この河原の片隅に。

山田えみる

『この河原の片隅に。』


「自分、ですか」

「君に白羽の矢が立ったんだ」

 何の取り柄もない無職だったぼくは、その言葉をきっかけに作家先生と呼ばれる身分になった。その評価は身に余るものだった。書店で自分の本を見かけたときの感覚はまだ覚えている。違和感というか、ふわふわした現実味のないものだった。

いままで静寂の底に沈んでいたぼくにとって、その歓声はあまりにうるさかった。ただただ呆然と立ちすくんでいると、いつしかその歓声は止んでいた。

「にわか雨みたいだ……」

 それからぼくは期待というものに向き合えずにいる。


 ※


 作家先生ではなくなったぼくは、日々の有り余る時間を持て余しながら深夜の街を徘徊していた。

『うーん、先生は充電期間が必要ですかねぇ』

『……はい』

 言いたいことはたくさんあったが、どれも言葉にはならずに溶けてく。『もう無理なんです』、そんなこと言えるはずもない。かといって、その言葉に奮起して作品を書き上げることも、いまのぼくにはできそうもなかった。

「にわか雨だ……」

 惨めなぼくをあざ笑うかのように、ぱたぱたと雨粒が降り注ぎ、すぐにそれは視界を白く染め上げるほどの大雨となった。雨宿りできそうなところは――、河川敷の古い橋が目に入り、ぼくはそこへ駆けて行った。

 一息ついて、肩の雨粒を払っていると、声が聞こえた。

「お主は、誰じゃ?」

 そこには祠のようなものがあり、少女がこちらを見上げていた。

「わらわが見えるのか」

 鈴の鳴るような、綺麗な声だった。


 『この河原の片隅に。』


「……迷子?」

「見ての通りの《かみさま》なのじゃ」


 ※


「こ、このッ、無礼者ぉー!」

 声が聴こえた。

 また野良犬と喧嘩しているな、と少々呆れながら、ぼくは河川敷に降りていく。小さな祠が見えると、案の定、かみさまが小さな身体をめいっぱい震わせて怒っていた。どうやら野良犬が祠にションベンをしたらしい。クスクス笑いながら近づくと、ぼくの気配を察して犬が逃げていく。

「こんにちは、途中のアラミタマートで差し入れを買ってきました」

「おお、よくわかっておる。じゃから、シュウは好きじゃ」

 コンビニ袋を奪い取ったかみさまは、ほくほく顔でぼくを見上げた。ぼくは祠の隣に腰掛けて、缶コーヒーのプルタブを開けた。この橋の下のかみさまに出逢ってから、一ヶ月が経とうとしていた。

「うまうま」

 アイスの蓋の裏側を舐めている彼女を見ながら、ぼくはコーヒーを喉に流した。

『現代では少なくなってきたが、たまにこうして波長の合う者がおるな』

『えっと、君は……』

『わらわのことは、ひとみと呼ぶがよいぞ』

『ひとみ……さんは、何のかみさまなんですか』

『秘密じゃ! ヒトが知るべきではないものを教えると、厳しい罰が下るからの』

 ひとみという名が示すとおり、彼女は幼子のようなまんまるおめめでぼくを見つめてくる。巫女装束のような服装。錆びついた髪飾り。しかし、穢らわしさのかけらもない、凛とした雰囲気。

 もしかして家出してきた少女なのではと思ったこともあった。一応、近所の失踪者のリストは見てみたが、該当はなかった。

「なんじゃ?」

「なんでもないです」

「やらんぞ、明太マヨのチップスはわらわのものじゃ」

 必死にコンビニ袋を抱きかかえるかみさまに、苦笑する。

「もしかしてお菓子のかみさまなんですか?」

「ちがうわい、おかしなことを言う。わらわが生きていたころは、こんな美味しいものを食べられなかったからな。本当によい時代になった。だがしかし、お菓子のかみさまとやらが本当にいるならば、さぞかしものすごいぱわーを持っているにちがいないじゃろう」

 かみさまは橋を見上げた。ここからでは空は見えない。

「八百万の神々にとって、人々の《信仰》こそが血液じゃ。もちろんそれには畏怖や恐怖も含まれる。恐怖が恐怖を呼んで荒御魂あらみたまとなったものも知っておるし、こうして時代の流れに取り残されて信仰を失ってしまったかみさまもおる」

