狼伯爵の求婚

たちばな立花

狼伯爵の求婚

 鼻歌を歌いながら、男爵家の三女、アイラは最後の洗濯物を干した。公爵家の侍女として勤めること二年。勝手も分かってくる頃合だ。時には使用人仲間と軽口を叩きながら、時には流行りの曲を歌いながら仕事をこなす。


 公爵家は現在息子に爵位を譲り渡し悠々自適の生活を送る前公爵と奥方、そして数年前にその爵位を継いだ公爵とその奥方のみ。奥方の腹には新しい命が宿っている。


 公爵以外のちょうどいい年頃の息子が他にいない上、公爵は奥方を溺愛している為、侍女と主人のラブロマンスなどもある訳もなく、アイラは使用人仲間と楽しく暮らしていた。


「アイラ、ちょっと良いかな」


 洗濯を終えたアイラを呼びつけた公爵は、彼女を執務室へと招いた。アイラはというと、何か失態でもしたかと、ここ数日の仕事を振り返る。


「突然なんだが、君に縁談の話が来ていてね」

「縁談……ですか? 私に?」


 アイラは男爵家の娘。下級貴族であるアイラには、縁談など無縁の話であった。しかも、その話を持って来たのが、父親ではなく勤め先の公爵家。そんなことがあるのだろうかと、首を捻る。


「ああ、先日ウォーラフ伯爵が来たのは覚えているかい?」

「はい、狼様ですよね?」

「そう、狼の一族のね。彼が君を妻に迎えたいと言うんだ」


 この国は人間と獣人とで形成されている。狼の一族を束ねるウォーラフ伯爵は、この国でも有名人だ。伯爵位ではあるが、歴史は古く王族との繋がりも深い。


 ウォーラフ伯爵は公爵とも仲が良く、しばしば訪れては酒を酌み交わしていた。アイラも使用人としてだが、何度か挨拶をした事がある。


「でも、何故私なのでしょう? つがいというわけでもないでしょうし」


 獣人の一部には、『つがい』という特別な繋がりを感じる種族がいるらしい。そのことは、アイラや公爵などの人族の耳にも入っている知識だ。


 その筆頭が狼の一族であった。『つがい』を愛し、一生添い遂げる。それは、愛だの恋だのといった感情よりももっと本能的な、血や魂が感じる深い繋がりだということだ。


 しかし、人間には『つがい』を感じるという感覚は持ち合わせていない為、想像するのが難しい。


 つがいと添い遂げる獣人達は臭いでその存在を確認する。魂が引き付け合う臭いがするのだという話を、アイラは使用人仲間から聞いたことがあった。


 アイラはウォーラフ伯爵と何度か顔を合わせているが、縁談の話が来たのは今日が初めてだ。


 伯爵が、アイラには感じない臭いに反応したとは言い難い。


つがいの場合、一目で分かるんですよね?」

「そうらしいね」

「伯爵とはもう何度もお会いしておりますし……」


 つがいの線はないな、とアイラは一人頷いた。


「悪い話では無いと思うよ」

「はい。我が男爵家からウォーラフ伯爵家に嫁ぐとなれば大出世です。しかし……」

つがいが気になる?」

「はい。もし婚姻を結んだ後、本物のつがい様が見つかった場合のことを思うと」


 つがいとは魂の繋がり。それは赤い鎖で繋がれた運命の繋がりである。しかし、運命の相手に会える可能性は百では無いらしい。生涯会うことなく終わる人生もあるという。


 アイラの不安は本物のつがいの存在であった。


 婚姻を結んだ後に、つがいが現れて離縁となれば目も当てられない。しかし、魂の繋がりに勝る物などある筈もない。そして、離縁された傷物の令嬢を受け入れる相手などいないのだ。


