〈道〉の果て (5)

 カシホが、鳥肌を立てるふうに身体を震わせた。その肩を包みこむように、リイトはぎゅっと抱きしめた。


 泡立つように磁波が噴き上がるカシホの背中をそうっと撫でて、額に唇を触れさせてから、近い場所で目と目を合わせて、言った。


『きみのことが大好きだ。カシホが僕のすべてだった。だから、これからもカシホの幸せを願ってる。――元気で』


 言い切ると、リイトはカシホから離れた。


『済ませました。ギズさん、マオルーンさん。カシホを連れて帰ってください』


「リイト、嫌だ、リイト――」


 リイトを捕まえようと腕を浮かせたカシホを、リイトの後ろから、ギズが叱りつけた。


「いつまでもびいびい泣いてんじゃねえよ。はじめの頃のクソ優等生なおまえはどこにいったんだ? 早くこいつに最後の挨拶をしてやれよ。でないと、おまえが永遠に後悔するし、心に傷が残ったままだったら、次に孤塔に登った時に、おまえはまたリイトの姿を探すことになる。おまえがここにいるのは、こいつの代わりに夢を叶えるためなんだろう? リイトのことも考えてやれよ。こいつが心から望んでおまえのそばを離れたがってると思ってるのかよ?」


「でも、ギズ教官、わたしは――」


「不本意なことも、間違いだと思うことも、生きていりゃそれなりに起きるんだ。諦めてやれよ」


「――行こう、カシホ。悪いが、俺がもちそうにない。目まいがしてきた。磁波が強くなっている」


 マオルーンが手のひらで額を押さえて、うつむいた。

 

 ギズはリイトを向いて、笑った。


「というわけで、リイト。おれ達は孤塔を下りる。ここは任せる、新米塔師」


 リイトは蜂蜜色の目を丸くして、微笑んだ。


『塔師って呼んでくれて、ありがとう』


 すぐに、ギズは身を翻した。

 

「カシホ、おまえにやれる時間はあと二分だ。こいつとの別れを済ませろ。――マオルーン、脱出口をつくる。弱ってるならおれに任せていい。準備を急げ」


 泣きじゃくるカシホとリイトを残して、ギズは肩から提げた長銃を構えて壁に狙いを定めた。


 バウッ! 破裂音も、九階までとは違って聞こえた。幻ではなく実体のあるものを破壊したような鋭い音で、繊維質の壁が裂け、溶けたように横に広がり、穴の向こう側に、淀んだ闇が覗く。


 ギズは穴の向こう側を覗き込んだ。


「脱出口ができているのを確認。外側からはびくともしないが、内側からはそれなりに制御できるんだ。――器具で出口を固定し、脱出口を確保する。各自、装備の最終点検を行え」


「わかった」


 マオルーンはうなずき、ギズに声をかけながらカシホのそばに寄った。


「ギズ、悪いな。準備が済み次第先に脱出させてもらう。カシホの面倒を見なくちゃならないなら、俺の限界が近い。――というわけで、カシホ。言いたいことがあるなら早くあいつに言ってやれ。俺がおまえの脱出の準備をかわりにやってやる。それに二十秒、俺自身の準備に二十秒。その後すぐに脱出するから、あいつと過ごせるのはあと四十秒だ」


「四十秒?」


 カシホは目に大粒の涙を溜めた。


 マオルーンはすでに背嚢リュックから引きずり出した道具を装着したり、カシホの背嚢リュックから引きずり出した同じ道具をカシホの胴を覆ったりと、作業を始めている。


「四十秒なんて、嫌だ、嫌です」


「黙れ。自分ですべきことを俺にさせているのがわからないのか。今のおまえに命綱の準備を任せられないからだ。新米塔師としてここにいるつもりなら、それをまず恥じろ。――あと三十秒だ。大事に使え」


 カシホは頬に涙を落とし、リイトに抱きついた。背中に腕を絡ませて力いっぱい抱きしめながら、叫び続けた。


「わたし、リイトが大好きだった。大好きだった。わたし、リイトの代わりに塔師になるから。わたし、リイトの代わりにリイトになるから――」


 リイトに触れても、カシホの身体は溶けようとしなかった。震える肩も、輪郭を保ったままで震えていた。リイトはそれを見下ろして、微笑んで、抱き返した。


『僕にはならなくていい。カシホは、カシホでいてくれればいいんだ。僕もだ。きみが大好きだ。きみと出会えてよかった』


 マオルーンの腕が、カシホの身体を引き寄せる。


 抱きしめ合っていた二人の身体が、離れた。


「悪いな、時間だ。行くぞ、カシホ。――リイト。最後を任せてすまない、助かる。おまえに会えて良かった」


『マオルーンさん、僕も――』


 リイトは目を潤ませた。声が詰まって続きの言葉は途絶えたが、マオルーンはカシホを力づくで引っ張りながらも、手で「じゃあな」と、リイトへ合図を送った。


「ギズ、先に出る。おまえも気をつけろ」


「わかってる。カシホを頼んだ。後は任せろ」


 ギズとも合図を送り合い、マオルーンは、カシホの胴を抱えて、ギズが開いた脱出口の向こう側へと身を躍らせた。


「リイト!」


 カシホは最後までリイトを見つめ続けて、目が合ったまま闇の向こうに飛びだした。壁の外は虚空で、飛びだせば落下する。目の高さが変わるので、目が合っていられたのは一瞬だった。