 ひとみはせつなそうな眼で微笑んだ。

「そんな憐れむような瞳をするでない。別にわらわは信仰を無理にでも取り戻して、生きながらえようとは思っておらぬのだよ」

 忘却されたかみさまはとんがったコーンを指に嵌めながら呟いた。

「わらわが忘れられるのであれば、それでよいよい。そのほうがきっと民のためじゃ」


 ※


「きのこです」

「たけのこじゃ!」

「もうアラミタマートでおやつ買ってきてあげませんよ」

「うううぅ……」


 ※


「そういえば、こっちの地方ではシャルルマーニュが販売中止ですって」

「なんじゃと!」

 ひとみはまさにいま食べていたスナック菓子、シャルルマーニュを取り落とした。ぼくは自分のスマホからそのニュースを彼女に見せる。《それにつけてもおやつはシャルルマーニュ》というフレーズやパッケージのおじさんでお馴染みの定番スナック菓子だったが、昨今の競争激化により中部以東での出荷を停止するというのだ。

「驟よ、いますぐ買い占めるのじゃ。これがない世界で、わらわは生きられぬ」

 このかみさまが何歳なのかは知らないけれど、たぶんこの駄菓子がない時代のほうが長かったと思うのですが……。とはいえ、こんなことを言うほど、ぼくの買ってくる駄菓子を気に入ってくれたのは素直に嬉しかった。

「でも難しいですねえ。みんな同じことを考えていたようで、何店舗か回ってもどこも品切れでした」

 ネットの通販サイトでも値上がっている始末で、こうなるともうお手上げだ。

「それだけ人気があるなら、販売中止になどせんでもよいではないか!」

「こういうときだけ盛り上がって、普段買わないひとたちでしょうから」

「むー。割をくらうのはいつも地味に応援している者たちなのじゃ」

 じたばたと暴れたひとみは、シャルルマーニュの袋を愛おしげに見つめ、いつもざっくざっく雑に食べるところを、ひとつひとつ丁寧に、優しく、ねぶるように食べ始めるのだった。それがマナーがいいか悪いかは置いておいて。

「驟よ、ならばお主が販売されている地域まで出向けばよいではないか!」

「そんなこと言われても……。ひとみが行けばいいじゃないですか」

「わらわ、ここから動けんもん」

 ぷいっとそっぽを向いてしまう。もしかしたら嘘かもしれないとは思ったが、どうやらそうでもなさそうだった。たしかにひとみはこの河原の片隅の祠周辺でしか見たことがない。

 ここから動けない。

 それはひとみが何を司るかみさまであるのかという疑問についての、大きなヒントになりそうだった。


 ※


「アラミタマートで神社え~る買ってきました」

「よき働きじゃ。噂の納豆フレーバーのジュースはあるかの」

「一本しかなかったですね。やっぱり話題で」

「その一本はわらわのじゃ。お主には渡さん!」

 かみさまはどたどたとぼくのコンビニ袋を奪った。

「かみさまなんですから哀れな民に恵んでくださいよ。心ない輩にいま奪われたんですから」

「信仰が足りんわい」

 ぼくは八月末の殺人的な日差しから逃げるように、橋の下へと駆け込んだ。

「……こういう変な味付けのお菓子を毎回買うやつがいるから、企画が暴走するんでしょうね」

「のぅ」

「なんでしょう」

 ひとみは、祠に腰掛けながら、脚をぱたぱたさせて、アイスを舐めていた。

「お主は、暇なのか?」

 無邪気さに満ちたいまの一言、その破壊力は想像を絶するものがあった。たしかにあのにわか雨の日に彼女と出逢って以来、ほとんど毎日、ここにコンビニ袋を提げてやってきている。来られなかったのは、編集者からSNSを通じて催促があった日だけだった。その日は結局動けずに、布団の中で過ごした。

「プータローですよ」

「しかし、こうしてお菓子を買ってきてくれるではないか。ただでお菓子は手に入らんじゃろ? 何事にも対価が必要じゃ」

「ちょっとした蓄えがあるんです」

 何の取り柄もない無職が小説を書いたら大当たりして、かと思ったら、いろいろな眩しいものにビビって何も出来なくなったお話。そんなつまらない話、かみさまにできるわけがない。