「まあ、直ぐに返事を出す必要も無いさ。いくらでも待たせておこう」

「ありがとうございます。旦那様」


 礼を言ったは良いものの、アイラのその日の仕事は殆ど手に付かなかった。



 ◇◇◇◇



 アイラは縁談の話を有耶無耶にしながら仕事に精を出していた。伯爵家との縁談は非常に栄誉あることだが、身分が見合わない。大した教育を受けていないアイラには荷が重過ぎる。


 両親に手紙で相談しても、「お前の判断に任せる」の一言で済まされた。アイラが受ける決断も、断る決意もできぬまま、日は過ぎていく。


 公爵に呼び出されたのは、アイラが縁談の話を聞いてからひと月程経った後だ。狭い執務室ではなく、広い応接間に呼び出された時に勘付かなかったことを、アイラは後悔した。


 応接間に入ると、公爵の他にウォーラフ伯爵の姿が見える。


 獣人特有のしっかりとした躯体。灰色の髪は襟足だけが背中までさらりと伸びいる。鋭い灰色の眼に、アイラは息を詰まらせた。


 逃げるように半獣を示す三角耳に目をやると、小さな音に反応してピクリと動く。髪と同じ灰色の尾がゆらゆらと小さく揺れている。


 公爵はその様子を見ながら、肩を揺らした。


「紹介しよう。話をするのは初めてだね? 彼が件のウォーラフ伯爵。名はグレイ」

「グレイと呼んでくれ」

「アイラと申します」


 差し出された手を見て、アイラは二、三度瞳を瞬かせた。困ったように公爵を見上げると、彼は優しい笑顔で頷く。


 アイラはおずおずと手を差し出した。グレイは彼女の手を取ると、彼女の指先に唇を落とす。ただの挨拶だと分かっていても、その行為にアイラの胸は大きく跳ねた。


 今まで仕事をしていた手だ。深窓のご令嬢程綺麗ではない。それが何だが恥ずかしくなって、アイラは目を逸らした。


「さて、邪魔者は消えるとしよう。アイラ、今日返事をする必要は無いからね。グレイ、必死だからと言って、無理強いは駄目だよ」

「分かっている」

「君の顔は怖いんだ。少しくらいにこやかにした方が良い」

「うるさいぞ」


 公爵はカラカラと笑うと、応接間を出て行ってしまう。


 獰猛な獣を前に、眼を逸すことも動くこともできず、アイラは立ったまま静止した。グレイは彼女の緊張を素早く察知した。表情こそ変わらぬままであったが、三角耳がしな垂れる。


「あまり怖がらないでくれ」

「……はい」


 頷いてみたは良いものの、アイラの身体は強張ったままだ。公爵が座っていた先に視線をやると、座ることを促す。しかし、アイラの足はなかなか椅子に向かおうとはしなかった。


 堂々と椅子に座る男と、身体を縮こませ立ち尽くす少女。まるで虐めているようだとグレイは眉根を寄せる。


「別に取って食いやしない。まして私は君に求婚した身だ」

「……はい」

「突然で驚いているのだろう」


 アイラが遠慮がちに頷くと、グレイは小さなため息を漏らす。寄った眉の隙間にはくっきりと二つ線ができあがった。


「すまないが、私の為と思って一度座ってくれないだろうか」


 グレイの懇願にアイラが折れる形で、おずおずと座った。テーブルを挟んだ距離は人と人とが話す距離としては充分であったが、アイラは居心地の悪さを感じている。鋭い眼がアイラに僅かながらの恐怖を感じさせていた。遠目で見るとのは違う、獣の眼だ。


