猫の器

そくほう

導入編1 天国と地獄

第1話 甘い芳香

 ──ボクにはわからなかった。

 お父さんは、お酒を飲んでいつも真っ赤だった。

 叩かれても、蹴られても、投げられても、踏まれても、そういうものだって。

 “お母さん”って言葉すら、知らなかった。





 日が昇り、お父さんが外出すると、ボクは伸ばしっぱなしでボサボサになった髪をぶるぶると振り払い、食べ散らかされた残骸を漁る。



 魚の頭。そのままかじりつく。たまに口に骨が刺さるけど気にしてられない。

 お皿にこびりついたソース。残さず綺麗に舐めとる。

 端っこに肉が残っている骨。歯でこそぎとり、しゃぶりつく。


 ──貴重なデザート、ツプエ赤い果実の芯が逃げていくのが目につく。ボクは慌てて手を伸ばし、ソレを捕まえる。すると、芯の向こうから2匹の人鼠鼠の耳と尾を持つ小人が顔を出し、ボクの指に噛み付いた。


「いたっ!」


 思わず手を引っ込める。1匹、噛み付いたまま手についてきたので、手をブンブン振ると、どっかに飛んでいった。フーフーと指に息を吹きかける。幸い指から血は出ていなかったけど、そんなこんなしている間にデザートは忽然と消えていた。


 ──食べられるものがなくなったら、バケツに溜まった水天井から漏れた雨水を掬って飲む。ふうっと息を吐くと、ゴミを少しどかして潜り込み、空腹を紛らわすために目を閉じる。これがボクの日常だった。













 ──夜になり、扉の外に付けられた中からは開けられない鍵が、カチャリと音を鳴らす。反射的に目が覚める。ボクはぎゅっと身を強張らせ、それに備えた。






 でも、ボロボロの扉は乱暴に蹴り開けられることもなく、キイィ……と音を立てながら静かに開いた。

 スルリと月の光が差し込む。部屋は満月の青い光に照らされ、時間が止まったように静かだった。ボクは呆然と口を開けたまま、静止した世界に溶け込んでいた。





 そんな中、空いた扉からひらりと部屋に入ってきた侵入者。

(……!…………、……!)

 白く煌めくソレは、どうやらチョウチョみたいだった。

(……に汚れ……、ボロ……ない。……の?)


(……るし、……合って……。………ぶん)

 なにか、喋っているような気がする。チョウチョはブツブツ呟きながら、パタパタと部屋の中を回っていたかとおもうと──不意に、ボクの鼻にふわりと止まった。



(なん……!他に…………ろ!?だっ……、………ん!)

「ッ、オホン……こんばんは、未来の大魔導師さん。お迎えに上がりました」

 必然的に寄り目になるボクを尻目に、それははっきりと話しかけてきた。


「ボクのこと?」

「そうです。あなたは選ばれていました。状況は少し変わってしまったようですが…」


 チョウチョがひらひらと羽を揺らめかせると、優しい甘い香りが鼻をくすぐった。ぐぅぅ、とボクのお腹が鳴る。

 甘い香りの、おしゃべりするチョウチョ……そっか、これはきっと夢だ。でも、どうせならおっきなお肉とか、もっとお腹が膨れる夢が良かった。


「お父様かお母様はいらっしゃいますか?契約の──」

 完全に理解したボクは、ソレを鷲掴みにすると、そのまま口に頬張った。

「チョッ……何!?えっ、待っ、何この子、ど──」

 ……紙みたいな味がした。香りで味覚をごまかしながら、そのまま数回モグモグし、ゴクンと飲み込んだ。





 ひとりぼっちに戻った部屋の中で、ボクは再び眠りについた。

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