「いつもわらわばかり喋ってずるいのだ。たまにはお主も話さんか」

「面白くないですよ」

「面白いか面白くないかはわらわが決めるのじゃ。そうじゃろ?」

 ぴょいと祠から降りたかみさまは、ずいっとぼくに近づく。ぼくは眼をそらす。

「まだ何のかみさまか教えてもらってないのに、ずるいです」

「それとこれとは話が別じゃ。言ったろう、ヒトが知り得ぬことを教えると罰が下るのじゃ。こーんなかわいいわらわが罰せられてもよいのか~? さ、話すがよい」

 結局押し切られるかたちとなってしまって、ぽつぽつとぼくは口を開いた。

 望んでもいなかった白羽の矢。あとでその語源について調べてみると、『生贄を求める神は求める対象とする少女の家の屋根に、白羽の矢を目印として立てたという。このことから転じて、「白羽の矢が立つ」の形式で「多くのものの中から犠牲者として選び出される」という意味として使われる』とあった。まさにそのとおりで、苦笑するしかない。ぼくじゃなくてもよかった。出版業界は毎月多くの小説を刊行せねばならず、誰でもいいから書ける人を求めていたに過ぎない。

 でも、ぼくにはこれしかなかった。学校にもいけなくなり、他にこれといった特技も才能もないぼくにとって、物語を書くことだけが生きる術だった。『お前のような無価値な人間でも、このためだったら生きてもよい』という免罪符をもらったような気になっていた。

 けれど、ぼくが書ける物語は暗く、地味で、ひとりよがりで、それは読者や出版社が求めているものではなかった。

『先生は、この原稿が読者に受けると思っているんですか?』

『えっ。ええ、まあ』

『だとしたら……、いや、なんでもありません。それはそうと、最近は出版不況もあってほとんどが兼業作家になっています。先生もそろそろ考えたほうがいいと思いますよ』

 免罪符は取り上げられた。ぼくはこの世界に求められていない。

「だから、ぼくは怖くなってしまって。あれからお話が書けなくなってしまったんです。白羽の矢なんて刺さらなければよかった」

 口を開けば、まるで洪水のように次から次へと言葉が溢れ出した。それは少なくとも作家の肩書きがついている人間としては、ひどく幼稚で、たどたどしく、要領を得ない話だっただろう。けれど、しぶしぶ話し始めたはずなのに、ぼくは想いを吐瀉でもしているかのように、止めることができなかった。

「……あ、すみません。喋りすぎて」

「飲め。喉が渇いておろう」

 そう言って渡されたのは、納豆フレーバーのジュースだった。喉に染み渡る。

「お主、泣いておるのか」

 かみさまに言われて、ぼくは頬に触れた。喋るのに精一杯で、まったく気づかなかった。

「泣くほどまずいよな、それな」

「……そういうんじゃないです」

 かみさまは戸惑うぼくに、そっと抱きつき、背丈が足りないながらも、『よいよい』と頭を撫でてくれた。ひとみのふんわりとした黒髪が揺れ、安らぐ薫りが鼻孔をくすぐった。


 ※


「……っ!」

 驟が帰ったあと、ひとりで駄菓子を食べていると背筋を冷たいものが走った。別に電撃が走るほど美味しかったというわけではない。取り落としてしまった袋を拾うこともせず、わらわは祠から立ち上がってため息をついた。

「……もう時間が来てしもうたか」

 永い眠りから呼び起こされたのは、驟という青年と波長が合ったためだと思っていた。彼は白羽の矢を立てられて、その身に余る大役に押しつぶされそうになっていた。それはわらわの境遇によく似ていた。

「いつか来るものだとは思っておったのじゃがな」

 けれど、理由はそれだけではなかったようだ。わらわは上流を見据える。小さな小さなかみさまの重なるような悲鳴が聞こえる。かつてわらわに捧げられていた信仰のちからは、この地域に起こった異変をわらわに伝えていた。

「驟をどうにかして逃さねばならぬな」

 彼は、こんな弱りきったかみさまを頼ってくれた。それはわらわのかみさまとしての役割ではないのだけれど、頼られるのは嬉しい。だからこそ、驟はいつまでもそばにいてはならない。

 またひとりきりで、誰からも話しかけられないまま、この河原の片隅で眠り続けることになる。考えてみれば、わらわの神生じんせいはそうした時間のほうが長かったのだから、

「寂しくなんて、ないのじゃ」

 あ。でも、もっといろいろなお菓子は食べたかったのじゃ。


 ※


 気まずかった。

 あれからどうやって家に帰ったのか、まったく憶えていない。喋り方はともかく、背格好は幼女とも言えるひとみに、母を求めるように泣きついてしまった。どういう顔で逢ったらいいのかわからなくて、ぼくはコンビニ袋を提げたまま、直射日光のもとで立ち尽くしていた。