「申し訳ございません。まだ、上手く受け止めきれず……」

「ああ。仕方ない。私があいつに無理やり頼んだ。本来なら、自分で少しずつ近づけば良いものを」


 グレイの手段は実に巧妙だ。別の所から声が掛かれば、断る事もできたものの、この話を持ってきたのはアイラの主人。無下に断る事などできない。


 結局のところ、上手い断りの文句も見つからず、アイラはグレイと対峙することになった。


「突然のことで驚いているだろう」


 求婚のことか、今回の訪問のことか。アイラは開き掛けた口をギュッと結んで小さくうなずいた。


「私のことが怖いか?」

「……いえ」

「無理をしなくて良い。目が怯えている」

「申し訳ございません」

「この様な状態では、結婚の話など先の先だな」


 アイラの瞳が不安げに揺れる。その目に、グレイはもう一度「すまない」と呟いた。


 アイラとて、もっとまともに会話できないことを心底申し訳ないと思っている。しかし、その鋭い眼を前にすると身体が強張るのだ。驚くほど繊細な己の心にアイラは頭を抱えた。


「また会いに来よう。少しずつ私を知ってくれれば良い。私達は種族すら違うのだから」

「……はい。申し訳ございません」


 アイラがその場で腰を折ると、グレイは少し眉尻を下げて笑った。



 ◇◇◇◇



 グレイは宣言した通り、アイラに会う為に三日とあげず公爵家を訪れる。公爵が口添えしたのかしないのか、来るのは決まって仕事が終わる時間であった。


 そのことにアイラはホッと胸を撫で下ろす。勤務時間内であっても、公爵はそれを許しただろうが、アイラ自身の心は許せない。仕事をほっぽり出して恋愛にうつつを抜かす事などアイラにはできなかった。


