25 神の領域

 大野は腰から拳銃を抜き道化師に向かって構えたが、その作り笑いは変わることなく、村井に向かってゆっくりと歩を進める。


「狙撃手の狙いはあなたですね。ユニオンから暗殺命令でも出たのでしょうか」

 その言葉に村井は苦笑いしながら、エアガンを構えた。


「さて、何のことだか」

 しかしその声は震えている。


 大野は危険なのは狙撃手だと判断して、銃口を道化師に向けたまま黒のワンボックスに視線を移す。


「その銃はユニオンの支給品じゃないですね、だとするとあの殺害はあなたの独断」


 道化師の衣装がライフルを弾くため、狙撃手が考えを変えたのか、黒のワンボックスがゆっくりと動き始めた。


「ユニオンを裏切ってまで罪を犯す……しかしその顔は、金や女と言った欲望が理由ではなさそうですね」


 こちらに向かって速度を増し始めたワンボックスに大野が銃口を向けると、「シュッ」と空気が抜けるような音が響く。

 同時にワンボックスが急ハンドルを切り、甲高いスキール音を立てて急停車した。


 前輪タイヤがパンクし、車体が大きく傾く。


「コソ泥に語る理由などねえ」

 村井がリュックに手をかけ、コックを捻る。


「……なるほど」

 道化師はそう呟くと、後ろのワンボックスを無視して村井に駆け寄った。


 大野は車のドアを開けゆっくりと降りてくる狙撃手と、道化師のどちらに標準を合わせるか判断に迷い。


「ちっ」

 規則通り上空に向かって威嚇射撃をすると、村井に向かって拳銃を突きつけ。


「お前ら! 獲物が殺されたくなかったら、その場を動くな」



 大野は大声でそう叫ぶと……

 心の中で、小さなため息をついた。




 ¬ ¬ ¬




 かすみが叔父の栄太郎に案内された場所は、手術室の奥にある小さな部屋だった。

「このオペ室は使われていないし、この部屋は病院の設計図にも載っていない」


 そう言われると手術室の器具やベッドはピカピカで、使われた形跡が見当たらない。


 栄太郎がポケットから取り出した鍵でその部屋を開けると、十畳ほどの空間にシンプルな事務机と椅子とがワンセットあり、その上には一台のノートパソコンと配線の無い黒電話が置いてある。