 カシホが孤塔から去っていくのを、リイトは茫然と見送った。カシホの姿はすぐに見えなくなり、涙まじりの絶叫すら、またたくまに遠ざかった。


 マオルーンとカシホが先に孤塔から飛び降りて、頂きの小部屋に残ったのは、ギズとリイトだけになる。


 二人が下塔した穴は金属製の道具で固定されていたが、壁にできた赤い染みが、道具が刺さったあたりに集まり始める。排除したがっているのか、穴をふさごうとするようだ。


 カシホが去った暗い穴を見やり、静寂の中でぽつんと立って、リイトは唇を噛んだ。


『ギズさんも行かなきゃ。穴がふさがるよ』


「そりゃあ、お気遣いありがとう。支度するよ」


 ギズは微笑した。自分も背嚢リュックから道具を引きずり出して、金具を胴に固定していく。カチン、カチンと鳴る金音に耳をそばだてつつ、リイトは奥の壁に向かった。卵型の石が埋まっている場所だ。


『ギズさんはまだ余裕があるの? ぎりぎりまで見る? 本当に僕が石を外したのかを見届けたいだろう?』


「そうだな。じゃあ、どうぞ」


『――そうだ。その子、目が見えないんだよね。僕の目をあげようと思ってたんだ』


 リイトは一度ギズのそばまで戻ってくると、手のひらでぎゅっと目を覆って、その手を、ギズのそばに横たわる少年、ジェルトの目元にかざした。


『もう、使わないから。磁力なら視力以外で見えているし。――うまくいくかはわからないけど、おまじない程度にね』


 唇でにこりと笑って、リイトは奥の壁へと戻っていった。


『石を外すよ』


 リイトは神妙に言って、指先を壁に近づけた。壁は筋肉や植物の繊維を思わせる筋状で、その隙間に白い指先を埋め込んでいく。


 それを、ギズはじっと見つめていた。


「うまいもんだ。自分の磁波を指先に集めて完全制御できているな。カシホの話だと、あいつはおまえといた時の記憶を頼りに憲兵学校の入試に受かったらしいし――なあ、リイト。おれも、おまえが生きていないのが惜しいよ。おまえが新米塔師として塔師局に入っていたら、天才が現れたって騒ぎになっただろうな。おれも、カシホが歴代最高の新人塔師として入局した今よりも、もっと気兼ねなく塔師局を去れたと思う。実際カシホに難はなかったし、実地研修中の見習いとしては十分だった。でも、女だ。女が駄目ってわけじゃねえんだけど、やっぱ、自分の代わりは男がいいというかな――」


『外れない、ギズさん』


 リイトが振り返ってギズを呼ぶ。関節が隠れるほど、リイトの指は壁に入り込んでいる。ギズは筒服ズボン衣嚢ポケットから煙草を探り、着火器で火を着けた。


「煙草の先を押し付けてみよう。孤塔が生き物なら、火で痛めつけられるかもしれない」


 ギズがそばに歩み寄って、煙草の先を近づける。


 どく、どくという心音に似た響きの中、白い煙を帯びた煙草の先が黒い石のそばに押し付けられると、直後に壁の弾力は弱まり、リイトの手は、泥に吸い込まれるように壁の奥へ埋まった。


『ギズさん、指が石に触れた。掴んだ――動く。外すよ。逃げる準備をして』


「孤塔が崩れ始めるまで、おれはここで見届ける。気にせず外せ」


『でも――』


 リイトはためらったが、手をぐっと奥まで突き入れて、拳大の黒い石を掴み取った。


『掴んだ。あとは引きずり出すだけだ。外すよ。ギズさん――』


 ゴ、ゴゴ、ゴ――。どく、どくと波打っていた壁の脈動の律動リズムが崩れた。壁に広がっていた赤い染みの動きが止まり、端から順に色味がくすんでいく。桃色や褐色が混じった繊維質の壁も、艶がなくなり、ざらついた。弾力を失って、ぐにゃりと歪み始めた。壁そのものも、歪んだ。


