第8話 石碑

 水車小屋の辺りで少しだけ水をかけあうつもりが、いつの間にか本格的になって……Tシャツがびしょ濡れに。

 といってもこのクソ暑い気候だから、すぐに乾くだろう。暑いし、体を冷やすのに丁度いい。

 この前川で転んだ時と違って、ズボンが完全に濡れているわけじゃあないしさ。上着だけなら、むしろ濡れていた方が熱中症にもよさそうだ。

 

 はしゃいでから少し休息した後、俺たちは湖を後にした。

 湖から三十分も行かないうちに石碑のところまで到着する。

 

「す、すげえ」

「こんなところから、海が見えるんだね! 九十九くん」

「だなあ!」


 石碑には「毎日を生きよ。あなたの人生が始まった時のように」とどこかで聞いたことのある名言が刻まれていた。

 大きさは一メートル半くらいで、余り目立つものではない。

 この場所は切り立った崖の上にあって、島の様子が一望できるのだ。落ちないように崖から数メートル手前に木製の柵があって、自殺を思いとどまる看板まである……。

 

 俺はスマホを構えて、この絶景を写真に収めた。

 本当は翠と並んで撮りたかったところだけど、映らないのだから仕方ないさ……。

 

「あ、スマホを。写真、撮るんだよね?」

「う、うん。しかし……」

「しかし?」

「電源が切れちゃった」

「九十九くん、しっかりしているように見えて、実は抜けてたりするのかなあ。意外だー」

「そ、そうかな。ははは」

「うーん。でも、約束したのにねえ?」

「ご、ごめんって」

「どうしようかなあ。お願い事聞いてくれたら許してあげる♪」


 にまあと人差し指を唇にあてた翠は、もう片方の手を腰にあて首を少し傾けた。

 な、なんだ。その小悪魔スタイル……。

 仕草が古いとか突っ込んだらだめだ。絶対。

 

「何だろう?」

「水着が欲しいなあ」

「もちろんですとも!」


 あ、つい。鼻息荒く言ってしまった。

 でも仕方ないじゃないか。よりによって水着なんだぞ。

 海には行こうと思っていたけど、まさか彼女が水着を着てくれるなんて。

 

「九十九くんのえっち!」

「そ、そんなことは」

「水着……着たことないんだ」

「……うん」


 お色気を妄想した自分をハンマーで殴りたい。


「水着なら、おばあさんのお店にあったかもしれない」

「うん! 九十九くんが選んでくれる? どんなのがいいのか分からないの」

「もちろんですとも!」


 あ、また。

 自分の底の浅さに辟易する。

 そうは言ってもだな、翠の水着は俺にとってとんでもない破壊力なんだぞ。コロリと気分が変わってしまうのも……。

 

「また変な顔してるー」

「あ、明日は水着を買って、海水浴に行こうよ」

「うん!」


 明日は海だあ。ひゃっほーいと流行る気持ちを抑えられないところだけど、今はこの絶景を楽しみたい。

 柵の傍にあるベンチに二人並んで腰掛け、しばらくの間、遠くに見える海を眺める。

 もっと見ていたいところだったけど、戻る時間も必要だし後ろ髪引かれる思いで帰ることにした。

  

 ◆◆◆

 

 山を下りた時には夕焼け空が終わり、まだ落ちきっていない太陽が残っている薄明りってところだった。

 海岸沿いの道は街灯が少ないこともあって、完全に日が落ちきると足元も覚束ないほど暗いくなってしまう。

 しかし、様々な光が海に反射しぼんやりと海岸線に夜景が広がっていて眺めは抜群だった。

 

 安全を考え、海岸沿いの道をガードレールへ触れるようにして歩いて行く。

 暗くなり視界が悪くなってくる俺に対し、翠はまるで気にした様子がない。

 

「翠、暗くても見えるの?」

「そんなことないよ。真っ暗だとなんにも見えないのは同じ!」

「じゃあ、もっと慎重に歩かないと」

「大丈夫だよ。わたし、ぶつかっても平気だもん」

「そ、そうか」


 翠は楽しそうにクルリとその場で一回転して、俺へ手を伸ばす。


「お、おっと」


 彼女の手を取ったはいいが、勢いのついた彼女の動きに引っ張られそうになってしまう。

 慌てて体を後ろに引き、倒れこもうとする彼女を引っ張り上げる。

 

