幻創師の時環

ミラ

幻創師の時環

 現実が崩壊し、客観時間が意味を成さなくなった今でも、俺は昔の腕時計を捨てることができないでいる。何故かはわからない。世界が変容する以前の記憶に欠落があるのだ。ただ、俺にとって大事な物であることだけは確かだ。

 かつて世界はひとつだった。

 今では個人の内面世界同士がせめぎあって、かろうじて擬似現実が維持されている。言ってみれば一人一人が創造主なのだ。当然そこには摩擦が生まれ、衝突が起きる。

 そこで俺のような存在が必要になってくる。あらゆる幻想、妄想から解き放たれた人間がだ。擬似現実の調和を乱すような誇大妄想に囚われた人間を捜し出し、しかるべき処置を施して、世界の秩序を回復させるのが俺の仕事だ。現術士リアリストと呼ばれている。

 今回の事件は、いささかやっかいだ。

 ここが地球ではなく、火星だと誰かが『気づいた』のだ。

 そのおかげで全世界の陸地が、火星に建設されたドームの内部に閉じ込められてしまったのである。日本は四つのドームに分割された。北海道ドーム、本州ドーム、四国ドーム、九州ドーム。ちなみに沖縄は九州ドームの中だ。

 海は干上がり、赤い岩石の散らばる火星の荒野となった。航海中の船舶は突然キャタピラを備えた地上走行車になった。海に住む魚や鯨は、そのままの姿で石化して荒野に散らばり、太古の火星に生息していた海洋生物の化石ということにされてしまった。

 鰹やら蟹やら蛸やらの形をした赤い石の散らばる荒野を、豪華客船が船底のキャタピラを回転させながら、とろとろ進んでいる光景はなかなか愉快なものだ。が、このまま放置しておけば、いずれ致命的な破綻が生じるのは間違いなかった。

「殺してもかまわんよ」誰かの妄想によって、ガニメデのゼリー状原住生物に設定されてしまった俺の上司は、半透明の全身を怒りでプルプル震わせながら、そう言った。

 妄想の主が日本にいるらしいという情報がどこからか寄せられ、日本最高レベルの現術士である俺が、妄想主を捕らえて擬似現実世界の秩序を回復する任務を与えられたのである。

「というか、殺してくれ。もちろん現実を復旧してからだよ。この姿で固定されたらかなわん」俺の上司は決して擬似現実という言葉を使わない。われわれの組織が維持しているのが唯一無二の現実だと思いたいのだろう。俺はこの上司を軽蔑していた。

「わかりました。では失礼します」俺はことさら丁寧に一礼してから退室した。

 エレベーターで一階に下り、外に出る。日本庭園のあちこちで人々が愛の交歓に打ち興じているなかを、俺はまっすぐ突っ切って永久喫煙者の像の前に立つ。

「ご注文は? げほげほ」葉巻を口の端にくわえたまま、紺の和服姿の永久喫煙者の像が言った。

「愛と感動の結末」俺は言った。

「あっと驚く意外なオチの方がよくはないかね」

「それでもいい。だが、できるのか。今回はいつもと違うぜ」

「何とかなるだろう。とにかく愛は苦手だ」

「まあ、せいぜい頑張ってくれ。くれぐれも言っておくが、夢オチだけは勘弁してくれよ」

 永久喫煙者の像は返事をしなかった。厭な予感がした。

「ねえ、おじさん。私と殺しっこしない?」

 振り向くとゴスロリファッションの女の子が、俺に向かってにっこりと笑っていた。鼻が象のように長く、その先端にカッターナイフをつかんでいる。男根コンプレックスの歪んだ表象が顔に表れてしまったのだろう。俺のペニスを狙っているのは一目瞭然だった。

「悪いが忙しい」

「けち」女の子はそう言って長い鼻を振り上げると、カッターナイフで俺に切りつけてきた。

「おっと」俺はとっさに身をかわし、女の子の鼻をつかんでカッターナイフをもぎ取り、近くにあった消火栓に彼女の鼻を結びつけた。

 女の子の罵り声を背中に聞きながら、俺は大砲屋へと急いだ。

 いつもの場所、つまり『熱湯ソープランド・熱海』の裏手に大砲屋はあった。

「こここんにちわ、お兄ちゃん。ひひ久し振り振りだね」大砲屋の爺さんは俺を見ると、口の端から白いあぶくを垂らしながら嬉しそうに笑った。大人用の紙おむつでズボンが歪に膨らんでいる。

