小部屋の砦

@dormantgomazoa

小部屋の砦

 人の息が薄まった日没間際のある校舎、ほどなく守衛がやってきそうな決まりの悪さを感じるころである。当番の鳥栖芹茄トリスセリナはこれで五度目か六度目になろうか、T字箒の毛先に絡まった綿ぼこりをちりとりの縁でこそげ落として、それでも頑固な塊は、意を決したふうに指で摘み取っていた。ひとたび手をつけたからには、どこまで綺麗にしたものか線引きしかねている様子で、神経質っぽいきらいでめぼしい塊を除いたあともちまちま続けて、その都度、毛先の具合は完璧に迫ろうとしていた。彼女はひと抱えほどの掃除用具をまとめて踊り場のロッカーに押し遣り、音響管のような校舎に端整に響き渡るチャイムを聞きつけると、踵を履き潰した上履きでぱたぱたと図書室に引き返した。図書室では同じ当番の沼澤鮎美ヌマサワアユミが、貸出カウンターの内側で、職員室で使われている椅子と同じタイプの事務椅子に、気持ち遠慮がちに(その実、ただ座高と腕幅の兼ねあいで)浅めに坐り、パソコンを動かすことが許されていた。ゆるやかな厚みのチュニックを着ているが、ひと目で痩せた体つきだと分かる娘で、キーボードを打鍵する指先の頼りなさが袖口で際立っていた。Windows95の正常なシャットダウンを確認して、モニタの電源を落とし、いま、ブラウン管に溜まった静電気を掌でぞわぞわさせていたところだった。廊下に出ていた鳥栖が、出て行く前よりもいくらかあからさまになった仏頂面を引っ提げて、図書室に引き返してきた。鳥栖芹茄と沼澤鮎美はお互い五年生になるクラスメイトだが、二年生のころから四期連続で図書委員会に在籍し、学校生活上のそのような延長線上で経験を共通させてきた、頭ひとつ抜けたクラスメイトでもあった。毎週水曜日にはこのふたりが掃除当番に就いて、放課後に居残りで、開架の棚を「技術・家庭」欄まで曝書した。帯出票を整頓した。返却期日が過ぎた利用者をリストアップして、放送委員に読ませる督促状も書いたし、破損本の修繕だって恙なく済ませた。それから自分たちのランドセルに新しくブッカーをかけたばかりの本を数冊しまって、これから帰宅するところだった。鳥栖が入り口のところにある水道で、これ見よがしに手を洗っているのを受けて、沼澤としては、中断していた話題を蒸し返すべきなのか、とにかくなにか声をかけようとして、どんどん開いていく間がそれらしい意味を持つような言葉を選んでいるあいだに、鳥栖のほうから口を開いた。

「あたしがとやかく言われる筋合いはないんだからね」鳥栖は、水を撥ねさすまいとしているのに、それでも過剰に擦りあわせている小規模な手つきが、わざと火種を大きくしている感じだった。「捜せるところはみんな捜したんだ。とやかく言われて堪りますか。馬鹿ばかしい」

「そうよね」沼澤は予め構えた口のままで答えた。「私だったらとやかく言わないわ。本当に。ところでいま何時になるかしら? 電源を落とす前に確認するべきだったなあ」

「あたし、鮎美専属の時間係じゃないわよ。壁の時計があるでしょ」そう言って一瞥すらくれずに、鳥栖の視線はさっきから手の中で握り締めた石鹸ネットにあった。「これもうちょびっとしかないわよ。あとで替えをもらわなくちゃ」

「ねえ鳥栖ったら。私、すっかり目疲れしちゃってるのよ。私鳥目だから、この時間帯になると、西日の具合で目が通らないんだな。ちょっと後ろ振り向いて、確かめてみてよ」

 沼澤鮎美は、しばしば稔りのないことで鳥栖のことをこき使わすような真似をするけれど、それが他のクラスメイトに対しては控え目な態度ばかりとっている彼女の油断からきた甘えだと鳥栖に認識されているうちは、体よく彼女たちの承認欲求を満たすための儀式として機能していた。