「えへへー」

「危ないってば」

「九十九くん、力つよーい」

「そうでもないさ」


 まるで聞いちゃいねえな。

 夜道を歩くのも初めてに違いない。もし翠が生身だったら怪我してるかもしれないぞ。

 でも夏の屋外で夜って言えば。歩くだけじゃ勿体ない。


「翠」

「んん?」

「花火もやりたいな」

「ほんと! やりたーい」


 彼女はどんな些細なことであっても体全体で嬉しそうに満面の笑顔を向ける。

 それが少し物悲しくて、でもそれ以上に愛おしくて。

 ギュッと抱きしめたくなってしまう。

 いきなりガバッといったらただのセクハラだしなあ。悩ましいところだ。

 

 翠と一緒に歩いていたらあっという間に留蔵の家まで到着する。

 

「また明日な。翠」

「うん! すごく楽しかったよ! 九十九くん!」

「そうか。俺は翠よりも、もっと楽しかったかな」

「えええ。じゃあ、わたしはそれよりもっと!」

「ははは」

「えへへ」


 笑いあい、「またね」とお互いに言葉を交わす。

 明日はおばあさんのお店で待ち合わせとなった。

 

 家に入ると留蔵はすっかり出来上がっており、上機嫌で俺の背中をバシバシと叩く。

 夕飯をいただき、お風呂に入ってこの日は歩き続けた疲れからか布団に入るとすぐに意識が遠のいて行った。

 

 ◆◆◆

 

 八月二日になった。

 今日も朝は、留蔵のお手伝いからのスタートだ。

 実のところ、彼のお手伝いは毎日同じことをしていた。水やりと雑草抜きである。

 

「留蔵さん、雑草抜き、全部終わりました!」


 腰をさすりながら立ち上がり、畑にいる留蔵へ手を振る。

 

「おお! ありがとうな。つくも」

「いえ。これくらいしかできず」

「何言ってんだよ。お前が遊びに来てくれるだけでも、楽しいんだぜ。俺は息子も孫もいないからな! ガハハ」


 そんなわけで、お役御免となってしまった。

 他に手伝おうと申し出たんだけど、「もう大丈夫だ」しか言ってくれず。

 しかし、正直なところ留蔵の手伝いが無しになって、朝から遊ぶことができるのは嬉しい。

 

「じゃあ、留蔵さん。シャワー浴びてきます」

「あいよ。遅くなっても構わんからな。何かあれば電話をくれ」

「分かりました」


 昨日遅くなったことを俺が気にしているのとでも思ったのだろうか。ありがたいことに、留蔵はいつも俺に気を使ってくれる。

 人によっては過保護でうざったいと思うかもしれないけど、俺はぶっきらぼうな物言いでも気にかけてくれる留蔵に感謝しかない。


 汗を流して、着替えを済ましお昼を食べ出発だ。

 

 ◆◆◆

 

「こんにちはー」


 おばあさんのお店に入り、左右を見渡す。

 翠はいないなあ。


「おやおや、いらっしゃい。お兄さん」


 おばあさんが引き戸を開けて店に顔を出す。


「水着って置いてましたっけ?」

「翠ちゃんにかい?」


 頷きを返すと、おばあさんは「少し待ってなさい」と告げ引き戸を開けて奥へ戻って行く。

 戻ってきたおばあさんは手に水着を抱えていた。

 

「ほら。これでどうだい?」

「これは?」

「娘の若い時に使っていた水着だよ。翠ちゃん? どうだい?」

「あ、翠はここにはまだ」


 おばあさんから水着を受け取る。

 水着は淡いブルーの下地に白でカメのマークが入ったビキニだった。ビキニとセットでパレオワンピース? っていうのかな。こいつはビキニの上から着る邪魔なやつだ……。

 せっかくのビキニがこれを着ると隠れてしまうじゃないか。


 それにしても、翠は一体どうしたんだろう? てっきり先にお店に来ていると思ったんだけどなあ。

 翠に渡す水着を手に持ったまま、棚の裏手とかに隠れてたりしないかと探してみたけど……やはりいない。

 