 いくしか、ないか。

「ひとみ。新商品は売り切れでした」

 ひとみは、祠の上で膝を抱えていた。その大きな瞳からはいまにも溢れんばかりに涙がたたえられていた。ぼくはコンビニ袋を落としてしまった。いままで見たことがない様子のかみさまに駆け寄る。

「どうしたんですか? そのへんに落ちてる変なものでも食べましたか?」

「驟、お主、もうここに来るでない」

「……コンビニのお菓子も食べられませんよ?」

「いらん」

 消え入りそうな声。しかし、明確にかみさまはぼくを拒絶した。

「急に、どうしたんですか」

「なんでもないのじゃ。ただ――、そうじゃな、このままだらだらと時間を浪費させるのはお主のためにならんと思ったからじゃ。お主にはお主のやるべきことがある。わらわには、わらわのかみさまとしての仕事がある。お主はもう少し、自分自身に眼を向けるべきじゃ」

「ひとみ……?」

 ぼくは眉をひそめる。

「ほんとにどうしたんですか。あなたはそんなことをいうヒトじゃないでしょう。もっとだらだらと、時間の浪費なんて気にせずにお菓子を食べてジュースを飲んで、役に立たないような話を延々とするような人でしょう」

「ちがうな」

 ひとみが顔を上げると、

「わらわはひとではない。わらわはかみさまで、お主はひとじゃ。本来交わってはならぬものじゃからな、お主はもうここに来るべきではない。わらわはお主の顔も見たくはないのじゃ」

 にわか雨のような天気の変わりっぷりだった。ぼくは言葉を探す。この雨は急だけれど、このままではいつまでたっても止まないような気がしていたのだ。

「むかつくのじゃ」

「はい?」

「我ら神々は信仰を糧にして生きておる。信仰は期待とも言うことが出来よう。お主は期待に押しつぶされておる。身動きができなくなっておる。贅沢じゃのう。我ら神々が、その期待をどれだけ欲しているかも知らずに」

「君には、ぼくの気持ちなんてわからない……!」

 自分でも驚くほど冷たい声が出てしまった。

「期待されて、その期待に応えられて、それで生きているような君には、ぼくの気持ちなんてわからない!」

「ああ、わからぬさ」

 ひとみは蒼氷の瞳でぼくを見上げた。

の相容れないさだめのように、ひととかみさまは分かり合えぬからな」


 ※


 書けないと知りつつも、ずっとパソコンの画面と向き合ってきた。数年前、暇すぎて戯れで書いた物語だったが、目の前には白紙の画面しかない。キーボードの上には乗せてみたものの、動かない指。そんなぼくを急かすかのように、カーソルが点滅している。

「……やっぱり、ぼくには」

 唇を噛み、視線を逸らす。

 そうして何時間もパソコンの前にただ座っていたぼくは、外に出かけることにした。いつもの癖でアラミタマートに寄ってしまい、お菓子を山ほど買ってしまった。そろそろ店員の中であだ名がついているころだろう。

 堤防の上から橋を見つめる。ここからでは影になっていて、その下でひとみが何をしているのかわからない。せいせいしているだろうか、泣いているだろうか。あそこはほとんど誰も通らない場所だから、きっと寂しく思っているだろう。

 それに、謝らないといけない。

「雲行きが怪しくなってきたな……」

 と思ったときには、ぽつりぽつりと大粒の雨が降ってきた。それはすぐにざぁあああと轟音に変わり、見慣れた風景は暗幕を引かれたように暗くなる。ぼくは左右を見渡す。雨宿りできそうなところは、アラミタマートのある商店街まで引き返さないといけない。

 あるいは、いつかのようにあの橋の下。来るなとは言われていたが、さすがにこれはやむを得ない。どこのかみさまか知らないけど、粋なことをしてくれる。

 ぼくは、一歩、二歩と堤防を降りていく。


 ※


「お主……、馬鹿じゃの」

「どうしても謝りたくて」

「いますぐ出て行け。ここに来てはならぬ」

「出てけって、外はあんな大雨だし……」

「聞かんやつじゃな、よいか」

 ざぁざぁという音に、鈴のようなひとみが声が突き刺さる。ぼくの態度の何が気に入らないのか、ひとみは祠の上からぴょんと降りて、ぼくを鋭い目つきで見上げた。神がかった何かを感じる、ヒトならざるものの瞳だった。