 鳥栖は、爪の隙間から指の股座まですっかり洗い終えて、ハンカチで水気を落としていた。タオル地のハンカチで、これは使い終わると必ずジーンズの後ろの、左側のポケットにしまわれた。右のポケットにはビーズで刺繍が施されているから、ハンカチを畳むと、厚みで膨らんでみっともないのだ。

 意地悪な間の使い方で憂さを晴らした彼女は、それでもまだもったいぶった感じで、後ろを振り返った。

「六時きっかし」

「もうそんな時間になるの?」

「なりますとも」

「嫌だわ。塾の時間に間にあうかしら。いつも飽き飽きするほどバス停で待たされるから、どれだけかかるのかさっぱりだわ」沼澤はランドセルの蓋を開いて、蓋の裏に硬いビニールで挟んだ時間割の細かい書きつけを睨んだ。そして鳥栖を見やると、鳥栖は冴えない顔で、折り畳みの長机の傍で体を揺すって、スチール製の脚をギイギイ鳴らしていた。「誰もとやかくなんて言わないわよ」沼澤は言った。「気にしたからって、なんの得になるっていうのよ。どっちみち、あの子が告げ口するかしないか、二つに一つでしょ。気にしたところではじまらないわ」

「気にしてるわけじゃないよ」と、鳥栖は言い返した。「とやかく言われて堪るもんか。ただね、あの子に棚じゅうをあんな猫みたいに引っ掻き回されたんじゃ、頭がどうにかなっちゃうよ。てんで協調性がないんだもの。旗色が悪いとすぐ黙りこくってさ、まるであたしたちが虐めてるみたいな顔するじゃないか」

「とにかく、私ならとやかく言いませんから」

「あの子の傍じゃ、いちいち気を遣って物を言わなきゃなんないんだよ」と、鳥栖が言った。「本当に頭がどうにかなっちゃいそう」

「次のバスまで二〇分あるわ、これ」と、沼澤が言った。「でも、堪んないわよね。いちいち気を遣って物を言わなきゃいけないなんて。お金持ちのお嬢様だかなんだか知らないけどさ」

「そうよ! 頭がどうにかなっちゃうよ。放課後の半分はあたし、頭が半分おかしくなってんの」鳥栖は上気した顔を扇ぐような仕草を見せると、腹立たしげに鼻を鳴らした。「たかが八歳のがきんちょによ!」

「Sizunoってスポーツブランドの娘らしいけどね、あの子」と、沼澤は言った。「運動部の備品が寄付金で一新したんだとか」

 鳥栖はもう一度腹立たしそうな鼻息を漏らした。「そのうち親を笠に着て態度も横柄になるさ」そう言って彼女は、無造作に自分のランドセルを引き寄せて膝の上で抱えた。「大体こんなしょぼくれた図書室なんかにどうしていつまでも入り浸るもんかね。本なんてそれこそ腐るほど買えるだろうにさ。お金持ちの考えることはあたしにはさっぱりだよ」鳥栖はランドセルのひび割れた革をちぎりながら苛立たしげに言った。「自分の書斎ってものに憧れるなあ。嘘じゃないよ。私の家なんて襖で筒抜けなんだから」そう言って彼女は沼澤を憎らしそうに見やった。「鮎美はいいだろうさ。家に帰れば自分の部屋があって。自分のテレビもあるし、近くにおっきな図書館があるんだもん。鮎美は平気だよ」