「お兄さん、奥で翠ちゃんを待つかい?」

「お店のお邪魔になりませんか?」

「そんなことないさね。話し相手がいると楽しいから。こちらからお願いしたいくらいだよ」

「お言葉に甘えて、あがらせてもらいますね」

「じゃあ、縁側へ行こうかね」

「はい!」


 お店の奥に上がらせてもらい、この前来た縁側へ腰かける。

 今日もいい天気だから、洗濯ものがよく乾きそうだなあと物干し竿を眺めながら、お茶を入れに行ったおばあさんを待つ。

 

「お待たせ」


 お盆を預かり、床に置く。

 おばあさんはよっこらしょっと声を出して、座布団の上に腰かけた。

 

「いただきます」


 おはぎをパクリと口にいれモグモグ。冷たい麦茶をいただく。

 甘くておいしい。

 

「手作りですか?」

「そうだよ。一人だしねえ。暇なのさ」

「とても美味しいです!」

「そんな顔で食べてくれたら、嬉しいねえ。好きなだけ食べておくれよ」


 お言葉に甘えて、もう一個。もぐもぐ……やはりうまい!

 あれ、食べることで満足していたけど、おばあさんに何か話をしようと思っていたことが……あ。

 

「おばあさん。昔の……たぶん二十年くらいは前の話だと思うんですけど」

「うん?」

「車椅子に乗った淡雪のような肌をした高校生の女の子って覚えてますか?」

「車椅子……この島で老人以外となると……車椅子は珍しいねえ。ちょっとお待ちよ、思い出してみるからね」

「普段は凛とした美人系なんですけど、笑うと可愛い系っていうか。儚い感じではにかむんです」

「あ、ああ。抜けるような白い肌をした可愛らしい子。覚えているよ。確か、港前で熱中症になりかけていたんだ」

「お、おお」


 おばあさんは言葉を続ける。

 彼女はぐったりしている翠をお店まで連れて行って、水を飲ませた。すぐに暑さからの熱は抜けたんだけど、蒼白な顔で心配したそうだ。

 後から母親が来て、何度もおばあさんに頭を下げて。その時におばあさんは翠の母親から翠の心臓の病について聞き、病気が原因で顔色が悪いんだと知った。

 「こんなに若い子が」とおばあさんはその時思ったんだそうだ。

 しかし、病気のことなどおくびにも出さず、笑顔を見ぜる翠が何ともまあ可愛らしかったことと目を細めて語ってくれた。

 

「そうだったんですか……」

「確か。震災があった年の夏だったねえ」

「震災って……」

「お兄さんが産まれる前の話だよ。この辺はほとんど揺れなかったんだけど淡路島の方が大災害でね。そらもう毎日テレビで」


 俺も話だけは聞いたことがある。その震災は多くの人が亡くなったと。

 今から二十年以上前の話だ。

 でも、確かに生前の翠はそこにいた。このお店で水を飲み、おばあさんへあのこぼれるような笑顔を見せたんだ。

 

「おばあさん、ありがとう……ありがとう」

「どうしたんだい。突然また泣き出して」

「いえ、嬉しいんですよ。俺は。確かに彼女はここにいた」

「……あの子が翠ちゃんなのかい?」

「はい。おばあさんとここで会っていた。彼女の生きた証がここにあった。彼女は幻なんかじゃなかったんです」

「そうかい。そうかい。あの子だったら、あんたが惚れるのもわかるさねえ。好きなんだろう?」


 歳に似合わず軽快な仕草でおばあさんは「ほらほら」と言わんばかりに肘で俺の腹をつつく。

 

「……否定はしません……」

「そうかい。あの子はその年の秋に亡くなったんだよ。それ以来ずっとこの島にいるんだね。あの子は……」

「幽霊となって、二十年以上ってことですよね」

「未だあの子が幽霊をやっているのは、未練が残っているのかねえ」

「未練ですか……この世にやり残した未練があったら、お化けになるとか聞きますものね」

「何か満たされていないものが残っているんだろうね。あれほど健気でいい子はなかなかいないよ。お兄さん」


 満たされるかあ。満たされたら翠はどうなる?

