もう良いのよ

 自分はただ――踊らされていただけ。

 ライキの心は最早荒れる事は無い。


 ひたすらに静寂で、波一つ無い、涸れる事だけを待つ死の湖であった。


 減り続ける水量はそのままライキの正気であり、底が見えた時には――恐らく自ら命を絶つのだろう。彼は静かに思った。


 何故ファリナは「母」という言葉に過剰なまでに反応を示し、気を荒くするのか――オガルゥは包み隠さずに全てをライキに伝えた。


 寝床で愚図つく子供の為に、母親が眠気を堪えてお伽噺をするように。あくまでファリナはこう思ったのだろう、という「予想」に過ぎないと何度も言いながら。


 話を聴き終えた後に、彼の額はまるで高熱が出た時のように熱を発していた。


 次から次へと知らされるファリナの過去に、そして自分が如何にして欺かれたかを知る度に、彼の心は千切れ、燃やされ、灰へと姿を変えた。その熱が額まで上って来たに過ぎなかったのだ。


「ボク、もう一つだけお願いがあるの。多分オガリスを持っているでしょう? 古びた、木製のものを」


 言われるがままにライキは鞄からオガリスを取り出した。


「オガリスはね、私が考案したものなの。そして今ボクが出してくれたオガリスは、昔に私が。薄らと残る匂いが、ボクの鞄から感じられたから……どうして貴方が持っているの?」


 さぁ。と力無く答えるライキに、オガルゥは訳を問う事も無く……静かに微笑みながら「一緒に遊んで欲しいのよ」と箱を開いた。


「出来るでしょう、オガリス。私が赤を使うわ、ボクは白……どう? お願い、聞いてくれるかしら」


 返答する気力すら無いライキは、しかし彼女の願いを受け止め盤上に駒を並べ始めた。安堵したようにオガルゥも赤い駒を自陣に並べていく。ファリナの寝息、駒を並べる音、外からの鳥の声だけがライキの耳に聞こえた。


「始めましょう。札を引くわね」


 札に書かれた数字は三、今回の手番で動かせる駒の数を表している。オガルゥは惜しむように駒を取り、ゆったりとした手付きで盤上を走らせた。


 考案者という事もあり、ライキはあっという間に窮地に立たされた。彼の王駒はオガルゥの駒に囲まれ(王駒を取られるとその場で負けが決定する)、次の手番が回ってくる時、敗北する事は確定していた。


「……負けです」


 暗いライキの声に、オガルゥは「まだ負けじゃないわ」と明るく答える。


「『窮地返し』を採用しましょう。一度だけなら札を引いて、王駒に隣接する敵駒を取り除けるわ」


 通常、「窮地返し」のルールは公式大会や大人同士の対局で採用はされない。しかしながらオガリスは幅広い年齢層の競技者を集められるよう、多少の運を絡める追加ルールが存在する。窮地返しはその代表例だった。


 ライキは促されるまま札を引くと、四の数字が現れた。


「あら、大変な事ねこれは」


 ライキの王駒を取り囲むオガルゥの軍勢は、果たして奇跡的な札の引きにより全滅した。これを好機としてライキは敵陣に攻め入り、辛くも勝利を収めたのである。しかし気分の優れないライキは喜ばず、一方のオガルゥは負けた事をひどく喜んでいた。


「ボク、これは貴方の運命に抗う力が如何に強いかを表しているわね。盤譜本ばんぷぼんでもあまり見た事がないわよ」


 オガリスは国民的遊戯である事から、書店ではその対戦課程を記した「盤譜本」が多く発売されていた。腕を上げたい者はこぞって買い求め、質の良いものは高値が付く事も珍しくはなかった。


「面白かったわ、もう一度――」


「一つ、聴かせて貰っても良いですか」


 椅子から弾かれるようにして立ち上がったライキは、小首を傾げるオガルゥを睨むようにして見つめた。


「何かしら?」


「俺は貴女を殺しに来た……結果としてそうであっても、ファリナの差し金ではなく、。どうして貴女は……俺達にここまで優しくするのですか、これも一つの作戦か何かですか? だとしたらここで――」


 コトン、コトンと木がぶつかり合う軽やかな音を立てて、オガルゥは駒を盤上に並べながら言った。


「殺してやる、って言いたいのね」


 ライキは押し黙った。言葉を用いず、あえて沈黙を採用する事で自らの決意が固いものである事を示唆する為であった。


「それも別に構わないけど……遅かれ早かれ、どうせ私は死ぬ宿命なのよ。ほら――」


 身を乗り出すようにして、オガルゥは「見てみて」と目を見開いた。晴天のような青い両眼は暗く濁り、光が差す事を頑なに拒否しているようだった。初めて見た眼球の闇に、ライキは眉をひそめながらもそれを見つめる。


「目から光が無くなった時が、この命の終わりね。私、この森で多くの人間を――理由はどうあれ――殺して、魔力を補給して生き延びて来た。でも……魔力はその人の精神状態に強く影響されるの、だから私は煮詰められたような負の魔力を身体に溜めていった結果として……死が迎えに来た、という訳よ」


「ならば……収穫の夜で健全な精神の持ち主を襲えばいいのでは」


 魔女はかぶりを振り、それによって艶の少ない髪が揺れた。既に彼女の陣地には駒が綺麗に並べられている。


「もう、いいのよ。収穫の夜を黙って過ごす事が致命的なのは分かっているわ、それでも正しい事ではないから……。それに、ここらで終わりにしないと、いつしか人間は『失敗したら簡単に死ねる』って思うようになる。生きて生きて、死に逆らう事をしなくなる……それが私には一番恐ろしい。だから――」


 コホコホ、と乾いた咳を二度、三度としたオガルゥは、ライキの手を取り優しく摩った。


「私はあえて、ボクに殺して貰うのよ」


 和やかに微笑み、我が子である人間に自らの殺害を願い出る母親オガルゥ。


 目に偽りは一切見受けられない――ライキは彼女の決して揺れぬ決意を見出した。


「……もう一度、やりましょうか」


 ライキはソッと手を離し、自陣に駒を急いで並べ始めた。窓の外は橙色から紺色へと移り変わり、四方から虫の声が響いている。オガルゥは嬉しそうにライキの様子を眺め、それから眠り続けるファリナの方を見やった。


「ボク……?」


「何でしょうか?」


 しばらくの沈黙があった。オガルゥは目を細めて言った。


「あの娘を……ファリナを……頼むわね」


 オガルゥは幸福に満ちたような表情を浮かべると、ライキが駒を並べ終えるのを見届けてから札を引いた。先程と打って変わったような、弱々しい手付きであった――。




 地平線の彼方が薄らと青く染まり出す頃。夜行性の動物は眠り、昼行性の動物は欠伸と共に活動を始める時間であった。


 ライキは森の墓場――その中心に立っていた。


 足元には微笑を湛えた魔女、オガルゥの亡骸が横たわっている。亡骸にはほんのりと温みが残っているが、もう二度と脈打つ事の無い心臓から発せられる「無機質の冷気」が、彼女の身体を繭のように包んでいるようだった。


 魔女の口元には割れた瓶が転がっている。濡れた内部は紫色に妖しく光っており、見る者をすら「毒殺」してしまいそうな程に異常性を物語っていた。


 まだ世界が月光に照らされていた時、彼女は毒薬を一口で飲み干すと――彼に感謝の言葉を遺して逝った。

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