 グレイは時間を掛けてアイラの緊張をほぐし、少しずつアイラの心に触れていく。アイラに毎度手渡す花は、ウォーラフ家の庭に咲く花を朝選んで摘むという。


 アイラの小さな部屋に増えていく花は、彼女の心を揺らしていった。


 顔に似合わない優しい求婚は、アイラの心を少しずつ溶かしていく。


 初めは怖がって声を出す事も難しかったアイラも、グレイの努力の甲斐あって、今では目を見て話すことができる様になった。


 丹念に育てた小さな恋の花が咲く程には、二人の距離はもう人一人分も無い。二人掛けの長椅子に、並んで腰掛けて会話を楽しむまでなっていた。


 グレイはその間、求婚の返事を急かしたりはしない。ただ、彼女の為に公爵家を訪れ、花を贈る。


 彼女の心は既にグレイに傾いていた。しかし、返事をするには至らない。


「アイラ、まだ決めかねてるの? そろそろ返事をしないと、伯爵も可哀想よ」


 使用人仲間が急かすのも仕方ない。既に三月みつきもの時が経過している。グレイの誠実さはアイラにも、そして共に働く者達にも伝わっていた。


「分かっているわ。返事を早くしないといけないこのは」

「分かってないじゃない。大丈夫よ。つがいなんて早々現れないわ」

「他人事だからそう言えるんでしょう?」

「まーね、でも伯爵のこと好きなんでしょ?」

「……ええ、でも」

「まだ怖い?」

「だって、つがいは絶対的な繋がりなのでしょう?」

「そう聞いてるわ。でも、あの方ならそんなのもはねのけてくれそう」

「そんなの分からないわ。一目見た途端、私から心が離れるのを見たくないの」

「でも分かるかも。今まで向けられていたあの甘い眼差しを他の人に向けられるのを見るのは辛そう」


 この三月みつきで、グレイの眼差しは日に日に優しく、甘くなっていった。それは他の使用人達の目からも明らかで、既に二人は結婚を約束したものだと思っている者すらいる。


 それでもアイラが結婚を決めることができないのは、ひとえにまだ見ぬつがいの存在であった。


「もうこれ以上好きになるのも怖いの」

「拗れてるわね〜。もう、この際、ごめんなさいしちゃったら?」

「そう、ね……それが良いのかも」

「それか、伯爵を部屋に縛り付けておく?」


 カラカラと笑う少女に、アイラは物言いたげな視線を送る。


「冗談よ、冗談。アイラ、怒らないで」

「怒ってないわ」

「怒ってる。伯爵の事になると冗談が通じないのよ」

「だって……」

「それくらい、好きなんでしょ? 一層の事、伯爵に相談してみたら?どうせ自分じゃ決められなさそうだし」

「でも……」

「でもでもだってを続けてたら、伯爵は死ぬまでここに通う羽目になるわよ。どうせ受けるか断るか決めなきゃいけないんだもの。思いの丈をぶちまけても良いじゃない」

「そうね。そうかも。次来たら話してみようかな」

「ええ、頑張って。大丈夫よ。あんなにアイラに夢中なんだもの。きっと上手くいく」


 少女の笑顔に、アイラは真剣に頷いた。大きな不安と小さな期待が混ざったまま、アイラは乾いた洗濯物を握りしめる。



 ◇◇◇◇



 伯爵は三日とあげずにアイラに会いにくる。公爵には揶揄されても、気にも止めない。


「今日も来たね?」

「すまない」

「いいや、君みたいに冷徹な狼が一人の女性に夢中になるのは愉快だから構わないよ」

「人の恋路を笑いやがって」

「君だって私が妻に恋をした時は大いに楽しんだじゃないか。次は私が楽しむ番だ」


 公爵が楽しそうに笑うと、グレイは奥歯を噛み締めた。公爵とグレイの付き合いは長い。それは少年時代にまで遡るだろう。公爵はグレイの誠実さを十分に理解していた。


 公爵が現在の夫人に恋をした時、グレイは相談という名の惚気を何度も聞いている。それに加え、何度も協力した。


 グレイがアイラを気に留めた時、いの一番に協力を申し出たのは他でもない、公爵からだ。


「そろそろチェックメイトしてくれないかな? 妻とは結婚祝いをもう決めているんだ。あ、結婚式は子供が生まれてからにしてくれよ?」

「何でお前達の事情に合わせなければならん」

「私は、君の友人でアイラの雇い主。これだけで理由としては充分じゃないか」

「お前という奴は……。でも、そうだな。そろそろこの屋敷に来ることもなくなるかもしれん」

「ほうほう。最近はいい感じだからね。アイラが屋敷から消えたら妻が悲しむだろうなぁ!」


 公爵がわざとらしく大きなため息を吐く。公爵はそういう男だ。それをグレイは分かっていた。だから、何も言わずに眉根を寄せて訴えるくらいしかしない。


「そろそろアイラの仕事も終わる。ゆっくりしていきたまえ」

「ああ、部屋を借りる。あと、彼女がこの求婚を断っても、責めないでやってくれ」

「はいはい。アイラで遊んだりしないさ。……え?」


 グレイの言葉に公爵はぽかんと口を開いたまま静止した。


「彼女はどこかで私と線を引いている。義理だけで私と対峙してきたのかもしれん」

「アイラは少し気の弱いところ所はあるが、そんな子じゃないよ」

「お前はいいな。恋した相手が同じ種族で」


 グレイは己の手を眺める。人族のそれとあまり変わらない。しかし、色々な物が人族とは大きく違っていた。グレイにアイラの悩みは見当もつかない。種族の違い故の悩みであるならば、グレイには太刀打ちできないのではないかと悩んだ。


 それでもグレイは一縷の望みをかけて、公爵家の屋敷に足繁く通った。


 アイラは悩みを募らせている。それはグレイの目からも明らかで、ひとたび問えばこの関係は積み上げた積み木の如く崩れるのではないかと思うと、グレイからは聞くことができなかった。


 しかし、そろそろ潮時であることも分かっている。永遠にこの逢瀬を続けることができる程、グレイも悠長にはしていられない。狼の一族を束ねる者として、伴侶を迎え子孫を作らねばならないのだ。遅くればなる程、妻となる者への重圧は大きくなる。