「さ、遅刻しようがしまいが塾には行かなくっちゃね」沼澤は日の暮れかけた窓の外に目蓋をすぼめながらそう言った。

「鮎美があたしの立場だったらどうする?」出し抜けに鳥栖が聞いた。「ねえ、どうする、鮎美だったら。本当のとこ聞かしてよ」

 それは鮎美にとっては願ってもないような相談、言わばマリーマグダーレンのドレスを着ろと言われたようなもので、早速目頭を摘まんで難しい顔をすると彼女は「そうね、まず第一に」と話しだした。「私ならとやかく言われようが気にかけたりしない。私だったら、まず、やったことをひとつずつ順番に――」

「あたしだって気にしてなんかいないってば」鳥栖が口を挟んだ。

「そりゃ分かってますけど、でも私だったら、さっさと正直に――」


 図書室のドアがスライドして、この学校の生徒である鈴花日和スズカヒヨリが室内に入ってきた。まだ八歳のひと回りもふた回りも背の低い少女で、肩口で切り揃えた黒髪が根っからの癖っ毛で末広がりになっている。そしてニーレングスのレギンスに薄ピンクのオーバーサイズのカットソー、スニーカーソックスに上履きという出で立ちである。その柄もプリントもないシンプルな服の趣味はともかく、変に落ち着き払った物腰は歳相応の背伸びした感じということにもなるけれど、真っ直ぐな瞳は地の底で押し固められた宝石のような輝きを感じさせて永遠に忘れ難く、その点からすれば彼女はまさに長い時間を自らの情熱と連れ添ってきたということになる。彼女は後ろ手に図書室のドアを閉めて、カウンターの様子を窺うみたいに距離を詰めてつま先立ちになると、入り口からは本棚で陰になっていた鳥栖の姿が視界に入って、そのまま軽い会釈をして踵を床につけた。鳥栖と沼澤はどちらも黙り込んでいた。沼澤がおもむろに椅子から腰を浮かせた。

「沼澤さん」

「それで、どんな塩梅だった?」

「下駄箱に靴がなかったから、職員室で電話を借りて、家のほうに当たってみたんです。家政婦さんによると、お嬢様はもうお帰りだそうで」

「あらまあ。ランドセルも置きっぱなしで?」

「もともとそんなに必要ないんです。二年生の授業って木曜日は四限までだし。教科もふたつ被ってて。教室のロッカーに置いてく子もいますよ。本当はいけないけど」

「だからって図書室に置いてかれても私たちが迷惑なんですけどね」鳥栖がさも重要そうにそう付言した。

「だから私が代わりに預かって、家に届けるんです。そう家政婦さんには電話しました」

「なんだか悪いわね。鈴花さんに押しつけちゃったみたいで」沼澤が申し訳なさそうに言った。

「とんでもない!」鈴花は胸の前で二つの掌を振った。「家が近いんだから、沼澤さんたちが押しつけてるわけじゃないですよ。ただの成り行きですから」

「それにしてもいつの間に帰っちゃったのかしらね。ずっとここにいたけれど、全然気づかなかったわよ」

「どうせ準備室の窓から出たのよ。廊下側は閉架の棚が邪魔で開かずのドアなんだから、それしかないでしょ。私たちとは顔もあわせたくないって魂胆さ」

「二階ですよ? 無茶苦茶よ」

「防球ネットがあるわ。すぐ無茶苦茶やるのよ。ああいう子はね。迷惑なこった」鳥栖がはじめて鈴花のほうに向き直って聞いた。「そいで、あの子は電話口でなんて言ってたわけなの? そこんとこ聞いておかないと話にもなんないわ」

 鈴花は、カウンターの上で組んでいた腕の間に顎をうずめた。そして唇を皮膚に当てたまま、事実を伝えるだけの淡々とした口調で言った。「さあ。家政婦さんが言うには、本人はいま、部屋に閉じこもってるそうです。あの子は幼稚園のころから自分の部屋に閉じこもるのが好きなんです。鍵がかからないと駄目みたいで、駄菓子屋さんのガチャガチャで出てくる小さな南京錠で、自分のノートも全部閉じちゃうの」

