終 章 帰路(2)
後宮の解散とともに、アルマは表向き退官すると決まった。
天還祭が終わってしばらくゆっくりしていけというションホルの言葉に甘んじて、アルマとシャマルは彼の穹廬の南側を拝借していた。
夜ごと政務を終えたションホルが穹廬に顔を出し、
「明日経とうと思う。連れをウシュケ族の村に待たせているんだ」
シャマルがションホルに切り出した。
「もう行ってしまうのか。まだ三日も経ってないじゃねぇか」
「ずっとここで客としてもてなしてもらうのも悪いしね。君には君の、僕には僕の生活が待っているから」
天還祭が終わった後、十三年前に配られたシャマルの手配書は過去の冤罪として処理された。
シャマルは晴れてカラ・アット族の土地を踏めるようになり、後ろめたさもなく帰郷することができる。しかし、彼はカラ・アットの故郷には帰らず、このままハシャルの町で暮らす。仮に冤罪であったとしても、カラ・アット族が彼のために曄に支払った代償は消えず、それを補う曄はもはやない。支払った代償のために無関係の人間に傷跡を残しており、両者の禍根が一切ないわけではないのを気にしているのだ。
「これを君に返しておくよ」
シャマルはラズワルドの首飾りを外してションホルに手渡した。
「ハドゥさんに話を聞いたんだけど、ラズワルドはその家の宗主の正妻に渡すんだって? なら、じき君に必要になるだろう」
「ああ……」
ションホルは複雑な面持ちで首飾りを受け取ると、己の首につけた。彼が最も贈りたかった女性に贈ることはもうない。立場がそれを許さないのだ。
「アルマ、君はどうする?」
二人の間の思い出話に割って入れずに、アルマは毎夜口数を少なくしていた。
シャマルからションホルが実の兄だと改めて聞いて、これで本人を含め三人の証言を得たことになるが、家族としての兄というよりも近所の気のいいお兄さんとしか思えなかった。
十三年という長い歳月をたった一か月ちょっとで取り戻せるはずはない。ションホルは妹のことを覚えていても、アルマは兄のことをおぼろげにしか覚えていないのだ。しかも、探し求めていたとはいえまさか瑛国の皇帝になっているだなんて思わないではないか。
「凰都に残るというのなら長公主として王城内に住まうことができる。お前が希望するならばすぐに手配する。俺はお前が残ってくれるのは大歓迎だ。寝食に困ることはしばらくないが、自由は保障されない」
ションホルは己が実母や仲間に推されて皇帝の座に着いたことを後悔している、と胸の内を明かした。自由に振る舞うには昏君や暴君になればたやすいが、甘んじるには疲弊した民が多いと。既に己の一族を身勝手で滅ぼしているのだからと自嘲する。
アルマの心は決まっていた。勿論、シャマルについてともにハシャルの町に帰る。しかし、肝心のシャマルはアルマにどうするかと尋ねても、共に帰ろうとは誘ってくれない。
シャマルが汚名を被り、故郷を離れなければならなくなった理由はアルマだ。
事実を知ってしまった今、彼はおのが人生の災いの種ともいえる自分と再び共にありたいと思うだろうか。複雑な心境で旅を共にするのであれば離れるべきなのだろうか。
結論ははっきりしているのに、普段使わない頭で悶々としていると、確かめるのが怖くなった。
「はーん、さてはシャマルの迷惑になるとか考えてんなお前」
「えっ、ちが……」
図星を差されてアルマは思わず否定した。
ションホルはにやにや口を緩ませながら妹の顔を覗き込む。
「何で迷惑なんだ?」
シャマルはきょとんとした顔で両者を見比べている。アルマはすぐに杞憂だったのだと気付いた。
「俺に押し付けられてるんじゃないかとか、自分がいたらキジルが妻帯できないんじゃないかとか、色々不安になることはあるだろう」
「君って人のことがどうでも良さそうなのに、意外と観察しているんだ」
「失礼な奴だな」
「だって、相手の心情を知っているのに、いつも敢えて自分の考えを貫いている、いや、押し通しているといったほうがいいのかな……? ってことだろう?」
シャマルの言葉にションホルは気を悪くして、鈍感なお前よりましだ、と吐き捨てる。