 グレイは一人、アイラの待つ応接間へと向かった。


 応接間では、既にアイラは待っていて、小腹を満たす為の軽食の準備をしていた。グレイの入室を確認すると、いつもアイラはふわりと笑顔を見せる。しかし、今日のアイラは違っていた。不安げに揺れる瞳を見て、グレイは確信する。


 ――これで、最後か。


「待たせてしまったか?」

「いいえ、私も先程仕事を終えたところです」


 何でもない振りをして、グレイはいつもの場所に座る。それに従って、アイラはその隣に座った。しかし、いつもより距離が遠い。長椅子のギリギリ端に座ったアイラを見て、グレイの胸がズキリと痛む。


「君にこれを」


 グレイが花を差し出す。きっと、最後の一輪となるだろう。


 無情にも、今日選んだ花は真紅の薔薇であった。これが別れの花になろうとは、摘んだ時のグレイは考えもしなかった。


「今朝咲いたんだ」


 言い訳のように口早に言えば、アイラは小さく笑って一輪の薔薇を手にした。


「ありがとうございます」


 アイラの眉尻が下がる。まるで今日別れの言葉を伝えることを躊躇うように。もしも一輪の薔薇が二人の仲をどうにか繋ぎ止めるのならば、グレイは感謝せねばならない。


「実は、グレイ様にお話があるのです」


 グレイの期待を裏切るように、アイラは話を切り出す。グレイはゆっくりと息を吸った。奥歯を噛み締めて、気持ちが耳や尾に出ないように念を送る。もしも悲しみが伝われば、アイラが苦しむかもしれないからだ。


「なんだ?」


 絞り出した声はとても低かった。アイラの肩が僅かに震える。グレイは己を叱咤した。恐がらせてどうする、と。


「今回の、結婚のお話なのですが、お断りさせていただきたく存じます」

「……そうか。理由を聞いても良いだろうか」

「はい……少し長くなりますが、お付き合い頂けますか?」

「構わない。聞かせてくれ」


 アイラはゆっくりと息を吸う。吐く息は少し震えていた。グレイは己の眼がアイラを恐がらせてはいけないと、瞼を閉じる。アイラは震える声で説明を始めた。


「この三ヶ月、私にとってとても素敵な時間でした。毎回貰う花もグレイ様のお話も、私には夢のようで……。けれど、貴方を好きになればなる程、不安が増して行きました。いつか貴方の前に現れるつがい様に、貴方を奪われるかもしれない。そう思うと胸が苦しくなるのです。結婚しても永遠に不安が胸蝕むでしょう。どうか、弱い私をお許し下さい……」


 アイラの手は震えていた。愛を示す真紅の薔薇に彼女の不安が伝わる。


 グレイは閉じていた瞼をあげると、眉根を寄せる。怒っている訳ではない。


「すまない、その君の言う『ツガイサマに貴方を奪われる』とはどういう意味だ?」

「……え?」


 時が止まった。ポカンと口を開けたアイラは、瞬きも忘れたグレイの切れ長の目を見る。


「ええと、狼の一族はつがいを一途に愛し続けると聞きました」

「ああ、その通りだ」

「ですから、グレイ様のつがい様が現れた時、私は身を引く他ありません」

「待ってくれ、何故君と結ばれた後につがいが現れるという話になる?」

つがいは魂の繋がりと聞きました。それは強い結びつきだと。ですから、結婚した後に現れることもあるのでしょう?」


 アイラは困ったようにグレイを見上げた。しかし、グレイは彼女の言葉に頷きはしなかった。


「その君の言う『つがい』とやらは誰から聞いた?」

「誰からといいますか、皆知っている話です」

「つまり、人族の間では常識だと?」

「はい、『つがい』は魂の結びつき。それは本能的なものだと聞いています。狼の一族などの一部の種族は一目見ただけでわかるとも。私とグレイ様は何度も顔を合わせていましたし、つがいでは無いのですよね?」


