堪忍袋の緒が切れた

got anger(前)

「何度申し上げたら日本語を理解してくださるのでしょうか」


 仁科春です。

 地獄のようなテスト期間を抜け出したときには、夏らしい日差しの日が増えてきました。梅雨から夏のからっと晴れた天気に変わっている最中です。かくいう今日も夏らしい青空で、気の早いセミは土から出てくるかもしれません。


 七月に入って変わったのは、まずお店の内装です。

 マスターいわく、季節にあったものにしたいということでしたが、背後に奥さんの影がちらつきます。というのも、テーブルクロスの色合いや家具の配置などを考えることが、哲学にしか興味のないマスターにできるとは思えなかったからです。

 ゆえに、あたしも夏ルックになりました。と言っても青エプロンは変わらずで、白い半袖ブラウスに黒パンツ、になっただけですけど。


 変わらないものもあります。それがマスターです。夏が本格化するというのに、例のバーテンダー風の装いは断固として譲りません。


 お客さんの顔ぶれもそこまで変わりません。晶を紹介したとはいえ、彼は一介の高校生です。そんなに頻繁に喫茶店に足を運ぶことはありません。

 円藤さんはクールビズだと言ってスーツのジャケットを羽織らなくなりました。大体は仕事帰りに来るようで、ジャケットはいっつもくたくたのよれよれでしたが。


 そして……この二人に関して。


「まったく。何度この話をすればいいんでしょうか。堂々巡りです」


 二人がけのテーブル席に向かい合う二人。恋人、なんていう甘い関係ではありません。作家の舞浜さんと、担当の宝さんです。


「あの、すみません。でもどうしても、アイデアが繋がらなくて」


 今日は〆切の話ではなく、舞浜さんが執筆されている小説の打ち合わせのようです。本当にこういう場所でやるんだなあと、アルバイトを始めた当初は思っていました。


「では、もう一度申し上げます」


 皮肉なくらい丁寧な敬語で、でも語気はやや荒く、宝さんが言います。


「このシーン。ナツカが駅前に来るところ。彼女半日前までヨーロッパでしたよね? いるわけないです」


 なんてガバガバなシーンだ、と突っ込みたくなることも慣れました。舞浜さんは文章表現は豊かでそこがウリみたいなんですが、どうにもストーリーの方がイマイチ……というか、綻びだらけのようです。


「いや、でも、ここはナツカに来てもらわないと」

「ならばヨーロッパじゃなく、もっと現実的な距離にしてください」

「でも、ヨーロッパはナツカの憧れの場所で」


 舞浜さんは「でも」をよく使います。国語の授業でやりましたけど、そういった接続語の後には言いたいことがくるんだとか。小説の打ち合わせとなると、舞浜さんは意外と積極的に意見を述べます。


「日本人は何故、逆接を多用するのでしょうか」

「うわっ」


 マスターです。相変わらずぬっと出てきてしれっと問いを投げていくもので、びっくりしてしまいました。マスターが超・哲学思考に入るときの「フリ」はわかるようになってきましたが、空気のような存在感には驚かざるを得ません。前世は忍者か何かでしょう。


「ひどいですね、仁科さん。人をもののけみたいに」


 もののけ、と来ましたか。


「マスター、いつも突然出てくるんですもん。そりゃびっくりもしますよ」

「何故?」

「マスターが気配を消してるからです」

「おかしいですね。そんなことはないのですが」


 面倒になって適当に返してみましたが、真面目に考察されるだけでした。マスターには未だにかないません。


「今日は舞浜さんを見て、それを考えるんですか?」


 話をマスターが好きそうな方向に寄せます。案の定マスターはにっこりして頷きました。


「ええ。今日は観察をしながら」

「観察?」


 舞浜さんを見て考える、と?


「はい。自分の頭の中で完結させるのもひとつの哲学ですが、せっかく本人がいるのですから。実例を見て考えるのも良いかと思いまして」


 実例、と言うとなんだかサンプルみたいな、そうでもないような。


「仁科さんも見て、考えましょう。舞浜さんが逆接を使うのはいつなのか。そこにどんな意図があるか」

「あたしも、ですか」


 当然です、と言わんばかりに首肯するマスター。ため息をひとつ。つい漏れてしまいましたが、あたしは二人の会話に再び耳をそばだてます。


「……では。舞浜さんはどうなさるおつもりです」


 追及するような宝担当の声が飛びます。

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