「この川はいまに大地震で氾濫するのじゃ、堤防をも飲み込む歴史的な大災害が――」

 ひとみの告白を罰するかのように、雷鳴が轟き、世界が真っ白に塗りつぶされた。ひッ、とかみさまが恐れおののく。そこで鈍感なぼくは理解をした。それはヒトが知るべきことではなかったのだと。ひとみもその領分を知りながら、それでいて、ぼくを逃がそうとしていたのだと。

「驟、お主は――」

 そのあとの言葉も、雷鳴にかき消される。雨は見たこともないほどその激しさを増し、川はみるみる間に水位を上げている。ポケットに入れていた携帯電話が鳴る。LINNEやメールや電話の類ではない、本能的に警戒をしてしまうような音。あと数秒で大地が揺れる。

 聴こえなくても、ひとみの言いたいことは眼でわかった。大きな地震が来る。ひとみの表情は、恐怖で歪んでいる。それはきっと罰せられたことではなく、これからこの地域を襲う未曾有の被害を察してのことだろう。

「一緒に逃げよう!」

 喉が裂けるほどの大声を出して、ぼくはひとみの手を握って走り出した。ひとみが何のかみさまで、なんでここにずっといるのかは知らないが、このままでは彼女も危ない。

「ダメなのじゃ」

 彼女の手を握って、堤防の上まで駆け出そうとしたが、つんのめる。肩がもげそうな痛みが走る。ひとみの身体から想定される重さ、その何百倍、何千倍もの、質量を動かそうとしている感覚。まるでそれは橋そのものを動かそうとしているような。

「驟、」

 彼女はぼくの腕を振りほどく。

「洪水の後には肥沃が待っておるのじゃ」

 大地が揺れ、無力なぼくはやがて洪水に飲み込まれた。

 

 ※


 不思議と身体が軽く、意識だけがぼんやりとまどろんでいた。混濁した世界の中で、ちいさなひかりが灯り、ぼくはそちらへと意識を傾けた。何百年、何千年前の原風景、ひとりの少女のひとつのこころと共鳴していた。

「わたし、ですか……?」

 少女は、戸惑った表情で周囲の村人たちを見回した。帯につけられた鈴が鳴る。見覚えのある髪飾り。不思議と錆びついてはいない。身につけているものから、彼女はさほど身分の高い方ではないことがわかる。少女の母らしき人が泣き崩れている。

 事情がよく飲み込めていない少女に、大人がある方向を指差した。その先には、茅葺きのみすぼらしい家があり、白い矢が刺さっていた。

「白羽の矢が立った」

「しら、は?」

 ひときわ大きく母が泣く。わざとらしいほどに彼女の名を呼ぶ。ぽかんとしている少女に、大人は小難しい言葉を並べる。洪水、水神、祭儀、贄、橋。周囲の者たちの視線が、小さな彼女に突き刺さる。少女は、その身に余るほどの期待を感じ取る。

「ひと、ばしら……」

「そうだ。お主の生命がこの集落を救う」

 少女は大きなひとみをぱちくりとさせた。


 ※


「見られてしまったか。さすがのわらわも少し恥ずかしい」

「ひとみ……」

 ぼくは彼女に逢いたかった。あんなことを言ってしまったのに、あんなひどい言葉で傷つけてしまったのに。そしておろかにも、彼女の忠告を理解せず、こうして大洪水に巻き込まれてしまった。いま、ぼくの身体はばらばらに砕け散っているのだろうか。でも、最後にこうしてひとみと話せるのならば、悪くない終わり方のような気がする。

「君がこの川を治めていたんだ」

 ひとみは頷く。

「人々の信仰をかたちにしてな。じゃが、時代は流れて、人々は神を創らずとも荒ぶる水神を治める術を得た。《人身御供ひとみごくう》などせんでよくなった。治水じゃな。次第にこの祠を憶えている者も少なくなって、わらわはちからを失っていった。

 そんなときにこの大洪水を感じたのじゃ。現代の治水のちからは強力じゃが、強すぎるちからにはめっきり脆い。全盛期のわらわならこの程度お茶の子さいさいなんじゃがな、まぁ、信仰も足りんし、潮時じゃろうと思っておった。巻き込んでしまってすまなかった」