 アイラはぎゅっと唇を結ぶ。己がグレイのつがいでは無いことを悔しく思う気持ちがありありと想像できる。


 グレイは小さくため息を漏らす。アイラは今にも泣きそうな目でグレイを見上げた。


「それが君が結婚できない理由の全てか?」

「はい、そうです」


 アイラが頷くと、グレイは大きなため息を吐いた。それは安堵にも近いため息だ。アイラはわけも分からずグレイを見つめる。そんな彼女の肩を、優しく掴んだ。


「アイラ、聞いてほしい」

「……はい」

「その君の言うつがいに関する知識は全くもって嘘偽りだ」

「……え?」

「魂の結びつき? 一目見ただけで分かる? そんな呪いのようなものある訳ないだろう。誰がそんな出鱈目を吹聴したのか」

「ですが、つがいはいるのですよね?」

「ああ、そうだな。君と結ばれれば、君が『つがい』ということになるな」


 アイラは理解が追いつかず、呆然とグレイを見上げる。瞬きすら忘れた瞳は少し照れた顔をしたグレイを映す。


「では……私の杞憂ということでしょうか?」

「そうだ。『つがい』とは、君達の言葉……人族でいうところの『妻』や『夫』と言ったところか。狼の一族は一途だ。浮気は絶対にない。そういう意味で私達は妻や夫のことを『つがい』と呼ぶ」

「妻……浮気……」


 アイラは呆然とグレイの言葉を反芻する。グレイは苦笑を隠さずに、アイラの頭を優しく撫でた。


「誤解は解けたようだな?」

「はい。その、何と謝って良いのか……」

「いや。私も君が何か悩んでいることはわかっていたのに、気づかない振りをしていた。私こそ悪かった」

「いえ、グレイ様は何も悪くありません! こんなに誠実に気持ちを伝えてくれていたのに、勘違いとは言え……」


 アイラは顔を真っ赤にして頭を横に振る。彼女の顔は安堵と恥ずかしさで一杯であった。全ての不安が吹き飛んだ後は、勘違い故の暴走であることがグレイ本人に露見してしまったのだ。仕方ない。


 グレイ、目を細めて笑うと、椅子から降り床に片膝をついた。グレイの大きな手がアイラの両手を優しく包む。


「アイラ。誤解が解けた今、もう一度君に求婚したい。私のつがいになってはくれないだろうか?」

「……はい。グレイ様のつがいにして下さい」


 アイラの瞳からは一雫の涙が流れた。しかし、そこには悲しみの要素は一つも入ってはいない。


 グレイは慈しむようにアイラの指先に口づけを落とす。指先から唇を離さぬまま、グレイはアイラを見上げた。


 灰色の甘い瞳に、アイラの胸は大きく跳ねた。耳の良い狼はアイラの鼓動の速さすら聞き取るのか。グレイが口角を上げる。


 椅子に座りなおしたグレイは、アイラの腰に腕を回し、彼女を引き寄せた。アイラは僅かに肩を震わせてグレイを見上げる。


「あの……」

三月みつきもの間、私は紳士的だったろう?」

「はい」


 グレイの言う通り、彼は決してアイラを困らせたりはしなかった。適度な距離を取り、優しい男であり続けた。


「覚えておくといい。男は好きな女の前では良い顔をしたいものだ。しかし、ずっと手中に収める機会を窺っている」


 腰に回す腕に力が入る。グレイとアイラの間は僅かな隙間もない。グレイの右手がアイラの頭を撫で、頬を辿り顎を持ち上げる。アイラの瞳は僅かに揺れたが、そこに拒絶の色はなかった。


 獰猛な獣のように、グレイはアイラにかぶりついた。アイラはわけも分からず目を大きく見開いたが、すぐにグレイの熱に溶けるように瞼を落とす。


 アイラは遠慮がちにグレイの背に腕をまわすと、彼女の手にグレイの揺れる尾が触れた。













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狼伯爵の求婚 たちばな立花 @tachi87rk

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