第13話 笑顔だぞ

 翠の体温、彼女の柔らかさを感じると決意が揺らぐ。

 で、でも。俺は君を失いたくはないんだ。

 

「翠」

「どうしたの?」


 俺の肩へ顔を乗せる翠。

 フワリと彼女の髪の毛からいい香りが漂ってくる。

 

「俺としばらく会わない方がいい」

「また、そんなこと言ってえ」


 口に出すだけで、ぎゅううっと胸が締め付けられる思いだ。

 翠は冗談だとでも思っているのか、いつものような明るい口調で言葉を返してきた。


「いや、真剣なんだ」

「どうして……そんなこと?」


 翠の声色が変わる。

 怒りや悲しみより、茫然としたと表現すればいいのか。

 予想していたことだけど……俺はもう彼女と目を合わせられないくらいの気持ちになってしまって、拳を握りしめ目を瞑る。

 

「翠だって分かっているだろ? 俺は翠に……消えて欲しくないんだよ!」

「わたしが消えるかもしれない……そんなこと。最初に眠った時から分かっていたよ?」


 俺が翠がこのままだと消えてしまうかもしれない。彼女が消えてしまうと確信したのは彼女が二度目に寝た時だ。

 その時には既に翠は自分がこのままだと消えてしまうと分かっていた。

 ならば何故。君は、俺に、今まで通り、いやそれ以上に、朗らかで親しげに、それに――。

 『大好きだよ』なんて言うんだよ!

 

「このまま俺といると、君はもう……」

「九十九くんは全然、分かってないよ……」


 翠は俺の背中から離れ、立ち上がる。つられて俺も立ち上がり、彼女と向かい合う。

 

 彼女は目から大粒の涙をぽろぽろと流し、それを拭おうともせず俺をじっと見つめていた。

 

「翠」

「九十九くん、どうして……どうして……」


 彼女の涙が頬を伝い、そのまま畳みを濡らす。

 そんな彼女を前にして尚、俺は立ち尽くしたまま彼女に触れようともしなかった。


「俺はただ、君と……君に」

「もういい! 九十九くんなんか知らないもん!」


 翠はかぶりを振り、障子をスルリとすり抜けて外へ出て行ってしまう。


「翠……」


 一人残された俺はその場でガクリと腰を落とし、畳に手をつく。

 

「これで……よかったんだ……」


 それなのになぜ、俺の目からとめどなく涙が流れて来るんだ。

 いや、これで翠は消えないで済む。

 時を開けて、気持ちが落ち着き、俺への思いも薄れる頃……そうだな、冬にでもまた……。

 

 翠の消えていった障子へ目を移すと、彼女とのこれまでの思い出が頭に浮かんで来る。

 石碑でも海でも、ただの道でさえ彼女は「楽しい楽しい」と言っていたなあ。俺へは消えることに対する不安など微塵も見せずに、いつも笑顔で。

 すぐに眠たくなって、起きて……また眠たくなるかもしれない。今度こそ消えるかもしれないって、俺なら不安で仕方ないよ。

 

 その時俺はガツンとハンマーで頭を叩かれたようにハッとなる。


「違う。違うだろ。俺」


 バカだ。俺はなんて愚かなんだ!

 翠が不安じゃないわけないだろ。彼女はきっと俺へ泣き言の一つくらい言いたかったはずだ。縋りつきたかったはずだ。

 じゃあ、何でしなかったんだ?

 俺は自分のことしか考えてなかった。

 彼女に消えて欲しくない。その思いはなんて独りよがりで……翠のことをないがしろにした思いだったのか。

 やっと分かった。今更だけど。

 

 翠は「今を」次の瞬間に消えてしまったとしても……。

 俺と精一杯、好きな思いを伝えたい。

 楽しく過ごしたい。

 だから、悲しい顔は見せない。

 思い出してみろ。彼女の涙を見たのは、さっきのを含めてたった二度だけだ。

 一度目はまだ彼女の気持ちは俺には向いていなかった時だった。

 

「翠。ごめん……」


 俺も君へ好きだと伝えたい。もう迷わないから。

 君を、君へ、全部、俺の思いを。そして、君の思いを聞きたい。

 

「翠。すぐに行く! 待っててくれ」


 障子に向かってそう呟き、リュックを背負い自室を出る。

 