 ぼくは首を振る。

「そんな、ぼくが……」

「驟。洪水は肥沃をもたらす。あらゆる出来事が、お主が立ち上がるための糧となるじゃろうて」

 あのひとみの記憶の中で、ぼくはかみさまがまだひとりの少女であった頃を幻視した。白羽の矢が立ち、自分には背負いきれないほどの役割を与えられ、彼女は自分の意志で期待に応えた。そして、その後、何百年、何千年と、ひとりきりで過ごしてきた。

「期待が怖いか。じゃが、それは信仰じゃ。お主のためのちからじゃ。期待は命令ではない。誰にだってそれを命じることはできんよ。その表裏で、誰もお主の手を取って立ち上がらせてもくれぬ。ただ、お主自身がそれを信じて自分を立ち上がることはできるがの」

「ひとみ……」

「ふひひ、この洪水でようやく三途の川を渡れるわい」


 ※


 退院する頃には、あの大震災と大洪水がニュースに取り上げられることも少なくなり、被害を受けた人々の傷も癒え始めた。吹く風の冷たさに違和感を憶えながらも、ぼくはあの河川敷に向かった。両手に抱えたコンビニ袋が重い。入院しているあいだに発売した、見たこともない新商品が多く出たのだから仕方がない。

「……あれは」

 立ち止まる。立ち止まらざるを得なかった。ぼくとひとみが過ごしたあの場所に、洪水は爪痕をはっきりと残していた。あの小さな祠は流されてしまったのか、跡形もなかった。コンビニ袋をどさりと置いて、途方に暮れた。

「いってしまったんだね」

 白羽の矢が立ったあの家の少女は、決して後悔などしていなかった。その小さな身体に、あらゆる期待を受け止めようとしていた。何百年、何千年、この河原の片隅で人々を見続けてきたのかわからないけれど、彼女は泣き言を言わなかった。たとえ、自分の犠牲が不要とも思える時代が来たとしても。

「……にわか雨みたいだ」

 ぼくの中に感情の雨が降り注ぐ。言葉では言い表せないような感情が、ぼくの中で渦巻いて、大洪水を起こす。呻く。叫ぶ。空気が震える。ぼくがここにいる証拠。全身が震えて、心臓が沸騰しそうになる。

 期待、しがらみ、無力感。

 知らぬ間に自分で自分を縛っていた鎖が砕けるのがわかる。あの少女は、周りの目線が怖かったから頷いたわけじゃない。期待に押しつぶされて、首を縦に振ったわけじゃない。自分で選んで、自分の背中を押したんだ。

 鎖は洪水に押し流された。

 そのあとには、何が広がっているのか。


 ※


 ――さて、ようやくここからがこの物語の本題だ。

 祠の前で取り落としたコンビニ袋。定番のお菓子もたくさん入っている。かみさまの好き嫌いは極端だから、数件はしごしてようやく見つけたものもある。

 翌日、散歩のついでにあの祠のあった場所を訪ねてみると、ものの見事にその袋が開けられていた。というか、各種包装紙を綺麗に片付けて、ゴミ袋として結んであった。

『驟……』

 幽かな声が聞こえて、ぼくは周囲を見渡した。

「ひと……、み……?」

『次は明太マヨがよいぞ……』

「おいおい」

 もしかしたら。

 もしかしたら、あの大震災と大洪水で、皆が荒ぶる自然への恐れを抱いたとしたら。そして、それを防ぐ何かへおのずと祈っていたとしたら。その信仰が本当にかみさまに届くと知らずに。

 ぼくは、自分の手のひらを見る。自分の役割を知る。

 白羽の矢。身に余る役割。過剰な期待。

 この手は、物語を紡ぐことができた手だ。ここで人身御供にされた少女のことをみんなに知ってもらえたら、彼女の信仰はある程度は取り戻せるんじゃないか、という考えが頭をよぎった。また、のじゃのじゃ言いながら、ここで他愛もない話ができるんじゃないか。

 たったそれだけのこと。でもそれは、ぼくにとってなによりもたいせつなことだった。

 それは非常に個人的な願いで、もしかしたら自分勝手なことかもしれないけれど、自分が勝手にやるのだから、誰かの期待に押しつぶされる必要はない。迷うよりも早くぼくは手帳を開いた。

 この物語を、書くために。

 この河原の片隅に彼女がいるということを、《君》に知ってもらうために。

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この河原の片隅に。 山田えみる @aimiele

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