「結構な秘密主義ですこと!」鳥栖が鼻で笑った。

「とにかくだいぶ先輩たちをお待たせしちゃったみたいで、ごめんなさい。守衛さんには私が残って事情を説明することになりました。職員室には寄らなくてもいいそうです」

 鈴花がそう言うと、鳥栖はバネが弾んだみたいにお尻で長机を蹴って、ランドセルのベルトを肘に引っかけ、遠心力をかけて軽快に背中側に回した。「さあ鮎美も、もうおみこし上げないとバスに遅れるわよ」

 鈴花は廊下まで顔を出して、ふたりが踊り場の角を曲がるのを見届けた。


 図書室から図書準備室に繋がる内扉をこちらから開けるための鍵を持っているのが、どうやら中にいる静野雫シズノシズクらしいことまでは鈴花にも分かっていた。すっかり日が落ちてしまった真っ暗な図書室の中で、ドアの鍵を内側からかけて守衛をやり過ごした鈴花は、この小部屋の砦を破るのに、わざわざ霊基隷属してまで形而側面から直接このちゃちなシリンダー錠の撥ねピンを押し上げてしまうことも考えたけれど、いざ自分の存在主軸を推移させて扉の前に立ってみると、確かに複雑なバリケードが何重にも塗り固められてはいるものの、放し飼いの猫だけがいつでも自由に出入りできるようなわざとらしい意識の隙間がちょうど開いているのを彼女は見つけた。きっとあの丘を越えて木蔭の穴に潜っていくときにはこんな気分になるのだ。鈴花はその場にしゃがんで、その抜け道を通り抜けた。の寝床のように細長い準備室では、両脇に並んだ棚じゅうの本を引っ繰り返して、床に堆く本を積み上げた城塞に守られるようにして、静野が身じろぎもせずに床に坐り込んでいた。左手には常備灯の懐中電灯、右手で膝の上に載せた本のページを捲っていた。鈴花は静野の様子をしばらく見守っていようと思ったが、じきに焦点がぼやけ、時間軸がずれていく。残留思念が特に濃いわけではないけれど、それでもそれなりに歴史の積もった小部屋だから、静野にしろ山積みの本にしろ、ほんの一瞬の中にあるものの姿は、巻き忘れたフィルムのように重なって見えるのである。二、三分して鈴花は見るのを諦め、霊基隷属から離れて、物理側面に存在主軸を振り直した。ひとつしかない窓には年がら年じゅう暗幕がかけられているけれど、霊感に頼らずとも懐中電灯の僅かな光を拾って夜に慣れた目が静野の横顔から離れなかった。鈴花は「遠き山に日は落ちて」を歯笛に吹きながら近づいていったが、本のすぐ傍まで来ると、顔には出さずとも、静野が肩をこわばらせるのが分かったから、自分も棚と棚の隙間に挟まるように床に坐った。静野は頑なに振り向かなかった。

「おーい」と鈴花は言った。「引きこもりの仔猫ちゃん。赤の女王陛下は、そんなにのどをごろごろ鳴らしてはなりません」

 それでも静野は本を捲るのをやめずにいたけれど、急に彼女の鼻に、間の悪いくしゃみが立て続けに三つも襲来した。

「なんで」と静野は鼻声で言った。「勝手に入らないで」

「だって開いてたんだもん」

「嘘だあ。鍵かけたのに」

 静野はまだ鼻をずるずるいわせていた。物を言うときの息継ぎがずれて、強調する言葉の調子が変な山なりを描いた。

「私はね」鈴花はそこでひと区切り置いた。静野が鼻をかんだからだ。彼女が鼻をかむのを待ってから、鈴花は続けた。「私は今日まで、自分の人生であまりに多くの時間を、夏への扉を探す猫のためにドアを開けたり閉めたりすることに消費してきたんだよ」