「きき今日は、どどどちらまで」

「大宮脳病院」そこに火星妄想の最有力容疑者が入院しているのだ。

「そそそれじゃ、いい行きますよ。3、2、1、ドン!」

 爺さんのサーカス幻想が生み出した人間大砲から勢いよく打ち出された俺は、ドームの透明な天井に激突することもなく、無事大宮脳病院の屋上に降り立った。

 非常階段を下りて最上階の廊下を歩き、容疑者の病室の前で立ち止まった。ドアを開け、中に入る。

 ベッドがひとつあるきりの、殺風景な病室だ。ベッドは空だった。トイレにでも行ったのだろう。待たせてもらうことにした。客観時間の存在しないこの世界では、待つことは少しも苦痛ではない。

 窓の外に広がる、迷路のように入り組んだ古い日本家屋の瓦屋根の連なりを眺めていると、ドアが開いて白衣を着た中年女性が入ってきた。

「あら、どちら様ですか」

「いやだなあ、美奈子先生。自分の患者を見忘れたんですか」僕は笑った。「先生も冗談言うんですね。意外だな」

「んーとね、そうじゃなくて。一瞬あなたが違う人に見えたものだから」先生は不思議なものを見るような目で僕を見た。

「へえ、どんな人に見えたんですか」

「くたびれた中年男」

「ひどいなあ」

「寝不足で幻覚でも見たのかしら」

「脳病院の先生が幻覚見ちゃ、シャレになんないですよ」

「確かにそうね。ところで調子はどう。まだ痛む?」

「だいぶいいです。先生のおかげです」

「そう。それじゃあ、もうすぐ退院ね」そう言った美奈子先生の顔に一瞬淋しげな表情が浮かんだように思ったのは、僕のうぬぼれだろうか。

「先生、約束覚えてる? 退院したら、僕を大人にしてくれるという約束」

「え、ええ。でも本当に、こんなおばさんでいいのかな。あなたぐらいの年頃なら焦るのも無理ないけど、一生の思い出になるのよ。もっと若い女の子と普通の恋愛をして……」

「先生! 僕は先生がいいんです。先生じゃなきゃ嫌なんです」

「わ、わかったわ。とにかく今は、早く良くなることだけ考えること。いいわね」美奈子先生は足早に病室を出て行った。僕は先生を怯えさせてしまったのだろうか。

 僕は重い気分でベッドに戻ろうとして、自分の左手に見慣れない腕時計がはめられているのに気がついた。

「何だ、これ」腕時計のベルトを外そうとしたそのとき、頭に猛烈な激痛が走った。

「うわあああああ」頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。

 ドアの開く気配がして顔を上げると、見知らぬ中年男が僕を見下ろして笑っていた。

「君を救いに来た」男は言った。「そしてこの世界を、君の火星妄想から救いにね」

 何を言ってるのか、さっぱりわからない。もしかして、この人は狂っているのではないだろうか。

 頭の痛みが治まったので僕は立ち上がり、男と向き合った。

「あなたは一体何なんですか」

「現術士、あるいはリアリストと呼ばれている」

「げんじゅつし?」聞いたことのない言葉だ。本当にそんな言葉があるんだろうか。この男こそ、何かの妄想に取り憑かれているのではないだろうか。僕は怖くなった。

「恐れる必要はない。君がどうして、ここを火星だと思い込むようになったのかわからないが、一眠りした後には、そんな妄想は綺麗さっぱり消え失せているよ」

 やはり狂っている。それとも何か勘違いしているのか。ここが火星だなんて僕は思っちゃいない。

「ここは地球です。そんなことわかってます」

「まあ、そう言うだろうとは思っていたよ。今のところ、ここがいつの間にか火星になってしまっていることに気づいている人間は、そんなに多くはないからね。空を見上げれば、いつでもドームが見えるのに、みんな自分の小さな世界の外には無関心だ。君もそんな人間の一人だと俺に思わせたいんだろう? だが、とぼけても無駄だよ」いつから手に持っていたのか、男は小さな拳銃のようなものを、いきなり僕に突きつけた。「おやすみ、チェリーボーイ」