 リイトが、はっと真上を仰いだ。


『ギズさん、やっぱり上に何かある――水だ!』


「水?」


 ギズは首を傾げて、リイトが脅えたものを確かめようとしたが、リイトは絶叫でそれを止めた。


『上に水甕がある。落ちてくる――! 早く逃げて、ギズさん。孤塔が崩れる。早く!』


 リイトは両腕を突き出して、白い球状のものをギズに向かって投げつけた。リイトが造った磁波の塊だとギズはわかったが、避けられなかった。球状の力に押し飛ばされる形で、ギズは靴底を滑らせ、脱出口の向こうに飛び出した。


『ギズさん、カシホをお願い。ギズさん、ありがとう。ギズさん、さようなら』


 リイトは右腕を振りかぶって、もう一度何かをギズに向かって投げつけた。外したばかりの黒い石だった。その時、ギズの足は孤塔の外で宙に浮いていた。外から孤塔の中を覗く形になったギズの目には、歪み始めた孤塔の最上階の奥で、力いっぱい叫ぶリイトの姿が映っていた。


 リイトの足元の床も歪み始め、底が抜け、リイトも体勢を崩した。壁も床も、壊れたはりぼてのように崩れて、針金じみた、細い繊維質のものが覆うだけになった。見れば、その細い繊維ははるか下方から続いている。磁石に集められていた砂鉄が力を失って砂に戻るように、孤塔だったものから、黄色い砂が滝のように落ちていた。


 ジェ・ラーム砂海の黄色い砂が落ちていく様は、闇の中で轟音を響かせる、黄金の大瀑布のようだった。砂の覆いがなければ繊維はもろく、壁だったものは瞬時にばらばらになって落ちていく。


「リイト!」


 一緒に連れ帰る少年、ジェルトを懸命に脇にかかえ寄せながら、ギズは呼んだ。その時すでに、リイトの姿は崩れゆく砂の中に隠れかけていた。黄色い砂の向こう側で、閃光が散る。リイトを為していた磁波の塊がバラバラに裂けていった。リイトには、ジェルトが運んできた石を渡してあった。リイトがリイトで在り続けられたのは、意志の力で自分の磁波を留めていたからだが、リイトは今、その力を解いていた。


 ギズ自身の身体も落下している。ジェルトも連れている。懸命に身体を御さないと思い通りの方向に顔も向けられないが、リイトの在り処を探して、叫んだ。


「リイト、おまえの大切な奴は、幸せに暮らせるようにおれが一生見届けてやる。おれもマオルーンもコーラルも、カシホが幸せになるように、おまえに代わって助ける。だから、安心して眠れ。幸せに浸ったまま、そこで眠れ。リイト!」


 落ちゆきながらギズは叫んだが、返事はなかった。目の前に見えるものは、自分が落ちるのと同じ速さで崩れ、砂となって落ちてゆく孤塔だけだ。リイトの姿を見つけることは、もうできなかった。


 かわりに、ギズはぞっと寒気がして頭上を見た。

 

 周りは暗かった。孤塔の上部付近には、空気になんらかの粒子が多く含まれて、雨雲の中にいるのと似た状態になる。磁波が渦を巻いていて、灰色や暗い桃色を帯びた極光オーロラのような光も、そこかしこで揺らいでいる。地上にはない景色が彼方まで続いて、宇宙に浮かぶ星雲の隙間を落ちゆくようだった。


 ギズが見上げた先には、水の塊がぽっかりと浮いていた。崩れ行く孤塔は、立ち枯れた細い木のようにまっすぐ伸びていて、上部には実がなっていた。酸漿ほおずきの実に似た形で、薄布に似た皮の内側に水気のたっぷり詰まった丸い実ができている。まるで、月が生っているようだった。


「なんだ、あの水は――」


 ギズはまた、息をのんだ。巨大な影が、実に近づいた。孤塔をまるごと影で覆うような巨鳥で、くちばしでその実を突こうと、闇の中を旋回していた。巨鳥の羽は、太陽の光を思わせる金色をしていた。古来〈天鳥王〉を名乗ってきたエクル王家の象徴色と、同じ色だ。


(神の鳥〈ガラ〉?――知るか。よそ見してる暇はない)


 落下し続けるうちに、星雲に似た電気の渦が充ちる闇の部分を抜けていた。足元に青空が見え始めていた。


 背後の装備に手を回した。探したのは、落下傘の開閉縄だ。掴んで、ぐいと引っ張る。背嚢リュックの底に格納されていた落下傘が勢いよく広がり、ギズの頭上で風船のように丸くなった。


 孤塔と同じ速さで落下していた身体は一度弾み、宙に舞い上がる。それから、空気をはらんだ落下傘に吊られて、ジェ・ラーム砂海へ向かって、ゆっくり降下していった。

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