁忌というものは存在しているものなのです。どうかご理解、ご容赦の程、よろしくお願い申し上げます。

 おや、どうやらそろそろ現世の岸が近づいているようでございます。…もやに隠れて何も見えない、ですか。それはそうでございます。現世と虚ろの岸との道を此岸の民にお見せする事は出来ませんので、見えないようになっております。…なぜ近づいているのが分かったか、ですか?それは、私もこの仕事をして長いですからね。その経験によってなすことが出来ると言いましょうか、畢竟ひっきょう、我々にしか判らない見分け方というものがあるのです。

 …なんだか無性に眠い、ですか。ええ、先程も申しましたように、現世と虚ろな世界の岸との道は、此岸しがんの方にはお見せすることが出来ないものでございます。その秘匿のための眠気でございましょう。…ええ、ご不安は重々承知しております。ですがご安心くださいませ。あなた様は、ここに来る以前と同じ場所、同じ時刻の現世げんせにて目を覚まされます。何も変わりはございません、何も影響はございません。これまでと同じように現世げんせでの生活をお過ごしになられればよいのです。どうぞ、ゆっくりとお休みなさいませ……。


 ―――問題なく、眠りにつかれたようですね。

 きっと、あなた様にも思い出したい過去が、えにしがあったのでございましょう。ここへいらっしゃる方は皆一様にそういった方々でございますから。あなた様がその過去やえにしを手繰り寄せられたかは、私の存外にあること。もし何かを見付けられていたのなら、あなた様はその記憶を、与えられた勘を頼りに、現世げんせでその“過去”へと向かって行くのでしょう。

 思えば、人というのは面白いもの。たった一つの“過去”のために、他の全てをかなぐり捨ててまで拾いに行こうとする。運悪く河に落ちてしまえば、自分自身が、忘れ去られる“過去”になってしまうかもしれないのに…。それでも、求めるもののために、危険を顧みず、艱難辛苦かんなんしんくを耐え忍び、その先の希望を臨もうとする。

 叶わぬことの方が多いというのに、それでも手を伸ばそうとする…。

私は全てを忘れてしまい、全てに忘れられてしまったが故にここで船頭の真似事なんてことを久遠くおんにわたって続けている。もはや自分の顔も忘れてうしなってしまったから、こうして虚無僧の笠なんて被っている。

 あなた様があの“勿忘草わすれなぐさの岸辺”で何を得たのかは、知るよしもございません。ですが、無為徒労に終わっていたとしても、それでもあなた様が、失くした記憶を手繰り寄せようと藻掻もがくあなた様が、を、心より願っております…。

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