 ◆◆◆

 

 外に出ると、祭りの喧騒はすっかりおさまりシーンと静まり帰っていた。

 満月の明かりが道を照らし、俺は迷わず走る。

 

 山の入り口まで駆けた俺は、そのまま休まず山道へ入った。

 脇道を進み、石でできた鳥居をくぐる。

 

「翠!」


 左右を見渡しながら、力一杯叫ぶ。

 きっとここにいるはず。

 

 確信を持って本堂まで進むと、さい銭箱の前にある段差の上に座る翠が目に入る。

 

「九十九くん!」

「ごめん。翠。ごめん」

「九十九くん、『ごめんね』じゃなくて」

「だな。翠、待っててくれてありがとう」

「どういたしまして!」


 翠は立ち上がると俺の胸に飛び込んでくる。


「そうはいくか」

 

 ひらりと翠の突進を躱す俺。

 我ながらなんて軽やかな動きなんだ。

 

「もうー」


 翠の顔が曇る。彼女が消えることを恐れる俺を思い出したのだろう。

 だが、違う。

 

「翠」

「ん?」


 彼女の名を呼び、気を引いたところで後ろに回り込みギュッと抱きしめた。

 

「こうしたかった。俺から君を抱きしめたかった」

「九十九くん。わたしもキミにこうして欲しかったよ?」

「ごめ……いや、俺流の焦らしプレイってやつだよ。ははは。待った方がより一層、気持ちが昂るだろ?」

「九十九くん、それは無理があるよ? なんでも気障っぽくすればいいってもんじゃ」


 そのセリフ……どっかで聞いたな。あ、俺が言ったことを真似したんだ。「なんでもえっちって言えばいいってもんじゃない」ってやつを。

 

「でも、後ろからなんだあ」


 翠は不満そうな声を出す。

 そう言いつつも彼女は俺の手に自分の手を重ね、首を後ろへ傾け俺の顔を見ようと背伸びする。

 しかし、真後ろに立つ俺を見ることは叶わない。

 

 そんな彼女の様子にクスリと小さく笑い声を出し、彼女の肩をつかみくるりと体を回した。

 肩から彼女の腰へ腕を動かし、ギュッと力を込める。

 一方の翠は頬を染めつつも、俺の背中へ腕を回す。

 

「翠」

「九十九くん」


 息がかかるような距離でお互いに見つめ合う。

 

「翠、俺は君が大好きだ」


 やっと伝えることができた言葉。

 伝えたかった言葉。

 

「九十九くん、わたしもキミが大好きだよ!」


 翠の手に力が籠る。

 しばらくそのまま抱き合い、翠は俺の胸の顔を埋める。

 対する俺は彼女の頭をそっと撫でた。

 

 その時ふと、彼女が顔をあげ俺と目が合う。

 潤んだ瞳で見上げる彼女がとてつもなく可愛くて、愛おしくて。

 自然と彼女へ顔が近づいて行き、彼女も顎をんっとあげ……。

 

 彼女の額にキスをした。


「え、そこで、おでこなの? 九十九くん」

「指のお返しだ!」

「もうー。九十九くんの意地悪ー」

「あはは」

「えい」

 

 引き寄せられ、翠の唇が俺の唇に触れる。

 

「……っつ。嬉しい。嬉しいけど、俺からしようと思ってたのに」

「えへへ」

 

 はにかむ翠の口を自分の口で塞ぎ、彼女の背中へ手を回す。

 触れるだけのキス。

 しかし、口を話すと彼女は耳まで真っ赤になって、ぽおっと俺を真っ直ぐに見つめていた。

 

「そうだ。翠。花火をやらない? 持ってきたんだよ」

「うん! 覚えていてくれてたんだ」

「俺からやろうっていったんだしな。あの時」

「それでも、ちゃんと用意してくれる九十九くんであった」

「ははは。褒めていいぞ」

「おー、えらいえらい。苦しゅうないぞ」

「それ何か違う」


 リュックを降ろし、中から花火セットと子供用の小さなバケツを出す。

 

「いろいろ種類があるんだね。九十九くん」

「打ち上げ花火はやめとこうか。火事になると大ごとだし」


 持ってきたペンライトで花火セットを照らし、打ち上げ花火を除く。

 手持ち花火のうち一つを翠へ手渡し、俺も同じ物を持ってっと。

 