 どうして僕にそんなことが出来たのかわからない。右足が勝手に跳ね上がって男の手首を蹴り上げ、手に持った拳銃らしきものをはじき飛ばすと同時に右手で掴み取り、男の眉間に先端を向け、即座に引き金を引いた。すべては、ほんの一瞬の出来事だった。

 額に細い針のようなものを突き立てたまま、男はその場にくず折れた。

「危ないところだった」俺は大きくため息をついて、麻酔弾を撃たれて足元に転がっている少年を見下ろした。まさかペルソナを取り替えられるとは思わなかった。敵を甘く見ていたようだ。

「さあ、いつまでも寝た振りしてないで、そろそろ本番といこうじゃないか」俺は少年の腹に蹴りを入れた。

 その途端、少年の体が粉々に崩れ、後にはジグソーパズルのピースの山が残された。

「僕はここですよ」ベッドの上から声がした。少年はベッドの上で結跏趺坐を組み、宙に浮いていた。

「空中浮揚か。凄いじゃないかと言いたいところだが、この世界じゃ何でもありだからねえ」

「その何でもありの世界で、あなたは現実を操作できない。お気の毒です」半眼のまま、薄く笑う。

「哀れんでもらわなくても結構だよ。俺は俺なりに、この世界を楽しんでるからね。ところで君は本当に、あの不細工な美奈子先生に童貞を捧げるつもりだったのかい」俺は、あの醜い女医の姿を思い出して吐きそうになった。なぜ、さっきはあんなに美人に思えたのだろう。

「あはははは、まさか。おじさんが――。おじさんと呼んでいいですよね? おじさんがさっき体験した人格は、美奈子先生の願望が生み出した、架空の僕の人格に過ぎない。もちろん、あんなおぞましい約束をした覚えはありませんよ」

「そうか、他人事ながら安心したよ。でも、どうしてペルソナを入れ替えたりしたんだ?」

「自分の病室に忍び込んだ謎の中年男の正体を、安全に探るためですよ。でも、現術士なんていう職業があるなんて、全然知らなかったな。一体どこから給料をもらってるんですか?」

「それは秘密だ」まさか、俺も知らない、とは言えない。「話を戻すが、君は俺が現実を操作できないと言ったな。つまり、この世界が共同幻想によって支えられていることを知ってるわけだ。妄想世界を生み出している人間は、それが自分の妄想の産物だとは思っていない。あるがままの現実だと思っている。いや、それ以前に、この世界のほとんどの人間は、客観世界が消滅したことにさえ気づいていない。気づいているのは俺のように、一切妄想や幻想を持たない特殊な精神の在り方をした、ごく一部の人間だけだ。君は俺と同類の人間のようだが、それなのに、ここが火星だという妄想に囚われている。解せないな」

「逆に聞きたいんですが、なぜここが火星であってはいけないんでしょうか。絶対的現実が存在しない以上、ここが地球だというのも妄想に過ぎないと思うんですけど」

 俺は背筋に寒気が走るのを覚えた。この少年は、ここを火星だと思い込んでいるのではなく、意志の力で火星にしてしまったのだということがわかったからだ。こんな奴は初めてだ。妄想を持った人間なら、その妄想さえ取り除いてやれば、または別のもっと無害な妄想を植えつけてやれば問題は解決する。だが今回は、その手は使えない。意志の力で世界全体を自由に改変できる、まるで神のような力を持った相手と一体どう戦えばいいのか。 

 「俺はドームに閉じ込められて暮らしたくはない。どこかの馬鹿が手製のミサイルを打ち上げて、ドームの天井に穴を空けでもしたらどうする?」とにかく、しばらくのあいだ話を続けて、相手の手の内を探るしかなかった。

「スリルがあっていいと思いますけど」

「そうかねえ。でも、どうして火星なんだ?」

「別に意味はないです。原因不明のひどい頭痛がして、この病院に入院して治療を受けているうち、いつの間にか自分に現実を変える力があることに気づいたんです。で、そのとき、ここが地球じゃなくて火星だったら面白いんじゃないかなと思っただけで」

