第一章 護衛(3)

 シャマルとアルマはボティルの娘・チランが仕切っている食堂で残り物を分けてもらった。ここの食堂は夕方までの営業で、酒場としては開放していない。傭兵とは名ばかりの荒くれ者が来るとも限らないのでボティルが許さなかったのだ。

 チランはボティル譲りの赤毛をアルマのように総髪に結っているが、アルマよりもずっと短く、うなじまでの長さでしかない。毛先には癖があってくるりと外にはねている。

 アルマは同じ髪型なのにどうして一つ上の彼女のほうが女らしく思えるのだろうといつも不思議に思う。傭兵の男たちは明朗闊達な働き者のチランのためにわざわざ遠くてもこの斡旋所を利用しにくるくらいだ。とはいえ、彼女にはもう既に役所で働く配偶者がいるのだが。

 チランは皿に米を盛ると、上から干し果物と酒で煮詰めた鶏肉をのせた。肉の旨みが染み出した黄金色の煮汁がほんのり塩と甘味を含んだ出汁の香りを漂わせる。机に置かれた蝋燭の灯が肉の油がきらきらと輝かせていて、一仕事終えた後の食事を格別に美味に演出した。紫すももと杏の甘味と酸味、果実酒の軽やかにこくのある風味、それに肉の塩味が甘じょっぱくて、体の疲労に反して匙が進む。

 食べ終えると二人はそれぞれの部屋に帰った。

 以前は二人部屋だったが、アルマの初潮を機に六年前から部屋を分けてもらっている。

 二人の部屋は従業員部屋の三階にあって、階段を挟んだ反対側がボティル家族の部屋だ。好意によって私室のようにあてがわれているが、あくまで借り物の部屋と認識して一切の私物を置かないシャマルに対し、アルマは行く先々で手に入れた少数の土産を鏡台に飾っている。

 シャマルと二人部屋だった頃は土産を飾ると、ボティルの家だぞ、と叱られるので自分の荷袋にしまっていたが、部屋が分かれてからは堂々と飾っている。その収集品をチラン――アルマはチラン姉と呼んでいる――が好んで見に来るのでシャマルは遂に何も言わなくなったが、腹の底では認めていないことをアルマは知っていた。

 アルマは朱色の腰帯を解き、翡翠色の羽織を脱ぐと椅子の背にひっかけ、白い立襟の襟元を解放してどさりと寝台に寝転んだ。木製の脚がぎしりと小さな音を立てる。

 足を振って長靴を脱ごうとしたが、反り返った先端に足の指が引っ掛かってうまく脱げない。気怠い体を起こして乱暴に剥ぎ取ると、花や蝶の刺繍が土埃で汚れている。だが、はたいたり拭ったりする元気もなく床に打ち捨てた。

「はぁ……。疲れたぁ」

 ぼんやりと部屋を眺める。

 灰褐色の壁の下半分はこげ茶の板で化粧されていて、ともすれば寒々しい石造りの空間にぬくもりを与えていた。

 窓枠は斜めの格子をはめていて、明るい青緑を塗っている。

 どの部屋も同じ構造をしているが、壁面の絵画だけはボティルの妻へセルの好みでばらばらだ。この部屋にはへセルが古物屋で見出した羊皮紙の断簡が額装して飾られてある。稚拙な絵柄だが細密でよく観察してある。白い羊に干し草を食わせている紺の服を着たおかっぱ頭の奥に、馬に乗って畑を耕している農民がいる。背後には尖塔のような建物が建ち、空は半円で陽や星が書き込まれている。シャマルは西方の暦の写本ではないかと言っていたが、へセルは素朴なりに細密な雰囲気が気に入っているらしい。

 アルマは内衣の中から黒い紐でくくった首飾りを引っ張り出した。

 親指と人差し指で首飾りの石をつまんで天井にかざす。左右が欠けた歪な形をしている。燭台の光が弱々しいせいで、夜だと色が判然としない。それどころか燭台の黄色の光を直接映してしまっている。

 本来は神話の夜空を切り抜いたような美しい紺色をしているのだ。真中に金色の線が走っていて、線の周囲を星のように小さな点が散っている。高価な石らしいので、普段はシャマルに服の中にしまって人目に見つからないようにと言われていた。この石を目当てに追剥に狙われる可能性があるからだという。それに、

――僕たちの身元が明るみに出るのはまずいってアルマも分かっているよね。

 さっきシャマルが叱ったとおりである。

 アルマはその出自を人には明かせない。新しい王朝に替わる前の曄国で、アルマのいた部族はみなごろしの勅を出されていた。根絶やしになるまで。

 もしも身元が分かったなら、曄のみやこであり、それを引き継いだ瑛の京でもある凰都に引っ立てられる。その後は極刑が待っている。

 新王朝になって罪人に大赦が出たのは知っているが、件の鏖まで撤回されたのかは分からない。ただでさえ少ない生き残りだから、捕まえて奴隷として売れば金になるだろう。特にアルマは女だ。より価値の高い商品となる。

