孤塔 (1)

 孤塔の内部に足を踏み入れるなり、学者の一人がはっと後ろを振り返った。


「外の音が消えた」


 外と繋がる門の向こうには、様子を見守る大勢の顔がまだ覗いている。人の気配はすぐそこにあるのに、入り口をくぐって孤塔の中に入るなり、驚くほど声は遠ざかった。


「ふうん、この石の壁には音の響きを止める効果があるのかな――」


 列を逸れて壁際に進もうとした若い学者を呼び戻したのは、マオルーン。


「列を乱さないでもらいたい。それに、調査活動は俺かギズ――ギズっていうのは先頭の塔師だが、そいつが許可した時のみという条件のはずだ。確実に守っていただきたい」


「列を乱すなって、一歩横にずれただけじゃないかよ」


 先頭を行くギズとその後ろについたカシホの後には、学者勢が続く。ほとんどが二十代の若者だが、学術調査隊の隊長となった男は、最高齢の四十六歳。


 外の喧騒が聞こえなくなると、一行が砂粒を踏みつける靴音が重く響いた。


 孤塔の内部の明かりは、煉瓦の塔壁の隙間を利用した窓から差し込む光だけだ。薄暗くはあるが、積み上げられた煉瓦の形がつぶさにわかる程度には明るい。


「一階、磁力及び磁波は外部と同等で正常範囲。内部の詳細は二階にて記録」


 マオルーンは調査板を手にしていて、そこに鉛筆を走らせる。


「記録よし。上にあがっていいぞ、ギズ」


「了解。では、二階に向かう」


 二人でやり取りを済ませると、ギズの足は上の階へ続く螺旋階段に向かった。


 階段は外壁に沿って造られている。二階に上がっても、景観は一階とほとんど変わりなかった。


 ギズは、壁に寄って背嚢リュックを下ろした。


「二階に到着。磁力及び磁波は正常範囲。――今日はここまでだ。各自、寝袋を荷物から出せ」


「ちょっと待て、ここでひと晩過ごすのか? たった一階分上がっただけだぞ?」


 若い学者が文句をいうと、ギズはさも鬱陶しいとばかりに目を逸らした。


「遠足のしおりにそう書いてあっただろ? 初日の移動は二階までだ」


「計画書のことか? 読んだが、しかし――そうしなければいけない理由はいったいなんだ。本当にここで止まるのか? その階段を登っただけだぞ」


「ぶつぶつ、うるっせえな。ここにいるのが塔師だけなら、さっさと先に進んでるんだよ。てめえら学者連中がついてくるから、おれたちまで一緒に立ち往生してやってんじゃねえかよ」


「しかし――」


「しかしじゃねえんだよ。高地や極寒の地へいったら、環境に身体を合わせてしばらく慣らすだろ? ここでも同じだ。ここは孤塔の中、『化け物の腹の中』だ。調査したいんだろ? すりゃあいいじゃねえかよ。さっさとしろよ」


「しかし――」


「うるせえな。背嚢を下ろせ」


「だが――」


「背嚢を下ろせっつってんだよ。手間かけんじゃねえよ」


「ギズ、おまえな――」


「もうやめないか、イーシャル」


 ギズと若い学者の間に、マオルーンと最高齢の学者、アボットが入った。


 ギズとイーシャルという名の学者が顔をそむけ合って、孤塔の壁と壁の端で荷ほどきを始めると、他の学者たちもやれやれと倣う。外套を脱ぎ、身軽な姿になった学者たちは、孤塔の内壁にへばりつくようにして塔室の広さや高さ、煉瓦の積み方などを丹念に調べ始めた。


 ギズは大あくびをした。


「待機なんてつまんねえ。マオルーン、アムジェカ」


 ギズとマオルーンは壁に背を預けて、硬貨に似た形の駒を操り、遊戯ゲームに興じ始める。


「カシホ、おまえも休め。今は学術調査隊のための時間で、塔師は明日まで非番だ」


「はい、マオルーン教官」


 学者隊の邪魔をしないようにと、カシホは隅を選んで背嚢を置いた。背嚢の口を開き、中から取り出したのは、革張りの帳面。革表紙はよく撫でられて滑らかになり、正面に押された神の鳥〈ガラ〉に似た鳥の焼き印にも、黒い艶が出ていた。


 大型の背嚢リュックに小柄な身体を隠すようにしゃがんで、カシホは丁寧に頁をめくった。


 帳面に見入り始めてからしばらく経った頃。紙面に影が落ちた。


「すごい字だね」


 そばに、イーシャルという名の若い学者が立っていた。


 イーシャルはマオルーンと同じく南方出身者の風貌をしていたが、目元の雰囲気はマオルーンよりも王都風だった。


「そんなに細かくびっしりと書き込んで――きみ、勉強熱心なんだね」


 イーシャルが目を丸くするので、カシホは説明を加えた。


「わたしが書いたものじゃないんです。友人のものなんです」


「友達の? そんなものをどうして持ってきたんだ? まあ、いいけど。その帳面の持ち主は塔師になりたかったのかな。書いてあるのは孤塔の研究に関わることばかりだね」


 返事をするかわりに、カシホははにかんだ。イーシャルはにこりと笑い、手を差し出した。


「僕はイーシャル。きみは、僕らと一緒にいく塔師見習いの――」


「カシホです」


 「よろしく」と握手を交わすと、イーシャルは肩をすくめた。


「塔師って、威張り散らしてる奴だけじゃないみたいだ。きみみたいな子もいるんだね」


 背後の壁際で寝転ぶギズを横目に嫌味をいうと、イーシャルは踵を返して調査に戻っていった。




 日が暮れて暗くなると、一行は寝袋にくるまって寝ころんだ。全員が寝転べば、足の踏み場がほとんどなくなる。隙間窓から差し込んでいた光も消え、真っ暗になったが、壁際に常夜灯が置かれて、寝袋の布地を淡く照らしていた。


