29:翼などなくて

「……? 『原書教団オリジナル・スクリプチャ』の教典、です。一説には、霧の女神が世界の全てを記した書物であると」

 そう、確かにそれは「原書」だ。だが、教団が象徴として掲げるそれと、俺が捉えているものは、まるで実態が異なることをほとんどの人間は知らない。

「奴らのいう『原書』を収めたものを、『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』と呼ぶ。世界の法則と、過去から現在に至るまでの全ての出来事を記録する、その名の通りの『書庫』。これ自体は、意思も明確な目的もなく、ただただ記録を積み重ねるだけの『仕組み』に過ぎない。

 魂魄界に存在するらしいが、通常目には見えないどころか、どんな方法でも知覚できない。だが、ごく稀に、この馬鹿でかい書庫の入り口を無意識に知っていて、その中身を覗き見れる奴が現れる」

 何故、そんな仕組みなのかは俺の方が聞きたい。ただ一つ、はっきりしているのは、

「現在唯一の『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』閲覧権限保持者。それが、俺だ」

 ということ、だけ。

 現在、と言いおいた理由は簡単だ。過去から現在に至るまで、『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の閲覧権限を持って生まれる人間は、何人も存在しているからだ。ただ、今は俺――オズワルド・フォーサイスただ一人である、それだけの話。

「かいつまんで言えば、この世界に存在するものを知る。過去に起こったことを知る。それに、今まで蓄積されてきた記述から『これから起きること』を推測する。それが『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』というモノであり、俺が持つ権限だ」

「なるほど、それで『ロビン・グッドフェロー』の攻撃を回避できたわけですね。攻撃が見えなくとも、どのタイミングでどの位置に攻撃を受けるか推測できれば、回避は可能です」

 セレスは物わかりがよくてありがたい。そう、俺にとって『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』とは行動の指針を示すものだ。この前、町でセレスが襲われたときに、見てもいない相手を狙い撃てたのも、この能力ゆえである。

「それでは『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』を見れば全てがわかるということですか?」

 いや、と。俺はかぶりを振る。

「書庫に収められた『原書』の記述は人の知識とはまるで形が違うし、そもそも人の魂魄に収まりきるもんでもない。俺が書庫の記述をまるまる理解するのは事実上不可能で、的を絞った『要求』を投げて『応答』を受け取るだけの代物だ。……俺の意志で使う限りは」

 セレスが不思議そうに首を傾げたのが目に入ったが、その当然の疑問は一旦横に置いて、話を続ける。

「それと『エアリエル』の知覚機能は『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』を併用すること前提で設計されてる」

「『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』を、ですか?」

「お前も仮想訓練シミュレーション副操縦士セカンダリ席に座ったことがあるからわかると思うが、あれは人が処理しきれる設計じゃない。『エアリエル』が取得する情報を『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』と照らし合わせることで、初めて完全に機能する。副操縦士セカンダリの役目は『エアリエル』と『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の橋渡しで、それ以上でも以下でもないってのが、あの船の設計思想だ」

 つまり、『エアリエル』のずば抜けた飛行性能がゲイルのためのものなら、知覚性能は俺のためのものだ。どこまでも、どこまでも、「俺たち」のために調整された船、それが『エアリエル』という船の本質だ。

「タネを明かせばそんなとこだ。それでも、俺一人じゃトレヴァーを落とすなんて夢もまた夢だけどな」

 誰かの「目」であることで初めて海にいることが許される出来損ないの俺と、霧航士ミストノートとして完成しているトレヴァーとじゃ比較にもならない。

 仮にトレヴァーの動きが読めても、その動きに対処できなければ意味がない。あの時かろうじて攻撃が回避できたのは、俺がオズだと気づかれていなかったからだ。知られてしまった以上、二度目はない。

 ――でも、まあ、二度目については考える必要もないのか。

 冷たい扉に触れる。俺とセレスとを隔てるこの扉が開くことはない。次にこの部屋から俺が引きずり出されるのは、時計台に送り出される時だ。その後のことは、もう、考えたところでどうしようもない。

 どうしようもない、というのに。

 セレスは、真っ向から俺を見据えて、俺に問いかけるのだ。

「ゲイル、次はいつ飛べますか?」

 ――いつ?

