愛してくれと剣は叫ぶ



 吸血鬼は血の匂いに敏感だ。

 それを聞いて人々は恐怖する。ああ、どう足掻こうとも、この身に鮮血が流れている限り、人間は悪鬼からは逃げられないのだと。

 それは正しい。

 だが、それは同時に吸血鬼たちも、大量の血液を嗅がされてはとても正気を保ってはいられないということだ。

 たとえばこんなふうに、酒樽に偽装して密閉した血液の蓋を丘の上で取り去ってしまえば、どこからともなく夜の梢に飢餓の呻きが混ざり始める。それはとても悲痛で、アレックスはいつも耳を覆いたくなる。

 彼らを苦しめているのは自分自身であり、たとえそれが狩りの鉄則だとしても、彼らが大勢の人間を食い殺してきた魔物だとしても――アレックスには関係がない。助けてくれと言われれば助けたくなるし、どうしてこんな残酷なことをするんだと罵られれば後悔もする。

 罪の意識を感じながら、それをさらに繰り返さなければならないというのは地獄の経験だ。冷や汗がべっとりと衣服にまとわりつき、夏の夜でも悪寒が覚めない。救いを求めて周囲を見渡しても、師匠の姿はない。囮で連れてきた娘たちは今まさに食い殺されているらしく、眼前に巨人の背毛のように密集している針葉樹のどこかから悲鳴がこだまする。それは長く続かず、誰かの鞘鳴りを最後に鬼と人の苦悶の気配は途絶える。あとには風に笑う木々の葉擦れの気配が残るだけ。

 時計を見る。まだ三十分も経っていない。歯車が壊れているんじゃないだろうか。

 もう耐えられない――そう思うのは五度目だった。

 そもそもこの血液は誰のモノなんだろう。駅にたどり着いた時、師匠は相変わらず、優雅な微笑という名の上品な軽蔑を持ってして、アレックスに何も説明しなかった。ただ準備は整っていると告げただけ。あとはもう師匠が決行だと宣言すれば、アレックスは狩人としての職務に埋没していくだけだった。

 夜空に星はなく、月がいたずらに深い。井戸の底から見上げているようだ。


 アレックスは孤児だった。赤子の頃に、吸血鬼に親を食い殺された。

 だが、なぜかその吸血鬼は産まれたばかりのアレックスの首筋に歯を突き立てはしたものの、まるで嫌悪でも覚えたかのように顔を放して遁走した。

 もっとも、それは後から孤児院のシスターに事情を聞かされたアレックスの想像に過ぎない。実際にあったと断言できるのは、両親が食い殺されている家で、朝方、ハンターが到着した時にはもう、首に薄い歯型だけが残された赤ん坊が家が震えるほどに泣いていたことだけ。

 それがアレックスだった。

 それから何年か経ち、自分で尻を拭ける年齢になったと同時にアレックスは孤児院を飛び出した。物乞いをし、劇団に拾われ、独学で小型の魔物を狩り始めた頃、一人の吸血鬼ハンターと出会った。

 それが師匠だった。


 追憶の匂いで血液を忘れていたアレックスの視界に、光の拡散が七色に映った。照明弾だ。

 師匠が打ち上げたのだろう、意味は「早く来い」。

 人を待機させておいて、事情が変われば急かしだす。いつものことだから構わないが、ここから照明弾の直下までは数分かかる。最初から打ち合わせしていてくれればいいものを――なみなみと血を注がれた樽を崖から蹴落として、周囲に猛烈な血臭をばら撒いたアレックスは、金属で鋲打ちされたブーツが削り取れるほどのスピードで崖下へと滑り落ちた。その途中、今まさに若い吸血鬼に噛まれようとしている娘を助けようと剣の柄を握った瞬間、銃声が鳴り、鬼ではなく娘の額が熊に踏まれた木の実のように弾けた。その血と脳漿を頬に浴びて、アレックスは列車酔をした子供のように顔を伏せながら、緩ませかけた柄へかかる手に再度握力をこめてぽかんとしている吸血鬼の額を刺し貫いた。彼はまだぼんやりしていた。闇によく溶けるアレックスの戦装束は、夜の眷属でさえ慣れていないと見抜けない。

 師匠――アレックスは親しみを込めてそう呼んでいたつもりだったが、彼女はそれを愛情では返してくれなかった。

 彼女にしてみれば、旅の途中で見つけた孤児を、気まぐれで拾い上げハンターとして鍛えただけ。片手間だったし、丁寧でもなかった。

 吸血鬼狩りの初手だけ順番も考えずに口頭で説明された後、囮同然の肉袋として狩りに同行させられた。師匠、師匠、と悲鳴を上げても、彼女は自分の狩りに夢中でまた十歳にもなっていない子供が鬼に喰われかかっていても助けに来てくれたりはしなかった。