「翠。火をつけるから花火をあっちに向けてもらえるか?」

「うん!」


 よおっし、火を付けますか。

 あ。

 

「ごめん、先に水をバケツに入れとこう」

「はあい」


 お預けにされた翠は、不満などおくびにも出さず逆にニコニコと手に持った花火を興味深そうに見つめている。

 急いで水桶から水をバケツに入れて戻る。

 

「じゃあ、つけるぞお」

「おー」


 翠の持つ花火へ火をつける。

 最初はちょろっと光がともった程度だったが、すぐに綺麗な白色の火花があがりはじめた。

 俺は彼女の持つ花火から出る火へ自分の花火を当て火をつける。

 

「綺麗だねえ」

「うん、お、色が赤色になった」

「すごーい」


 しゃがんで肩を寄せ合い、二本の光の筋を二人で眺め頷き合う。

 

 三本目の手持ち花火までは普通に眺めていた。

 しかし、同じことをしていると感動も薄れ……。

 

「ちょ、翠。振り回すな。危ないって」

「え? 綺麗でしょー」

「こら、こっちに向けるな!」

「ごめんごめんー。あはは」


 翠は両手に花火を持って手を右へ左へと動かす。彼女の動きに合わせて花火の放つ光も移動し、幻想的に彼女を照らしてとてもソソるんだが……当たる当たるって。

 

「よおし、これで最後かな」

「これは知ってるよ。線香花火だよね」

「うん」


 線香花火の束をほどき、一本ずつ手に取る。

 

「可愛い」


 翠が歓声をあげた。

 線香花火は丸い光の玉を作り、そこからバチバチと小さな火花を散らす。

 儚くて、綺麗で、まるで翠のようだと俺はその時思った。

 

 僅かなオレンジの光に照らされた彼女の横顔はとても綺麗で、ずっと見ていたくなる。

 しかし――。

 

「翠。体が」

「気がついちゃったかあ。目ざといなあ。九十九くんは」


 先ほどまでオレンジの光を反射していた顔が……光が素通りしている。

 薄くなっているんだ。存在が。

 

 彼女は消えようとしている!

 

「翠!」

「九十九くん。もう触れられないね」

「そんなことないさ」


 翠の体を包み込むように抱く。

 触れるか触れないかのところで、彼女を覆うように。

 

「ありがとう。九十九くん」

「なんだよ。それを言うなら俺の方だよ」

「九十九くん、大好きだよ!」


 翠はひまわりのような満面の笑みを浮かべ首をかしげる。

 笑顔で見送ろう。彼女と同じように最高の笑みを浮かべて。

 

 触れたい。彼女へ触れたい。

 でも、今触れるときっと後悔するから我慢だ。

 きっと、彼女へ触れるとすり抜けてしまうから。

 

「翠。俺も君が大好きだ!」

「うん! 九十九くん、今まで楽しかったよ。とってもとっても!」

「違うだろ。翠。過去形はダメだ」

「そうだね! うん!」


 翠は、えへへと困ったように頭に手をやり舌を出す。

 その時、彼女の体が青白く光りを放ち始めた。

 

「翠。さよならは言わないぞ。また今度な!」

「うん! 九十九くん! また今度ね!」


 足元から翠が光の粒子になっていく。

 足、腰、胴と……光の粒子に……。

 

「愛してる」


 俺と翠の言葉が重なった時、彼女の姿は俺の胸に抱かれたまま、俺に光が吸い込まれるようにして完全に消え去ったのだった。

 

 そのままの姿勢でしばらく茫然と空を見上げていた俺は、何度もこみ上げてくる熱いものを飲み込み拳を握る。

 笑顔で見送ろうとさっき決めたじゃないか。泣いちゃあ駄目だろ?

 満月に照らされた夜空は、憎らしいほど美しかった。

 

 ◆◆◆

 

 ――翌朝。

 朝食の後、すぐに自転車へ乗った俺はコンビニを目指す。

 コンビニのある当たりに、目的の物を売っているお店がないかなあと思ってさ。

 

 んー。

 あるかもしれないけど、店が開いてないから分からん!