「ゲイルの能力があれば、わたしは、戦えます。今度は『ロビン・グッドフェロー』とも戦い抜いてみせます」

 セレスの目を覗き込むと、胸が、激しく鼓動を打ちはじめる。口の中が乾いて、扉に触れていた指先に、力が篭る。

 それでも。

「俺は」

 それでも、何とか、言葉を搾り出す。

「俺は、飛べない」

 それが精一杯の俺に対して、セレスは心底不思議そうな顔をして更に問いを重ねてくる。

「何故ですか?」

 何故?

 何故なんて、決まっているじゃないか!

「……っ、お前にだって、聞こえてただろ! 俺は、ゲイル・ウインドワードじゃない! 女王国の英雄なんかじゃない、それどころか、お前らの敵なんだよ!」

 冷静さを欠くな、と頭の中で囁く声が聞こえるけれど、一度吐き出してしまった言葉はどうしたって止められなかった。

「俺は『原書教団オリジナル・スクリプチャ』の教主、オズワルド・フォーサイスだ。世界の『平穏』を望んだ挙句に、世界中に泥沼の争いを振りまいた馬鹿野郎だ、許されるわけがねーだろ!」

 そう、この世界は俺を許しはしないし、許されたいわけでもない。

 なのに、なのに――!

「それは、ゲイルの罪なのですか?」

 セレスの無邪気な問いは、俺の柔らかい部分を突き刺してくる。

 今の今まで「ゲイル」であった俺の罪。俺の、本当の罪はどこにあったのか。その問いの意味を考える前に、衝動的に叫んでいた。

「ああ、そうだよ! 俺の罪だ、何もかも俺の罪だよ! だから!」

 痛む頭を押さえて、セレスを睨めつける。その、青すぎる目に映る俺は、きっと、あまりにも酷い顔をしている。

「もうやめてくれ、俺は飛べない! 次なんてないんだ! 俺はもう『エアリエル』の霧航士ミストノートですらない、お前と一緒に飛べるような人間じゃないんだ!」

 違うんだ、本当は、こんなことを言いたいんじゃない。

 セレスにだけは伝えるべきなのだ。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして俺がもう飛べないのか。セレスは、俺が嘘と誤魔化しに隠し続けてきた真実を求めてくれたのだから。

 だが、俺は。

「ゲイル、」

「頼むから帰ってくれ、もうお前の顔なんて見たくない、声も聞きたくない、二度と俺の前に姿を現すな!」

 セレスの言葉を遮り、俺の口から飛び出したのは、ほとんど「悲鳴」だった。

 セレスはただでさえ大きな目を更に見開いて、俺をまじまじと見た。表情は相変わらず変わらなかったけれど、その目がにわかに潤んだように見えてどきりとする。

 しばし、口をぱくぱくさせるような仕草をしたが、唇から言葉が出ることはなく、やがて視線を切って廊下の向こう側に駆けだし、すぐに俺の目からは見えなくなった。

 そうなって初めて、俺は自分の言葉を振り返って、鉄格子に頭を打ち付ける。

「……くそっ」

 何も、セレスを傷つけたかったわけじゃないのに、感情に流されて酷いことを言ってしまった。これでは、もはや謝ろうにも謝れない。

 いや、これはこれでよかったのかもしれない。

 俺に、失望してくれればいい。俺のことなんて忘れて、『エアリエル』の新しい操縦士として、誰よりも高く飛んでくれればいい。

 伸び伸びとしたセレスの飛ぶ姿を思い浮かべるたびに、脳裏にちらつくのは、青い、青い、波紋。

 俺が夢見てきたそれに最も近い、色。

 そう、口から飛び出した悲鳴は、俺が隠し通してきた本音でもあったのだ。セレスの姿は、声は、忘れたい夢を思い出させる。俺が俺自身で握り潰してしまった夢を。それは、酷い痛みを思い起こす、二度と戻らない「喪失」の記憶でもあって。

 だから、これでいい。

 脳裏に焼きついた、潤んだ瑠璃色の目に今もなお見つめられているような錯覚に陥りながらも、再び寝台に横たわって、瞼を閉じる。

 あとは、セレスの全てを俺が忘れてしまえばいい。俺がずっと忘れられなかった青い夢と一緒に、葬ってしまえばいい。

 それでいいのだ。

 きっと。

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