 だからアレックスは自分で見つけた木の杭で、生涯最初の狩りをやり遂げた。

 吸血鬼の血は赤かった。当然なのかもしれないが。


 師匠はきっと、俺が囮を守りながら来ると知っている――だからそれを妨害した。ご丁寧なことに一発の銀の銃弾まで犠牲にして。そんな余裕があるなら呼ばなければいい。戦場からは離れていれば諦めもつくが、実際に目の前で救いを求めるあの切迫した視線を間近で浴びればアレックスは犠牲者たちを助けざるを得ない。あんな目で見られて嬉々として背後にいる悪魔ごと心臓を刺突できるやつがいるとすれば、そいつは筋金入りの吸血鬼ハンターだ。自分のような青二才には、とても真似できない。老いさらばえても無理だろう。

 それを知りながら、追い打ちをしてくるのだから、嫌われたものだ。それとも、彼女の見ている世界では、それが普通なのだろうか。

 確かに吸血鬼を狩る際に優しさなど異物に過ぎない。彼らは昼を生きられない分、夜を懸命に生き延びようとする。その生命欲の強さに圧倒されて震え上がり、その場から一歩も動けず血を吸われて息絶えるハンターもいる。それに比べれば彼女は確かに正しい。血の囮で鬼の情動を昂ぶらせ、冷静な思考力を奪ってから狩る。何も間違っていない。アレックスは頬にこびりついた誰かの脳漿をようやく拭いた。何も間違っていない。


 崖というより谷を、絶壁に生えたわずかな枝葉のよすがで蹴り上がり、ようやく開けた天然の集会場とでも呼ぶべき森の空白にたどり着いた時にはもう、師匠は剣の柄に手をかけて、細身だが人の半背ほどもあるライフルを背負い、微笑を浮かべながらアレックスを振り返っていた。拒絶の微笑。この十五年間で何度、見てきただろう。

『千騎殺しのヴァルゴ』は、老いてなお絶頂期の妖艶さを残す肌を月夜に晒しながら、一番弟子を待っていた。二番目から先は皆、死んだ。


「遅かったじゃないか、アレックス。遊んでいたか?」

「何も殺すことない」


 アレックスは視線を逸らしながら呟いた。幼少期にひどく打擲された記憶から、師匠の目をまともに見れない男になった。


「べつに囮を助けようと、あんたが困るわけじゃない。何が気に入らないんだ」

「そう言うと思ったよ」


 聞き分けのない弟子の、予想可能な回答に優越感を覚えたのか、ヴァルゴは肩をすくめてたっぷりと嘲笑の雰囲気をこしらせた。


「愚かだな、我が弟子。救いがたい劣見しか持たないおまえに、見せてやろうと思って残しておいたぞ」


 ほれ、と顎で老女が示す先で、黒い影が蠢いていた。ちょうど月光が木陰に吸われてできた闇の中、細い枯れ木のような刺々しい何かが振動している。それは少しずつこちらに近づいてきて、光の洗礼を浴びた。

 囮として、麓の村から徴収した娘の一人だった。

 確か宿屋の一人娘で、アレックスは村に着いた夜、伽をされそうになり断った。あとになって、宿屋の主人がなんとしてでも娘を生贄から除外するために、ハンターに取り入ろうとした策だと知った。だが、もし夜を世話してもらったとしても、師匠には長年培った血液の好みがある。鬼がどういう血液を望んでいるか、あの魔女はよく知っているのだ。だから、どうあがこうと彼女は犠牲になる運命だった。そして今夜、その筋書き通りに悪魔に喰われた。

 首筋にある噛み跡から滴る血の痕は、もう乾いている。傷跡も直に修復していくだろう。虚ろな血走った目は、彼女がもう人間ではないと語っていた。だがおそらく、彼女はそれに気づいていない。ひび割れた唇が、小さく、たすけて、と動いていた。アレックスは、読唇術を叩き込んだ師匠を恨んだ。きっとこういう悲劇のために、きめ細やかにレッスンしてくれたに違いない。弟子にはそれが、よくわかる。