 シャマルはそんなアルマを心配し、匿っている。

 アルマは独りになってこのラズワルドの首飾りを見るたびに遠い昔を思い出す。今ではもうあまり覚えていない、おぼろげで断片的な記憶だ。

――僕と一緒においで。

 十三年前、同じラズワルドの首飾りを持ったシャマルが現れた。

 黒馬の背から手を伸ばしてきた彼を仰ぎ見て、まるで自分が選び抜かれたたった一人の姫君にような心地だったのを覚えている。

 草原の低木群の片隅で寄る辺がないと一人泣いていた時だった。当時身を寄せていたブルキュット族には血縁が居らず、父も死に、母も死んだ。異母兄弟はいたが、仲の良い兄弟はいつの間にかいなくなってちびのアルマは虐げられた。

 だから、あの日のアルマにとって、シャマルとの出会いは青天霹靂だった。

――僕は君の兄だ。

 そう言ってシャマルはラズワルドの首飾りを見せた。アルマが持っている石と右側がぴったり合わさる。

――君の本当のお兄さんに、君を助けてほしいって頼まれてきたんだよ。

 今までだって困難な日々はあった。だが、救いの手が差し伸べられたことはなかった。だから、シャマルが今になって突然迎えに来た理由は分からなかった。けれど、彼の手を取ることは正しいと思った。ここにずっと居ても心身は疲弊し続けて、いつか使い古しの布きれのように擦り切れてしまうだろう。

――うん、一緒に行く! 連れてってください!

 力強い腕が細腕に絡みついて馬上に引き上げられた。

 黒馬の背に乗った時、広い荒野の夜空に星の川が流れていた。

 手に握ったラズワルドと同じ光景を目の当たりにして、アルマはやはりこの選択は間違っていないのだと確信した。

 五歳の記憶はそれぐらいしかない。それ以前の思い出と言えば母が死んで父が死んで叔父が酋長となって、アルマはこれまでの家族や親族から奴隷同然に扱われたくらいだ。低木や藪の中に居る時だけ虐げられない。そうやって曖昧に身を屈めていたことしか覚えていない。

 だが、このシャマルとの出会いは今でも色鮮やかに、否、当時よりももっと輝いた色彩を伴って、アルマの心に刻みつけられていた。彼と出会ってから嬉しい日や楽しい日は勿論、泣いた日も怒った日も全てがかけがえのない日々だ。

 黒馬の背に乗って部族を飛び出してから実に十三年の月日が流れた。連れ出してくれた黒馬は少し老いたがまだ現役である。そして今でもシャマルはしっかり者の良き兄だ。手先は器用だが心配性でアルマにだけ怒りっぽい。浮いた噂を自ら一蹴して婚期を逃した。ずっとアルマを庇う盾であろうとする。

 しかし、アルマにとっては事情が違った。

 彼女にとってシャマルは兄分ではあるが、兄ではない。なぜなら、血は繋がっていないのだから。アルマにとって片方でも血が繋がっていないことは非常に重要なことだった。自分を因習の籠から連れ出した運命の人だが、ただ鳥籠を開け放ってくれただけの解放者ではない。手を伸ばしてくれたあの時から、アルマにとってシャマルは昔話に出て来る一人の王子なのだ。

「今日も妹扱いだったわ」

 ため息を吐いてラズワルドを握りしめた。

 初潮が訪れて、部屋が分かれてからシャマルはアルマを一人の女性として扱うよう努めていたが、家族の女性を一人前に扱うという枠を超えることはない。初潮が来たと告げた時の慌てふためいた顔は今でも思い出すだけでおかしくて笑ってしまうけども。

 アルマとてシャマルの妻になりたいだとか、子を産みたいとは思っていなかったが、もう少し年頃の男女らしく接したかった。そんなことを彼に伝えようものならば、戸惑い、うろたえるだろう。或るいは兄妹なのだから現実をしっかりと見なさいと説教されたり、そういう年頃もあると思春期でもないのに知った顔をされそうだ。

 その中でも一番辛いのは距離を取って身構えられること。しかし、そうされることのが十分に予測できうるので、アルマは余計に口に出せなかった。そもそも、恋心というのは秘匿して、狩りの獲物のようにもっとも己が射やすい時にこそ弓を射かけるべきだ。それに、一矢放ったものが空振りだとして、たった一度きりの失敗で諦めるべきでもない。呪いのように自身に言い聞かせ、目を瞑った。

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