「私は箱入り娘だもん」

「静野ちゃんが箱入り娘だって、誰がきみに言ったの?」

 静野がなにか答えたが、よく聞こえなかった。

「誰だって?」と鈴花は言った。

「パパだよ」

 鈴花は体操坐りのまま膝の裏に両腕を入れて太腿を体に引き寄せた。膝小僧に顎を載せて「きみのパパはなかなかいいやつだ」と言った。「しかし、あんなに年頃の娘たちの闊達さに無頓着な男も珍しいよ。私たちのようなちび猫がいつまでも車窓の窓枠に本を嵌めて旅気分を味わってるだけだと思ったら大間違いなんだから」

「私はちび猫じゃない」と静野が言った。

「いまなんて?」

「私はちび猫じゃない。猫みたいにかわいいのも、強いのも、いつだってひよりちゃんだけじゃないか」

 ちょっと沈黙が落ちた。その沈黙の間を塞ぐように静野は読んでいた本をぱたんと閉じて城壁の一番上に積み、新たな背表紙を選んでいる。その琴線を張って文字を追いかける真剣な横顔を、鈴花は複雑な気持で目蓋に焼きつけた。

「私をクラスの人気者だと思ってる者は大勢おるがね」鈴花は目蓋の奥に静野を見ながら言った。「それは私が人におべっか振り撒かなければすぐにそっぽ向かれちゃうような、いつも誰かに生かされてる身の上だからだよ」彼女は体の平衡を保ちながら空中に脚を伸ばした。「私なんてお尻も胸もぺちゃんこなのに自意識だけが膨れ上がっただけで、こんなのはあと五年、十年すれば誰にでもできる額のおできなんだ。本当に将来、人から羨望されるようなキラキラした才能じゃないんだよ」そう言うと彼女は、脚が地面に落ちる勢いで立ち上がり、不自然なほど両腕を前に伸ばして、右手と左手の指先を互いにくっつけたまま、人差し指だけ折り曲げて、それを自分の胸許に持ってきた。それからその独特の印形に付与された意味合いを霊基隷属させると、空中のチリが瞬いて星型の淡い光が浮かんだ。途端に静野は顔を上げた。おそらくこんなところでいきなり「ジェリクル・キャッツ」に変身するはずはないと承知の上に違いないが、それでも近くに竜鼠が現れたのかと思って思わず身構えた。鈴花は、胸許の輝条を暗闇に振り撒き、形而側面からグリッドを与えられた霞網のような空間に指先を踊らせて、重力勾配を綿飴みたいに絡め取っていく。そして指先に収斂したほんのり暖かい銀河の渦を、そっと静野の手許に落とした。静野はそれを掌で掬おうとしたけれど、ゆっくりと落ちてくるその力場は鈴花の体を離れた瞬間から物理的な後ろ盾をなくして現実感の中に吸い込まれるように消えていった。鈴花はちらと静野の顔を覗いた。静野はまだ口を開けたままだ。しばらくその輝きの残滓を暗闇の最奥に見ていた。「今のはジュエリー・クルーじゃなきゃ見ることのできない秘密の宝石なんだ」鈴花はそう言うと、芝居がかった仕草で、力を使い果たしたみたいにへなへなと体の芯を抜き、服が汚れるのも構わずに床に寝そべって、静野の顔を見上げた。

「今の、もう一遍やって」

「とんでもない」

「なんで?」

 鈴花は半身で肩をすくめた。「だって宇宙検閲官がその辺にうようよしてるから」そう言いながら彼女は姿勢を変えると、ビーチサイドにいるみたいに両腕を枕にして俯せになった。そしてバタ足の要領で、膝から下を交互に上下させた。「でも、こういうことにしよう」彼女は事務の打ちあわせでもするみたいなさりげなさで言った。「きみがなぜ頑なに籠城するのか、そのわけを聞かせてくれたら、私は持ってるだけのジェリクルの宝石をみんな見せたげる。いい?」