 暗がりの中、アボットが声をかけた。


「あのう、マオルーン塔師、我々が調査についていけるのは孤塔の何階あたりまでなのですか」


「そうだな――場合によるとしか言えませんが」


 そういって、マオルーンは考えるふりをした。


「上に登らないとわかりません。二十階まで行けるかもしれないし、三階で引き返すかもしれません」


「三階って、この階の上ですか。本当に?」


「可能性はあります。俺とギズは前回の調査で二十階に到達しましたが、孤塔の内部は、毎回代わりますから、俺たちが到達した二十階は今頃三十階になっているかもしれませんし、三階になっているかもしれません。もし三階になっていたら、あなた方が進むには危険ですから、俺なら退避命令を出します」


 アボットは慎重に声をひそめた。


「あなたたちが辿りついた二十階は、どのようになっていたんですか」


「森になっていました」


「森?」


「はい。湖になることもありますし、平原になることもあります。そういう場所は磁気がすこぶる強いので、塔師ではない人間が入れば脳死状態になります。――もう休みませんか。俺は体力を温存して、もしもの時にはあなた方を守らなければ――」


「あぁ、すまなかった。明日もよろしく頼みますよ、塔師諸君」


「はい。では、おやすみなさい」


 眠りの挨拶を最後に、孤塔の二階は静かになった。


 その晩のことだ。カシホは、寝袋の中で革張りの帳面を抱いて目を閉じた。でも、慣れない場所でぐっすりと眠れるほうではなくて、なかなか寝つけなかった。


(リイト、わたし、とうとう孤塔に入ったよ。今、孤塔の二階にいて、そこで寝ているよ。孤塔はリイトが言っていた通りに、中のことはほとんどわかっていないんだって。孤塔の夜は静かだよ。鳥の声も、風の音もしない――)


 胸に抱いた帳面に胸の内で話しかけながら、うつらうつらとできたのは、夜半過ぎのこと。


 バサッと寝袋の布地がこすれる音が鳴って、隣に寝ていたギズが起きあがった。


「マオルーン」


 マオルーンも、寝袋の中から抜け出て大声を出した。


「起きろ! 全員、目を覚ませ! 各自、自分の名前を声に出して唱え続けろ。自分は自分だと言い聞かせろ。頭を動かし続けるんだ」


 マオルーンが命じたのは、磁嵐中毒を応急に防ぐための方法だ。


 カシホも、慌てて身を起こした。常夜灯がほのかに照らす小部屋の様子は、寝入った時と同じだと感じた。磁嵐も感じない。


「マオルーン教官、磁嵐が起きたのですか――」


「カシホ、来るぞ!」


 マオルーンとギズは、揃って同じ方角を向いていた。夜空に似た闇が覗く隙間窓があったが、その窓の周り――煉瓦を隙間なく積み上げた壁の向こうにも、夜空が見えていた。壁が、透けはじめていた。霧に代わったように揺らめき、どこからともなく子供の歌声が聞こえる。


「セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――」


(ジェラの言葉だ)


 昼間に聞いた歌に似た響きだった。


「あそこだ」


 ギズは叫び、腕を構えた。手には長銃があり、銃口は小窓の真下を向いている。


 ザン! 長銃が震えて、空砲に似た発砲音が鳴る。その瞬間、壁が波打った。布に代わったかのように揺らいだ。壁はいっそう透けて、煉瓦の輪郭を淡く残すだけになり、外にあるはずの夜空を色濃く透かす。なにか別のもの――宙に浮いた人影も。


「あの子――」


 息を飲んだ。壁の向こうに、宙を歩く少年がいた。狙われていると気づいた少年は、銃の使い手――ギズの顔を睨んで、恨みをこめるように歌った。


「ジェ・ジェラ・ジェラードナル・レイテ・トリ・ジャルジャマール・ド・ジャー」


 少年を睨み返して、ギズは銃口を見せびらかした。


「消してほしいのか? てめえの磁気を吹き飛ばす銃弾がここにたっぷり詰まってんだが?」


「撃たないでください、ギズ教官、その子は――」


 飛び出したカシホへ、宙に浮いていた少年は訝しげに目を向ける。そのまま、小さな足で暗闇を蹴った。


「レイ・ドジャー・トル・ジャストレーラ・ジェラ・ド・ジャー」


 少年の身体がすいと上へ浮き、ぐんと上昇する。二階からは姿を追うこともできなくなった。


 やがて、壁の揺らぎがおさまり、陽炎のように揺れていた煉瓦の壁が、見た目にはもとの硬さを取り戻した。





「塔師諸君、今のはいったいなんなのですか」


 落ち着きを取り戻してからだ。アボットが尋ねた。


 構えていた長銃の先を床にかつんと下ろしつつ、ギズが、横顔を向けたまま答えた。


「今のは、化け物の使いみたいなもんだ」


「化け物の使い?」


「ああ。ここは『化け物の腹の中』なんでね」


「しかし――」


「さっきの子は、ジェラの少年ですね」


 声を出したのは、調査団の男の一人。彫りの深い顔立ちに、黒の髪と目。エクル王国の西方、ジェラという名の一族を筆頭に、砂漠で暮らす遊牧民の風貌をしていた。


「私は、ドナル・レイテ。王立研究所の所員で、考古学と民俗学研究の担当です。そして、この顔からわかるかもしれませんが、出自はジェラです。今は王都に住んでいますが、祖父の墓所はクロク・トウンにあります。六十五年前、まだこのあたりがジェラの村だった頃の墓所です」

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