 かすみがその部屋に入ると、栄太郎はノートパソコンの電源を入れた。

「このパソコンはインターネットにも接続していない、研究成果を記録するだけのものだ」


 そしてパスワードを入力すると、いつかフェイカーの隠れ家で見たような名簿や症状の記録が出てくる。


「あの麻薬組織は警察に捕まったようだから、被害者の救済が始まるだろう。後の問題は、この記録をどうするかだ」


 栄太郎はそこまで話すと、かすみをパソコンの前に座らせた。


「始まりはキミのお母さんと殺されたその兄……八剱家の二人の研究だ」

 それはある活性細胞を用いた医療研究で、人体にその細胞が入ると病気や怪我の症状が飛躍的スピードで治ると言う。


「がん細胞の亜種のようなものだと、我々は考えている」

 その研究は、ある少年が持つ症状と戦中に行われた人体実験をつなげる形でスタートしたそうだが。


「少年がアメリカの研究機関に預けられることになって、頓挫した」

 しかし数年前八剱病院の一部の医師……この研究に関わっていたメンバーや経営陣に向けて、あるメールが届くようになる。


「もちろんはじめは何かの悪戯だろうと無視していたが」

 国の助成金申請がスムーズに通り始め、具体的な研究方法やそれに対する報奨金が提示され始めると。


「さすがに無視できなくなった」

 そして、八剱病院はその研究に手を出す。


「まったくの言い訳だが……列車事故の例え話のようだと思ったよ」


 ブレーキの利かない列車が工事中の路線を走っている。

 直進すれば五人の作業員を引いてしまうが、手前の分岐を左に回れば作業員1人の被害で済みそうだ。


 はたして分岐を左に渡るのは正義なのか。


「この研究が成功すれば将来多くの難病患者や、死亡確定と思われるような大怪我の患者の命が救えるかもしれない。しかしそれには、今数人の犠牲者が必要だ」


 かすみはそれを聞いて、自分には分岐を左に切る勇気があるかどうか。そしてそれが本当に正義かどうか自問自答した。

 しかし……いくら考えても、回答は出てこない。


「麻薬組織の客たちは、適合者を探すための実験体だった」

 ファイカーが襲撃した麻薬組織にも、他のコンピュータにも研究の詳細を記した完全なオリジナルデータは存在しないと言う。


「これをどうするかは、キミに任せる」

 栄太郎はそう言うと、かすみの顔を見た。


 ――かすみがまた悩み込むと。


「それはそれで、卑怯な手口よ」

 後ろから亞里亞の声が聞こえた。


 かすみと同じ服装で、同じ顔の女性に栄太郎がおどろくと。


「せっかく司法取引に持ち込んで、うやむやにしてあげたのに。随分といらないことをするのね」

 亞里亞は洗練されたキャリアウーマンのような口調でそう言うと、栄太郎を睨み。


 何かに気付いたような栄太郎を無視して、亞里亞はノートパソコンを取り上げ。

「悩んだところで結論なんて出ないわよ。それより下でパーティーが始まったようだから、そっちに移動しましょう」

 かすみに小声でささやいた。


「でも……」

 そのデータをどうするのか気になったかすみが声を上げると。


「『皮をはがれるマルシュアス』……あの絵はアテナの楽器を拾った音楽家が自惚れて、神より演奏が上手いと豪語したのを、音楽の神アポロンが耳にして、勝負をした後の状況なのよ。負けた音楽家のマルシュアスは生きたままその皮をはがされたの」


 亞里亞はそう言うとノートパソコンをひっくり返し、ポケットからドライバーを取り出すと、器用にHDDハードディスクだけ抜き取る。


「殺されたあなたの叔父様は知っていたのかもね、人には踏み込んじゃいけない神の領域があるってことを。この実験が生むのは、治療なんかじゃないわ……人の領域を超えた、人ではない何かよ」

 その言葉にかすみは、以前フェイカーから聞いた『F研究』という言葉が脳裏をよぎった。


 栄太郎は亞里亞の言葉に苦笑いすると。

「神の領域か……そこに至りたいと願う研究者は、罪を犯しているのだろうか」


 ぽつりと、そう呟いて……LEDが照らす真っ白な天井を見上げた。


 亞里亞は自分のスマートフォンをかすみに見せて。

「同じ状況?」

 そう聞いてきた。


 かすみが確認しようとスマートフォンを開くと、数回画面が暗転して通信状態がOFFだと表示される。


「やっぱり妨害電波ね」

 亞里亞はインカムを外して、カチャカチャといじりだし。


「インカムはなんとか行けそう」

 そう呟いてから、インカムを耳に当て。


「何やってんのよあのバカ」



 凄く嫌そうな顔で……

 そう呟いた。




 ¬ ¬ ¬




 大野は道化師の動きが止まっただけじゃなく、狙撃手の動きも止まったことに安堵した。


「で、これからどうするつもりだ?」

 村井があきれ顔で両手を挙げ、小声で大野に問いかけると。


「あいつらは村井さんの命以外に、もうひとつ狙っているものがある気がするのですが」

 大野も小声で問い返した。


「そっちのコソ泥の方までは分かんねえが、車のヤツはこの病院が持ってる研究データだろうな」

「それはどこに?」

「さあ、俺は知らん。そいつを知っているヤツは、病院の中だ」

 村井が手を挙げたまま上を指さす。


 割れたガラスのあるフロアは、以前亞里亞と共に訪ねた副院長室のある場所だ。


 大野は状況をもう一度整理する。

 狙撃手は村井と大野を殺害した後データの有無を確認し、病院内に忍び込む予定だったのだろう。


 それが道化師の登場で、変化している。

 問題の道化師の目的も読めないが…… 行動から、村井の自白を迫っているのは間違いない。

 そしてデータは手元にない。


 ――なら。

「村井さん、嘘でも良いから大声で自白してください」

 今必要なのは時間だと、大野は判断した。

「はあ?」

 あきれる村井に向けて拳銃を更に近付け、引き金に指をかける。


 村井は歩みを止めたままこちらを見ている道化師や、開いた車のドアの隙間からライフルを構えているだろう狙撃手の陰を見て、ごくりとつばを飲み込み。


 大野の無茶振りに、深くため息をつくと。


「狂言で時間を稼ごうなんて、無理に決まってる」

 車に向かって進もうとした。


 大野は村井の首に手をまわし、強引にそれを止め。


「かっこよく殉職して全てを終わらせようなんて、虫がいい話はないですよ」

 小さく息を吸い込むと。


「全員逮捕、そして法の下に全てをさらす。――それが俺の正義です」

 低く、確かな口調でそう呟いた。


「正義ね」

 村井のあきれたような呟きに、大野は眉をしかめ。


「猿引きの猿にでもなったつもりで頑張ってください、俺がなんとか回しますから」

 目の前の道化師の動きを止める『狂言』を必死に考えながら。


 ――これじゃあ食品偽造の釈明会見でささやいてた女将みたいだな。



 ふと、古いニュースを思い出して……

 苦笑いをもらした。

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