「別に僕は迷惑じゃないよ。誰かと結婚するつもりもないし。あまり興味がないというのかな。だからアルマが結婚するまで面倒を見ることだってできるよ。持参金だってちょっとは蓄えてある。ただ、帰るところがあるのに僕とともに来てもいいのかと思ったんだ。家族の元へ帰るのは自然な形だからね」
シャマルが空の酒杯を卓に置いたのと入れ替わるように、アルマは己の酒杯を取ってぐいと飲み干した。卓に叩きつけるように空になった酒杯を置き、立ち上がる。
「あたしはシャマルと一緒にいたい!」
酒のせいか、顔がみるみるうちに上気するのが分かる。
「一緒にいても良い?」
シャマルもションホルも目を見開いて驚いている。それが余計に恥ずかしい。
「落ち着けってアルマ」
椅子を勧められてアルマは乱暴に腰を下ろした。
「あたし、お兄さんに会うまでシャマルとの旅がずっと続くもんだと思ってた。でも違った。死ぬまでずっと用心棒をしているわけじゃないんだ、今だけなんだってここにきて分かった。お兄さんはこれからの瑛のことを考えてるし、シャマルは一人で傭兵としてやっていける。けど、あたしはまだ独り立ちできてない。だから、もうちょっとの間、あたしが自分で何ができて何をやりたいのか探すのを待ってくれないかな? それで良かったら助言して欲しいの」
シャマルは穏やかに笑いながらぽんと頭を撫でた。
もう養花殿でしていたような結い髪はしておらず、三つ編み五本と残りの髪を頭頂に束ねたいつもの髪型だ。
「気負わなくても良いよ。あんまり急がれたら兄としてはちょっと寂しいからね」
「俺が甘やかせない分、キジルに甘やかしてもらえよ、ミウェ」
ションホルが肩を震わして笑った。
二人が子ども扱いするのでアルマは唇を尖らせたが、こういうのも今しかないのかもしれない。もしも他の誰かに自分が嫁いだら、ションホルはともかく、シャマルは世間体を気にして頭を撫でることなどもうしないかもしれない。初潮が起きてから互いの部屋が分かたれたように。
「何だか二人はあたしをずっとちびの妹のままだと思っているみたい」
「お前にその気があれば俺はいつでもお前を娶って一人前の女にしてやるよ。ブルキュット族は従姉は勿論、異腹の姉妹も妻にできるからな」
「ええっ! お兄さんのお嫁さんにはならないっ」
冗談めいていったのに、真っ向から否定されてションホルが頬杖をついて拗ねる。
「そうだね。もう少しの間だけなんだろう? 君が独り立ちするまでは。だったらそれまではちびの妹でいてもらおうかな」
そう笑顔でいわれると弱い。それでなくとも照れてしまうというのに。アルマはおずおずと頷いた。
旅立ちの朝は夏らしい深い青の空が広がっていた。雲は眩しい陽の光に霧散してひとつも姿を見せていない。
ションホルとハドゥは王宮の北門で二人を見送った。
オルツィイたちは丁度学習所の時間なので別れは早朝に済ませた。
オルツィイは朝から泣き腫らしたのでエルデニネとドルラルが慰めていたが、しまいにドルラルまでもがもらい泣きをしてしまったので、アルマは苦笑いした。ドルラルは側仕が全員いなくなり、寂しくなったところにまたアルマが去るので、堪えていた辛さもあるのだろう。三人に手紙を書く、といい別れた。
きっともう二度と王宮の中に入ることはないだろうと思うと、勿体ないので目を皿にして周囲の光景を焼き付けた。振り返れば短いが、濃密な日々だった。
北の玄武門の迫持を潜ると白大理石の太い橋が見えてきた。堀には蓮が蕾を傾げていて、今朝咲いた花は閉じている。
アルマは早速この城でやり残したことを発見してしょんぼりした。城壁を背景にした大輪の蓮は綺麗だっただろう。そういう光景を見たかったのだが、その光景だけを眺めて死ぬまでの時を過ごすのはやはり自分の人生とはいい難かった。
橋のたもとには守衛が二人立っている。
この橋は曄時代、そしてそれ以前の時代とも、退官する者たちが最後に渡る橋なのだ。ここから王宮の北面を拝して城の務めを終える。いい伝えられてきた官たちの最後の行いを己が体験するとは夢にも思わなかった。
「ミウェ、体を大事にしろよ」
「お兄さんこそ無茶しないでね」
ションホルは鷹使坊の姿である。皇帝の礼服を纏えばたちまち多くの兵や官が付き添わねばならないから兄妹の別れはできない。彼は馬上のアルマを引き寄せると耳元で囁いた。