 途端に静野は俯いて視線を膝許に戻し、「駄目」と言った。

「どうして?」

「だって」

「だって、どうしたの?」

「だって、嫌だもん」静野はそう言って、その嫌さを強調するように新しい本を引っ掴んで、膝の上で開いた。


 鈴花は右手を翳して懐中電灯の光を遮った。「きみはもう引きこもりはやめたって、そう私に言ったじゃないか」と彼女は言った。「ふたりで話しあって、それからきみは、引きこもりはやめたって、そう言ったでしょ。私と約束したじゃない」

 静野は返事をしたが、それは唇を震わすには至らなかった。

「なあに?」と鈴花は言った。

「約束なんかしないもん」

「あら、しましたよ。絶対した」

 静野は懐中電灯の角度を調整して、鈴花の顔がちらつかないようにした。そして、「私がもし野良猫なら、ずっとひよりちゃんの傍にいられるの?」と言った。

「野良猫の厳しい掟を知りたい?」鈴花はそう言うと、そろりそろりと匍匐前進で城の中に分け入ろうとした。

「入っちゃ駄目」と静野は言った。しかし上ずった声ではなく、目は手許の本に釘づけである。「誰も入っちゃ駄目だから」

「駄目なの?」鈴花は既に頭が領土を跨いでいたが、彼女はおとなしく腕を伸ばす力で後ろずさりながら、「どんな人でも絶対駄目?」と言った。彼女は体を起こして膝立ちの姿勢で、「なんで?」と尋ねた。

 それに対して静野はちゃんと答えたが、またしても唇にかからない。

「いまなんて?」と鈴花が尋ねた。

「いけないことになってるから」

 鈴花はじっと静野の横顔に意識を注ぎながら、たっぷり一分間も口を開かなかった。

「残念だなあ」しまいに彼女はそう言った。「きみと一緒に本が読みたくて堪んないんだけどなあ。きみがいないと淋しいんだもん。おんなじ本を読んで、ひと晩じゅう語りあかせる話し相手もなくて」

「鮎美ちゃんと話ができるじゃないか」

「沼澤さんは忙しいでしょ」と鈴花は言った。「とにかく沼澤さんとは話したくないの、きみと話したいのよ。きみの隣で、きみと話がしたいの」

「そっからだって話せるよ」

「なあに?」

「そこからだって話せる」

「ううん、話せない。距離が遠くて駄目だよ。もっと傍に行かなくちゃ」

 静野は本の山をぐいとずらした。そして、「誰も入れたげない」と言った。

「ええ?」

「誰も入れたげないんだもん」

「じゃあ、いいよ、そこから言ってくれない、どうしてきみが引きこもるのか? もうやめたって、あんなに私と約束したのに」

 静野が開いたページの喉許に色鮮やかな桔梗の押し花が挟まっていたが、静野は、鈴花に答える代わりにその栞を剥がすと、いらないスリップでも扱うみたいにくしゃくしゃに握り締めて部屋の奥に投げた。

「偉いもんだ。気の利いたことやるじゃない?」と鈴花は言った。「それうちのパパが寄贈した本なんだ。昔、パパの書斎で読んだな」鈴花は額にひさしを立てた。「あれじゃ、邦に帰ってお湯に入っても、もとの通りにはなるまい」

「構うもんか」

「そう、そう。構うもんですかねえ」と鈴花は言った。部屋の奥の暗闇を見ていたはずが、いつの間にか目蓋が垂れ下がり、半ば薄目で目蓋の裏の輪郭を見ていた。それから、折り畳まれた空間のポケットから棒状のなにかを掴んで引き寄せた。ターコイズ調に染色されたレジン製ボディからミッドナイトブルーのインクが漏れていて、彼女の指を染めつけている。「これ、万年筆。貸出カウンターの抽斗にあったの」こちらを振り向いた静野の懐中電灯と視線を感じながら鈴花は言った。「私のとお揃い。でも、私のよりもずっと嘴が摩耗して開いてる。それに誰かが踏んづけて液漏れしてる」