「見ろ。生贄で連れてきた血液はな、処分してしまうに限る。ああやって噛まれて適性があれば、吸血鬼になってしまうのだ。おお、恐ろしいな、え、アレックス?」

「噛まれたかどうか、見抜けないハンターはいない」

「おまえのような半人前など」市場で珍しい玩具をねだる子供を見て呆れたような表情でヴァルゴが笑う、

「ハンターとは呼べない。その信頼を勝ち取れるほどの値打ちがない」

「なら、わざわざ俺を呼んで狩りなどしなければいいでしょう。一人でやればいい」

「不便だろ、ここまで樽を運ぶのは」


 ヴァルゴはせせら笑った。そして護身用じみた銀のリボルヴァをアレックスに突き出した。銃把を向けて。


「さ、始末をつけてこい。今夜の獲物はあれで最後だ。よかったな、生贄が噛まれた場合も一匹分は追加料金だ。その報酬を、おまえの稼ぎにしてやるよ。優しいだろう? おまえのお師匠様は」

「いらない。あんたが自分でやってくれ。俺は報酬なしでいい。もう帰りたい。二度とあんたの顔を見たくないんだ」

「なら聞こう――ならなぜ、おまえは私の召集に毎度毎度、大陸の涯からも馳せ参じてくるんだい?」


 答えを知っているのに質問してみせる。そういう瞬間に人間の瞳に宿る冷酷さは、どんな宝玉よりも輝きを発する。指揮棒のように音弾をつけて、ヴァルゴは拳銃を振りながらアレックスの耳元に近づく。


「おまえはね、自分じゃ何も決められないのさ。親に捨てられ、大陸を彷徨い、そして私に拾ってもらった――その恩を忘れられないんだな。いい子だよ、おまえは。こんなに罰しても、まだ私に愛してもらえるのじゃないかと期待する。面白いねぇ……どんな吸血鬼より、おまえは哀れだよ、え、アレックス?」

「…………師匠、俺は」


 ヴァルゴは、どん、とアレックスの胸に銃を押しつけた。骨に響くように。ぐりぐりと。視線だけは、逸らそうと怯える弟子の青い瞳に固定しながら。


「おまえが私に逆らえるわけがない。なぜっておまえは、私の操り人形なのだから。私が望むように動くのが、おまえがここにいていい理由で、ほかになんの値打ちもありはしない。――おまえは道具だ、アレックス。そしておまえもそれを望んでいる。剣は何も考えなくていい。振り手は私が担ってやる。荒々しく叩きつけようと、鞘箱に乱雑に放り込もうと、それは剣士の勝手だ。つるぎにそれを拒む権利などない。なあ? そう思わないか、アレックス……」

「……痛い、痛いよ、師匠。やめてくれ」

「嫌なら手に取れ!」


 眠っていた鳥たちすら羽ばたき逃げ上がるほどの罵声を発し、ヴァルゴは弟子の手に無理やり拳銃を握らせた。指さえ丁寧に畳んでやる。


「どれほど安楽な生き方か、わかるか? 剣でいい、というのは。誰もがそうありたいと願っている。だが、剣でだけいられるような存在は大陸を探しても十本の指より少ないだろう。おまえは、それでいいと赦されているんだ。よかったな。……私はできなかったぞ? 剣だけでいていいなんて、誰にも言ってもらえなかった。だあれにも」


 くすくすと、少女のように忍び笑いをこぼし、ヴァルゴはとん、と背後に跳んだ。そうして戦装束を纏っていると、カラスに人の首が乗っているように見える。

 アレックスはそれをぼんやりと眺めながら、もう自分の目の前まで迫り牙を剥き出しにして今まさに生存のための吸血に突進しようとしている宿屋の娘の両膝小僧に向かって銃爪を引いた。

 銃を撃つ瞳に、狂酷の色彩が宿っている。

 ぱんぱん、と平手打ちに似た音が咲き、血の霧が弾けて娘がよろめいた。それから動かそうとした両腕を正鵠無双に撃ち抜き、復活祭のダンスを踊るように身体を傾げさせた娘の不思議そうな表情が浮かんだ頭を、銀閃一風に切断した。

 大砲のように舞い上がった首代を見上げもせず、アレックスは返す剣から渾身の刺突を娘の心臓にねじ込む。抱き締めようとするかのような至近距離まで押し込み、そこから肋骨を半分バラにして脇から剣身を回収し、そのまま背面を見せて踊り蹴りを食らわして首なし死体を村で言えば三戸先あたりまで距離のある巨木の幹へと叩きつけた。枝がちょうど、心臓と腹と肩を貫通している。

 師匠がぱちぱちと拍手をした。

 とすん、と娘の生首が葦原のどこかに落ちる。


「お見事だ、つるぎくん。私はこれをやるのが疲れるから、わざわざおまえを呼んだのだよ」

「師匠……俺は、剣じゃない。道具なんかじゃ……」

「そうか? 嫌なのか?」


 ゆっくりと歩いてきたヴァルゴが、アレックスの顔を覗き込む。


「でも、嬉しそうだぞ、おまえ」





 アレックスは震える指先で、自身の顔に触れた。











 アレックスは、孤児だった。






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