「キジルはお前に輪をかけて恋愛には疎い。今はお前のことを妹としか見ていないし生涯独り身を貫くつもりだろう。もしも想いが叶わないとしても、後悔のないよう精々励めよ」
「んなっ……!」
実兄からの助言にアルマは顔を赤らめた。
そういえば、ションホルがまさか兄とは知らず、直截ではないが折に触れてシャマルという想い人がいるのだと触れていた。
「ん。アルマ、またいつか会おう。それまで耳にした伝承が集まれば教えてほしい。本当はお前と二人で収集で旅に出たいところだが今はお預けというところだ」
「え? どういうこと?」
いわんとしていることの半分が分からず、ハドゥに聞き返すも、ハドゥは既にシャマルの元へ礼を伝えていってしまった。何でもシャマルがまだカラ・アット族にいた時に聞いた古老の話を聞かせたので、貴重な話が聞けたと大層喜んでいた。
「あいつ、最後に抜け抜けとちょっかいかけやがって!」
ションホルがハドゥに悪態をつく。アルマには、意味が分からないままでいい、とその真意を教えてくれない。
そして、二人はハルとツァガーンが見送りに来れないことを詫びていたと話していた。
ムグズと脱走した刺客を捕えたことによって王城内の殺人については一応の終止符を打てたとションホルはいったが、その裏の糸を引く反瑛の曄臣を検挙するには至っていない。
史書を紐解いても太平の世と謳われた皇帝の御世でさえ、完全に燻った火種を消し去ることはできなかった。火種が燃えて瑛が尽きぬようにするのがションホルやハドゥの役目だ。
「アルトゥン、会えて良かった。アルマのことは任せておいて」
「ああ。ミウェに何かあったら末代まで祟るからな」
「末代まで……、ね」
ションホルはシャマルの騎乗する元愛馬をひと撫でして口の端を上げる。シャマルは眉を下げて苦笑したのちに馬を進めた。ボランは正式にシャマルの馬となった。アルマも帰路のために貰った馬の脚を勧める。
「さようなら、お兄さん」
市井に生きるアルマが兄と会うことは金輪際ないかもしれない。でも、笑顔で別れを伝えられて良かった。
アルマは何度も城の北面を振り返った。ションホルたちが米粒大になる頃には涙が頬を濡らしていた。シャマルとともに再び出立できる喜びと、実の兄との別れと、色々な感情が複雑に胸の内で蠢いていた。
凰都の外壁を出てしばらく経っても、アルマはまだ鼻を啜っていた。そこにシャマルがあっと声を上げて思い出したように振り返った。
「そういえば、君に渡したいものがあるんだった」
シャマルは懐をごそごそとさせて白い軟玉でできた指輪を渡した。アルマの涙が調子良く引いた。
「あたしにくれるの……?」
受け取った指輪らしきものを空にかざす。白い軟玉が淡い黄色を帯びて濡れたように光る。少し歪で面取りの荒々しい
「うん。あんまり上手くないけどね。君を助けに行く前にアク・タシュ村の職人さんが白玉洞の石を分けてくれたんだ。再会したら渡そうと思ってた」
シャマルが照れ隠しに笑うのがとても愛おしくて、次は感動で涙が出そうだった。
「ねえ、これって指輪だよね?」
「ああ。やっぱり指輪の方が良かったのかな? それは指輪じゃなくて親指用の
アルマは一気に項垂れた。でも、シャマルが手ずから自分を思って作ってくれたものはとても嬉しい。弓懸であったのは残念だけれども。
親指に嵌めて掌を再び空にかざす。ラズワルドの首飾りと同じくらい大切な物が増えた。
「ケリシュガンさんにいわれたんだ。アルマも年頃だからもっと可愛らしい恰好をさせたほうが良いとか、装飾品を持たせたほうが良いとか。アイシュに服を借りた時に女の子らしい服で喜んでただろうと。でも、僕は疎いから分からなかった。兄としてもう少し気を付けるよ」
気遣いがとても幸せだった。長い人生がこの果てにあるとすれば、彼との旅は刹那に過ぎないのかもしれない。けれども、アルマは今を永遠に噛みしめていたかった。
凰都は既に遠く、夏の日差しで陽炎のように背後を揺らめいている。
「シャマル、あたしとっても嬉しい」
視線を落とした親指の先には、白や黄色の夏の花たちが風に揺らいでいた。
瑛国天還抄―ラズワルドの姫神子― にっこ @idaten2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます