神の樹の種 (1)

 まとわりつくような、不思議な雲だった。


 水蒸気というよりは綿菓子の塊に突っ込んだようで、落ちながらイーシャルは、肌が奇妙な薄い膜で覆われていく感覚が怖くなった。


 ゴウゴウという鈍い耳鳴りが、ある時消えた。一気に耳の通りがよくなり、耳の穴に詰めていた粘土がいつの間にか落ちたようで、驚くほど感覚が冴える。肌にまとわりつくようだった雲も消え、気が付けば、イーシャルは青空の中を落ちていた。はるか下方に、真っ赤な落下傘が浮いている。先に飛び降りた仲間のものだ。そのさらに下には、彼方まで広がる黄色い砂の大地も見える。


(戻ってきた――)


 風圧の中、慌てて背中に手を伸ばして背嚢リュックの底を漁る。ロープの輪っかに指が触れた瞬間、思い切り引っ張る。シュシュシュ…と背嚢リュックの中身が飛び出していって、ある時、ぶん!と身体が浮き上がった。落下傘が開き、風を捕まえていた。


 落下傘さえ開けば、あとは誰かが助けてくれる。空中遊覧を楽しむ余裕も生まれた。風をはらみながら、ゆっくり、ゆっくりと、落ちゆく綿毛のように地上を目指した。


「おう、イーシャル。無事で良かった」


 砂の大地には救護隊が集まっていて、イーシャルが着地した時には、ちょうどドナルの背中から降ろされたサスが担架で運ばれていくところだ。仲間と抱き合って無事を確認して、天を見上げる。残る二人の帰還を待った。


「アボット教授だ、おおい、教授、おおい!」


 イーシャルの頭上彼方高い場所に、もう一つ赤い落下傘の花が咲いている。舞い落ちる赤い花びらのようにゆらりと砂地に降り立ったアボット教授とも無事を喜んで、残るは、最後の一人。学術調査隊の降下を後方から守護する任についた、若い塔師だ。


 しかし、しばらく待ってみても、澄み渡るような青空に赤い落下傘はまだ現れない。


「来ないな」


「あの少女は軽いだろう。風に流されてはいまいか。上空に強い横風が吹いていたが――」


 アボットを筆頭に、世話になった少女の行方をみんなで青空の彼方に探したが、ある時、打ち切られた。車両の中からやってきた塔師が、アボットのそばでこう告げた。


「カシホ・オージユ塔師見習いは孤塔に残ることになったそうです。ですから、六名の皆様の無事を確認できましたので、現時点をもってここから撤退、クロク・トウンへ移動ということに――」


「なぜだ」


 つい、イーシャルは大声を出した。


「理由を教えろ。あの子は僕達の背後を守る任に就いていたんだろう。それを放棄してまで下りてこない理由はなんだ」


「申し訳ありません。『危機的状況トラブルに陥ったため』としか私は……」


「またそれだ。都合の悪い時は見え透いた嘘を言って黙るんだ。専門家だのなんだの、権限だけは利用するくせに」






 乗合バスが街へ着くなり、イーシャルはとある宿へ向かった。ある男が泊まっていると聞いたからだ。


 男の名は、セイジス・オルバー。長く混乱が続いた〈赤戦争〉が終結する前から王族に仕えた政治家で、政務から遠ざかった後は、古い記録の整理に勤しみ、研究職に就く者の支援や統率をおこなう連合会も発足させた。セイジスは、みずからも歴史学の専門家として名簿に名を連ねているが、理事として連合会の代表も務めた。孤塔に学術調査隊を派遣したいと塔師局と交渉を重ねた時も、連合会の責任者リーダーとして嘆願書に署名していた。


 一刻も早くあの方に会わなければ――と、イーシャルは走るように宿を目指した。


 急げ。早くしないと、あの孤塔は塔師の手で崩される。

 一度壊れた物は、二度と同じようには戻らないのだ。それなのに、塔師達は躊躇すらしない。

 地上と孤塔の上では通信がままならないと話していたから、もしも破壊命令が撤回されても、機会タイミングを逃せば情報が伝えられずに孤塔は破壊される。

 時間をかけては意味を成さないのと同じ。

 塔師局の横暴を許すなと、理事長からも声をあげてもらわなければ。急げ――。


「理事長、失礼をお許しください。至急のご報告があり――」


 召使に案内されて、セイジスの居場所――居間へ入るなり、イーシャルは、ジェ・ラームの孤塔での出来事を話した。


 これまで塔師局が提出していた報告書の不備について――孤塔の内部は報告よりもよほど不可解で、正しい情報をもとに、謎の解明について研究方法を改めるべきだということ。サスの実験道具について――同行者の一人が作った実験道具が小さな孤塔を作った――つまり、孤塔の謎の解明に向けて一歩前進したということ。


「あの孤塔が古代人が造った遺跡だという昨今の考え方は、信憑性を失いました。これまでの我々の考え方は間違っていたんです。これでは真相究明どころではありません。お願いです。せめて、破壊前にもう一度調査させてください。我々も塔師が受ける訓練を受け、孤塔の深部での調査ができるよう調整させてください」


 着替えもせずにやってきたので、イーシャルが身にまとった旅行服には無数の砂埃がついている。


 対して、セイジスは、こざっぱりとした背広に身を包み、居間の中央に置かれた臙脂色の長椅子に深く腰かけていた。年は九十近いはずだ。面長の顔は皺に覆われ、身体からは肉が削げて、筒服ズボン越しにも脚の細さが感じられる。


 セイジスはじっと耳を澄ませていたが、イーシャルが唇を閉じ、沈黙が流れると、細い首を傾げた。

 

「それで、今の話の論点はなんだね。きみの目的はなんだろうか。『孤塔を残したい』、それだけかね」


 調査が済んでもいないうちから古の遺跡を破壊するなど言語道断だと、頭をカッカさせていたイーシャルにとって、セイジスの言葉は、煮えたぎってドロドロになった溶岩を冷やす氷の石だった。不意打ちを食らった気分で、さっと頭の熱が冷めた。


「論点……ですか」


「ああ、そうだ。きみの望みはなんだね。『孤塔を残したい』、あるいは、『孤塔の謎を解明したい』、だろうか。ならば、逆に訊こう。もしも孤塔の謎が解明できて、孤塔の磁嵐を制御し、孤塔が後世へ残せるようになったら、人類にはどんな利点があるだろうか。例えば、人と人の間での虐殺行為が永久に、もしくは、百年単位での長期間に渡って、なくなるだろうか。それとも、少し文化が豊かになるだけだろうか。もしくは、きみの個人的な満足が得られるにとどまるだろうか」


「あの――」


 いったい何の話をしているのか。老教授の表情を追うしかできずに黙っていると、セイジスはそうっと手を動かした。皺に覆われた指先が手にとったのは、大卓テーブルに置かれていた紙束。表紙に「塔師局、第百五十回調査、於:ジェ・ラームの孤塔」とある。今回の調査の計画書だ。


 手遊びをするようにパラパラとめくりながら、セイジスはさっきと同じ調子で続けた。


「他の孤塔はともかく、あの孤塔だけは、崩さねばならん。ジェ・ラームの孤塔の破壊には大きな意味がある。例えるならば、この国における女王陛下のようなものだ。女王陛下が玉座にいらっしゃれば――または、あの孤塔を崩しさえすれば、長期間の平和が保たれる」


「平和が?」


「そうだとも。では訊くが、孤塔の謎の解明は、平和を保つかね?」


「孤塔の謎の解明が、平和を……?」


「ああ、平和だ。答えは『否』だ」


「すみません、理事長。お話がわかりません。孤塔を破壊することがなぜ平和の維持に繋がるのでしょうか」


 頭が混乱しそうだ。どうにか尋ねるものの、セイジスは首を横に振る。


「紛争後に生まれた幸せな子供達には理解できぬことかもしれん」


 「とにかくだ」と、セイジスは宙を向いたまま話を続けた。


「〈赤戦争〉の終結から七十年近くが経ち、あれを経験している者は数少なくなった。中でも、マリーゴルド女王の即位を助け、新女王を中心とした新政府を共に築いた連中は、皆この世を去ってしまった。私が最後――文字通りの生き字引だ」