 ……。

 

 俺は何となく察していたことだけど、改めて辛い事実を突きつけられ愕然と手を床につく。


「未練が無くなったら……やっぱり……ですよね」

「そうさね。それが幽霊にとっての幸せ……成仏ってことじゃないのかね」

「……」


 嫌だ。翠が消えてしまうなんて。

 分かってるよ。来年になれば、俺は翠と語り合うことができなくなる。

 それでも、彼女は見えないけど……島にいるじゃないか。

 でも、消えてしまったらもう二度と彼女を感じることはできない。

 わがままだって、俺の自分勝手な思いだって分かってるよ。

 でも、でも……。

 それでも俺は翠に消えて欲しくなんかないんだ。

 

 俺はどうすればいい?

 翠といたい。いたいんだけど……いや、まだ彼女が成仏してしまうって決まったわけじゃないし、俺と遊んだ程度で満たされるってのは傲慢な考え方だよな。

 

 うん。そうだ。そうに違いない。

 じゃあ、何で翠はここに来ていないんだ?

 

「おばあさん、ちょっと出ます。もし翠が来たら待っててもらってください」

「せわしない子だねえ。行っておいで」


 おばあさんは口ではそう言いつつも慈愛の籠った目で俺を見やる。

 

 翠、君はどこにいるんだ?

 立ち上がりお店の外に出た俺は、休むことなく駆ける。

 あそこにいるかもしれないと思って。

 

 ◆◆◆

 

 山道を進み、脇道に逸れると石の鳥居が見えて来た。

 

「翠! 翠!」


 叫ぶ。

 鳥居をくぐり、境内を見渡し本堂の裏手に回る。

 

 いない。


「翠! どこだ、どこにいるんだ?」


 左手に進み、川を見渡すがやはり翠の姿はない。

 まさか本当に消えてしまったのかだろうか。

 

 ひょっとしたら石碑のところか?

 昨日、彼女はとてもあの場所が気に入っていた。はしゃいで石碑のところまで行って足でもくじいてそのままとか。

 俺は幽霊である彼女が怪我なんてするわけないと理解しつつも、歩けなくなってうずくまっていると一縷の望みを託す。

 人が怪我していることを願うなんておかしな話だけど、そう考えることで何とか自分を奮い立たせ、また走る。

 

 息を切らせ立てなくなるほどに疲弊した俺は、石碑まで後少しのところで足がもつれて転んでしまった。


「何やってんだよ。俺! こんな時に」


 ペットボトルの水を肩からかぶり、足も水で冷やす。

 もう一本ペットボトルをリュックから出して、中のスポーツドリンクを一息に飲み干した。


「ふう……まだ行ける。いや行くんだ」


 そして、俺は走り出す。

 

 石碑のところにも翠はいなかった。

 崖を隔てる柵に手をつき、大きく息を吸い込む。

 

「翠ー! 出て来てくれえ!」


 力の限り叫ぶが、むなしく俺の声がこだまするだけだった……。

 

 この後おばあさんのところに戻るが、彼女がお店に来た形跡は無かったのだ。

 

 本当に成仏してしまったのか?

 俺は暗い夜道を一人トボトボと歩き、留蔵の家に戻った。


 家の中に入ると、留蔵が酒を飲む手を止めて俺の顔を見やる。

 

「おう、遅かったな。先に風呂に行くか? 夕飯は適当に食べてくれ」

「ただいま。いつもありがとうございます」

「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。こういう時は早めに寝ろ」

「はい……」


 風呂に入り、留蔵の作ってくれた夕飯を食べた。

 いつもは本当においしい留蔵の料理も、今日ばかりは砂を噛んでいるようだ。

 

 食器を洗って、自室の扉を開けると――

 鹿のはく製と目が合った。

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