 静野は本を閉じ、坐ったまま身を乗り出した。そして両手を伸ばして受け取る構えをしながら、「それ頂戴」と言った。「ねえ」

「ちょっと待ってよね、きみ。少し考えてみなくっちゃ。壊れちゃったんだから、このまま捨てたほうがいいんじゃないかな、この万年筆」

 静野は口を開けてじっと鈴花を見上げていたが、その口を閉じると、「それ、まだ壊れてないもん」と言った。が、正当性を主張する語気は次第に弱まってきていた。

 鈴花は静野を見据えながら肩をすくめて、「構うもんか」と言った。

 静野は鈴花を注視しながらゆっくりと身じろいだ。が、鈴花が予期した通り、その目には反撥の色は見えなかった。鈴花は膝立ちのまま膝頭を突いて歩み寄り、垣根越しに右腕を伸ばした。

「はい」そう言って鈴花は万年筆を静野の膝のあいだに置いてやった。

 静野は床の上の万年筆を眺め、手に取ってまた眺め、それからそれを、ぽいと横ざまに床に放り投げた。そしてすかさず鈴花の顔を見上げた。その目には反撥の色ならぬ涙がいっぱいに溢れていた。次の瞬間、口が八の字を横にしたような形に歪んだと思うと、彼女は激しく泣き出していた。

 鈴花は、重い門扉を引きずるドアマンのように本の山をずらすと、そろそろとお城の中に進んだ。そして間もなく静野の隣に坐った彼女は、お姫様の頭を自分の肩に抱き寄せると、ゆすりながらつむじに接吻しいしい勇敢な野良猫の教えにかこつけてこう言った。「誇り高き野良猫は泣かないのよ、絶対に泣かないの。だって悲しくて辛くて絶望しちゃうのはいつだって愚か者が出す答えなんだから――」

「鮎美ちゃんがね――私にね――芹茄ちゃんのことを――あんなのは、うるさくて、教養のない、端女だって――そう言ったの」

 鈴花は、ほんの分かるか分からぬぐらいの怯みを見せたけれど、静野の顔を上げさせて額にかかった髪を掻き上げてやった。「そう、そんなこと言ったの?」と彼女は言った。

 静野はそれを強調するように力を入れて頷いた。そして泣きやまぬままに鈴花の胸に顔をうずめた。

「でもね、それはそう大したことじゃないよ」鈴花は静野の頭を両腕と頬できつく抱き締めながら言った。「世の中にはもっとひどいことだってあるんだから」それから彼女は静野の髪を撫で、「ねえ雫、端女ってなんのことだか分かる?」

 静野はすぐには口を利く気がしなかったのか、それとも利けなかったのか、いずれにしても彼女は、涙のあとのしゃくり上げが少し治まるまで待って、それから温かい鈴花の胸許に唇を押しつけながら答えた。それはこもった声だったけれど、言葉はとにかく聞き取れた。「家政婦さんのことだよ。いつも私のお世話をしてくれる」と、彼女は言った。「優しいんだよ」

 鈴花は静野の顔が見えるように、抱きついている彼女の体を少し引き離した。それから彼女の涙で濡れた頬を、インクのついたほうの親指で乱暴に擦ったので静野は少なからず嫌がったが、鈴花はすぐにその手を引っ込めて、また静野の頭を抱き寄せた。「ねえ、こうしようよ」と彼女は言った。「家政婦さんに頼んで、お泊まりの準備をするの。雫の部屋で、おんなじ蒲団を被って、ひと晩じゅうベッドの中を旅してさ。それから朝になったら、私たちの冒険譚を本にするの。私の持ってる万年筆で、雫が書くんだよ。分かった?」

「分かった」と、静野は言った。

 ふたりは家に帰らなかった――歩いては。こっそりワープしたから。一緒のベッドで、手を繫いで寝た。

(Around at the Kitty)

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