 「若者よ」と、セイジスは続けた。


「あの紛争で、この国からはほとんどのものが消えた。女王家の継承争いで始まった争いは、のちに武断政略クーデターを引き起こし、権力を握らんとする三者、四者、あるいは五者が、互いに優位性を主張した結果、古くから続く王家の家系図のほとんどが焼失した。報復が報復を呼び、血を流す理由すらも忘れるほど血が流れ、歴史的な建造物は破壊され、いま我々が歴史書と呼んでいるものは、紛争の間に、または紛争後に、人の記憶に頼って、新たに書き起こしたものだ。歴史を忘れてはならぬと、その場しのぎの結論だったが、こうして平和な時が生まれ、七十年近い時が流れて、ついに結論に成った。いまある『歴史書』は、偽書ではないが、正真正銘の歴史書でもない。正しくはないかもしれないが、紛争ではなく平和をもたらした結論であり、そういう観点からみれば正しい歴史書だ。少なくとも悪ではない――そう、私は信じている」


 イーシャルは眉をひそめた。孤塔の破壊を止めてほしいという話が、なぜ〈赤戦争〉で失われた歴史書や、文化遺産の話になるのか。


「正直に申し上げますが、僕は、理事長のお話を理解できておりません。しかし、紛争で歴史書や建造物が失われたのであれば、その苦しみはおそらく僕以上に理事長が感じていらっしゃったはずです。孤塔が失われてしまえば、同じ苦しみを後世の人間が――」


「違うのだよ、きみ」


 セイジスはイーシャル言葉を遮り、骨ばった顎を引いた。しばらく黙った後で、言った。


「結論は一つだ。私が生きているうちに孤塔を壊さねばならん。今おまえ達が享受している平和を、この先何十年も、たゆむことなく維持するためだ。私が死んでしまえば、なぜ孤塔を破壊すべきかを明確に訴えられる者が存在しなくなる。秘密というものは、関わった者を苦しめるものだ。私が抱えるべきなのだ――」



  + + +



 乗合バスが街に着くなり飛び出していったイーシャルと同じく、ドナルも宿屋には戻らなかった。荷物だけを預けて、旅の服のまま街を出て、砂漠に向かった。


 民俗学関連の項目の調査担当として孤塔に登っていたドナルは、特にジェラの文化に詳しかった。出自がジェラであったせいもあって、祖先が信仰したはずの神話や民話、伝説を専門としていた。


 学術調査隊の一人として孤塔を登って、気になったことがあった。


(あの石――)


 サスという学者が作ったという卵型の機械は、孤塔の上で磁嵐と新たな孤塔を生んでみせた。それが、ギズとマオルーンという塔師によって破壊されたレサラスという孤塔にあった石状のものから着想を得て作られた――という話を、ドナルは孤塔の上で聞いた。


(なんというか、情報の共有が中途半端なものだな。塔師局が情報を出し渋ったのかもしれないけれど)


 塔師局は、せっせとみずから情報を与えるほうではなかった。「こういう報告があると聞いたのですが」と再三かよって、やっと渋々裏から資料の紙束を引っ張り出してくるような秘密主義なところがある。怠慢とも見えた。


(石といえば、ジェラには『石ノ子伝説』があるが)


 こういう伝説だ。


 ジェラにとって、ジェ・ラームの孤塔は〈母〉なる神の御許に続く道だ。ジェ・ラームの「ラーム」が、そもそも道という意味の古語でもある。


 ジェラ族の神話の中で、死者は、その道を通って〈母〉の御許にある豊かな死後の世界に向かう。しかし、生きている者も、特別な手順を踏めばその道をたどって〈母〉のもとへ行くことができた。それが「石ノ子」だ。


(石ノ子が持つのも、たしか黒い石だった。小さな卵型で、小さな子供が握れるくらいの――石ノ子になるのが小さな子供だからだ)


 石ノ子は「ネス」とも呼ばれる。「ネス」はジェラの古い言葉で生贄を指した。つまり、石ノ子というのは、生きながら死者の道を登る役目を託された使者で、ジェラ族が〈母〉なる神に捧げる石の運び手。石ノ子に選ばれた子供は儀式の後で行方不明になり、見つかることはまずなかった。だから、「生贄ネス」――そう呼ばれた。


(てっきり、供物として密葬でもされるのかと思っていたが、もしかしたら、石ノ子は本当に塔を登ったのかも……)


 ドナルの頭から離れない光景があった。


 孤塔に入って初めての夜に、ジェラの姿をした少年が現れた。少年は宙を蹴って飛び、すぐに姿を見失ったが、その少年がジェルトという名で、一緒に孤塔を登った塔師見習いの少女と面識があったことを、その晩に聞いた。


 その少年はジェラの歌を歌い続けていた。〈母の歌〉とも呼ばれる、ジェラ族に歌い継がれる歌だ。


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