 なるほど、この病院で彼に施された治療か、あるいは投与された薬物が、偶然この少年の現実改変能力を発現させてしまったのに違いない。

「おじさんが現術士なら、僕は幻創士とでも名乗ろうかな。いや、士じゃなく、師のほうが格好いいかも。幻創師。どう思います?」

「好きにするがいいさ」俺は言った。「どうやら君には敵いそうもない。俺は退散するよ。じゃあな」相手の反応も待たずに、俺は病室を飛び出した。

 少年は俺を追っては来なかった。本当に俺が逃げ出したと信じたのかどうかはわからないが、俺を脅威に感じていないことだけは確かだ。幻創師か。けっ、ふざけてろ。

 俺は病院内を探し回って美奈子先生のオフィスを見つけ、ドアを開けた。美奈子先生はパソコンに向かって何か調べ物をしていた。俺の気配に気づいたのか、顔を上げ、こちらを見た。

「あら、あなたは」

「くたびれた中年男でございます」俺は麻酔銃を突きつけた。「あんたの可愛いチェリーボーイについて聞きたいことがある」


 再び病室に戻ったとき、少年はさっきと同じようにベッドの上で宙に浮かんでいた。

「すぐに戻ってくると思ってましたよ。どこ行ってたのか知らないけど、お帰りなさい」

「君を倒す方法が見つかったよ」俺は笑った。

 少年は、かっと目を見開いた。その目の中に虚無が広がっていた。

「うわっ」俺は一瞬のうちに、その虚無の中に吸い込まれていた。

 虚無と思えたものは混沌だった。そこには宇宙が誕生してから今までに起きた、全ての出来事が含まれていた。その中から俺は、失われていた現実崩壊前の記憶を取り戻した。

 オーストラリアの荒野に、全長十キロの巨大な指輪のような時間粒子加速器が、日本の国立物理研究所によって建設された。俺はそこで働く研究員の一人だった。ある日、事故が起こった。加速器が暴走し、制御不能になったのだ。原因はわからない。ただ、その事故によって現実が崩壊したのは確かだった。そして俺は加速器の非常停止装置の組み込まれた腕時計をつけたまま、記憶を失って擬似現実の世界に投げ込まれたのだ。

 すっかり忘れていたがその通りだ、と俺は確信した。いや、まて。それが真実だと、どうして言える? これもまた誰かの、もしかしたら俺の妄想に過ぎないのではないだろうか。そうだ、ここはあの少年の精神世界だった。こんなところに真実があるはずはない。

「危うく騙されるところだったよ。偽の真実を見せて俺を懐柔するつもりだったのかな?」俺は周囲を取り巻く混沌に向かって語りかけた。

 そして胸ポケットから取り出した錠剤をいくつか辺りにばら撒いた。「これをどうやって飲まそうか悩んでたんだが、手間が省けた」

 それは、今まで少年が与えられていた薬品の作用を中和する薬だった。俺の勘が正しければ、これで少年は現実改変能力を失うはずだ。

 どこからか呻き声が聞こえてきた。薬が効いてきたのだ。

「ひどいじゃないですか。僕は真実を見せてあげたのに、お返しにこんなことするなんて」少年の声がした。ひどく苦しげだ。「まあいいや。もう、この遊びにも飽きてきたところだし。なんでも自分の思い通りになるって、案外詰まらないものですね。おじさん、短い間でしたが楽しかったですよ。さようなら」

 それが少年の最後の言葉だった。そして、その言葉を聞くと同時に、俺は意識を失った。

 気がついたとき、俺は血と肉片に塗れて、病室に立ち尽くしていた。

 誰かの泣き声がしていた。泣き声のほうに目を向けると、美奈子先生が血溜まりの中で、ばらばらになった骨や肉片、臓物を掻き抱いて、泣きながら少年の名前を繰り返し呟いていた。

 俺は静かに、その場を立ち去った。

 病院の外に出て、空を見上げた。ドームは消えていた。

 俺の仕事は終わった。しばらく休みを取ろう。たまには海外旅行も悪くない。オーストラリアなんてどうだろうか?

 ふと、背後に人の気配を感じた。そして聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ねえ、おじさん。私と殺しっこしない?」

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幻創師の時環 ミラ @miraxxsf

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