 仕方ない。

 

 引き返した俺は、山道に入る。

 途中で花を摘み束にして、神社まで到着した。

 

 水桶で手を清めてから、本堂の前に立つ。

 

「翠」


 賽銭箱の段差のところへ、花束を置いて手を合わせた。

 翠。今はどこにいるんだろう?

 きっと彼女のことだ。笑顔で、俺に手を振っているはずさ。

 

「うっ……」


 流しちゃいけないって決めてたのに、自然と涙がこぼれてくる。

 ごめん、翠。泣かないつもりだったのに。

 そう考えると、ますます涙が止まらなくなり、立ち尽くしたまま声をあげて……嗚咽が止まらなくなってしまった。


「ぐ、ぐう。情けない。翠は最後まで笑顔だっただろ! しっかりしろよ俺」


 水桶の裏手にある水栓から水を出し、顔を洗う。

  

「翠。また明日来る! またな!」


 ◆◆◆

 

「こんにちはー!」


 おばあさんの店に入ると、やはり誰もいなかったんで奥へ向けて声を張り上げる。

 

「はいはい。いらっしゃい。あら、お兄さんじゃないか」


 すぐに奥から足音が響いてきて、引き戸が開くとおばあさんが顔を出す。


「今日は、ご報告へと思いまして」

「あらあら。翠ちゃんのことだね?」

「はい」

「お茶でも飲みながら、聞かせておくれ」

「お邪魔します!」


 おばあさんに奥へ導かれ、縁側へ二人並んで座る。

 

 饅頭と麦茶をいただきながら、翠が成仏しただろうことをおばあさんへ報告した。

 おばあさんは要領の得ないだろう俺の話を静かに聞いてくれて、うんうんと時折相槌を打ってくれる。

 

「そうだったのかい。翠ちゃんはきっと幸せだったよ。お兄さんと出会えてね」

「俺の方が……彼女から沢山の幸せをもらってるんです」

「そうかいそうかい。お熱いことだねえ」

「……否定はしません……」


 苦笑いして、お茶をすすり饅頭の残りを口に放り込む。

 

「お兄さん、また島へおいでよ」

「はい。必ずまた来ます」

 

 帰り際におばあさんがそんな嬉しいことを言ってくれたので、俺は力一杯頷き返したのだった。

 

 ◆◆◆

 

 ――三日後。

 いよいよ帰る日になってしまった。

 あれから毎朝神社へ花束を置きにいっているが、結局泣かずに神社から立ち去れた日がなかったのは……俺の中だけの秘密にしておいて欲しい。

 我ながら情けない……。

 

 今日の午後三時に船が来る。それに乗り、俺は自分の家に帰るのだ。

 ここに来て本当に良かったと思う。

 

「おう、どうしたんだ? つくも。手が止まってるぞ」

「あ、いえ。ここに来てからのことを思い出していたんですよ」


 そうだ。今は留蔵と最後の昼食をとっている最中だった。

 箸とお茶碗を持ったまま止まっていたらしく、確かにそれは不気味だ……。

 

「そうかそうか。離島はどうだった? 何も無くて退屈しなかったか?」

「いえ。毎日がとても楽しかったです。冬休みにもまた来たいなあって」

「つくもは受験とかないのか?」

「余り考えてないんですよねえ。離島でこのまま住んでもいいかなあとかも考えてますけど……」

「んー。漁師はお前には向いてないと思うがなあ。離島にある仕事にどんなもんがあるか、まとめといてやろう」

「おお。ありがとうございます」


 やったぜ。

 少し勉強しないといけないけど、医療関係とかなら離島でも就職の宛があるかもしれないな。

 看護師とか医学療法士とかさ。専門学校で三年間頑張らないといけないけど……。

 

「つくも。俺も短い間だったけど、孫ができたみたいで楽しかったぞ」

「本当ですか? それは嬉しいです」

「あ、そうだ。つくも。ゲームが気に入ったんだろう? 持って帰るか?」

「え?」

 

 特にそれほど気に入ったわけでも……。


「夜遅くまで熱中してただろ? 俺は使わねえからいいぞ」

「いえ、ここに来た時の楽しみに、置いておいていいですか?」

「分かった」


 留蔵は嬉しそうに顔を綻ばせる。

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