吾輩は犬であった。

ミカヅキ

名前はもう無い。

 吾輩は犬であった。名前はポン太といった。

 『けっとうしょつき』と呼ばれし――意味はよくわからぬが――名犬であった。犬種は柴犬である。顔がいつも幸せそうだの、阿呆っぽいだのと不名誉な印象を持たれがちであるが侮るなかれ。柴犬とは先祖・狼の血を色濃く受け継ぐ犬の中の犬なのである。

 吾輩は幼き頃は兄弟達と共に母上の腹元で眠っていたものである。眠る子は育つのだと、母上の主様がよく仰っていた。

 ――母上と共に居た時間はそう多くない。幼き日に、母上や兄弟達と引き離されてしまったからである。

 だが、吾輩はそれを不幸だと思ったことは無い。何故ならば、吾輩はそれによって、生涯の主と出逢えたからである。

 主様は非常に慈悲深き、優しいお方であった。やってはいけないこととやって良いことをきちんと区別させつつも、やって良いことの範囲でなら吾輩に快適に過ごさせてくれた。主様と共に行く『さんぽ』などは実に至福の極みであった。それそのものも楽しい時間であるのだが、帰宅後、『ぶらっしんぐ』なるものを主様に施される時など天にも登る心地であった。主様の御手は魔法の手であらされる。『さんぽ』と『ぶらっしんぐ』を終え、『そふぁ』に座る主様の隣で主様に撫でられながら惰眠を貪る――その時間の何たる僥倖であろうか。

 時折1週間に一度、『おふろ』と呼ばれる湯にかけられるのも吾輩は幸福であった。主様に何やら薬水をかけられ泡立てられる時、主様は非常に絶妙な力加減で吾輩の体を掻いてくださるのである。水が体に纒わり付く不快さは勿論あるが、主様の御手の心地良さには敵うまい。それに水ならば身体を震えば弾け飛ぶのである。全く問題は無い。主様が「こらぁ」と仰るが、本気で怒っているのではないと吾輩は知っているのだ。主様は笑っていらっしゃるのだから、これは即ちじゃれあいというものである。

 吾輩は幸福であった。

 世には主に恵まれず、虐げられ見捨てられる同族も居るらしい。お優しい主様はしばしばそういうものを『てれび』の『にゅーす』なるものを見て心を痛めていらっしゃった。だが吾輩は、素晴らしき主様に出会い、誠に幸福であった。


 吾輩は、我が愛しき最良の主様に見守られ、天寿を全うした。


 ――吾輩は、犬『であった』。

 その意識を持ったまま――吾輩は、人間の赤子となっていた。

「おめでとうございます、元気な男の子です」

「この子に聖アディルシアの加護を」

 主様と同じ形をした生き物――ニンゲンというらしい――が吾輩を囲み、そのような意味のわからないことを話していたのが、吾輩が『目覚めて』最初の記憶であった。

 この生き物達は、妙にケバケバしい色だ――そう思ったことを、今でもよく覚えている。何せ主様を含め吾輩の周りにいた『ニンゲン』は皆黒い毛並みに黒い瞳をしていたのだが、彼らはなんとも、ケバケバしい。

 否。実際の所、彼等の色がこうも目に痛かったのは、吾輩に起こった変化のせいでもあった。そう気付いたのは吾輩がもう少し人間として成長してからである。


 吾輩はこの国――聖アディルシアという神を信仰し、神から与えられたという『神秘』を以て発展した国家『アディルシア公国』の人間として産まれ、二十年ほどの月日を生きた。

 だがしかし、人間に生まれて良かったとは露ほども思えぬ。


 まず鼻が効かぬ。足はのろいし爪も牙もなく心許ない。毛皮は薄く頭部分にしか存在せぬ、その上季節に合わせて増えたり減ったりもせずに増える一方。ニンゲンとはなんと不便な体かと吾輩はとんと呆れた。

 しかも視界が非常に煩いのだ。色鮮やかと言えば聞こえは良いが、情報量が多くて慣れるまでは頭が痛くなってしまった。この国のニンゲン達は――吾輩も含めてだが――金だの緑だの色々な毛並みをしている。それも吾輩を困惑させる原因であった。嗚呼、主様の黒い毛並みが恋しいと、何度思ったことか。


 ニンゲンの体の不便さを補うため、吾輩は身を鍛えることを覚えた。野山を駆け回り、無くした牙の代わりに剣を奮うことを覚えた。そうして、ニンゲンとして産まれて二十年である。吾輩はいつしか国一番の剣士だとか呼ばれ、聖騎士団とやらの隊長となっていた。それはニンゲンにとっては栄誉であるらしいと、吾輩とて二十年も生きれば知る。ニンゲンとは実に長生きである。

 吾輩は、ニンゲンとしての栄誉を得た。ニンゲンのメスにもよく求婚をされた。だが、吾輩の空虚が満ちることは無かった。

 何故なら。何故ならば、吾輩は、栄誉にもニンゲンのメスにも興味は無いのだ。

 吾輩は――



「吾輩は主様にお会いしたいのだ!!!」



 ――突然立ち上がり、アディルシア公国聖騎士団第十番隊長、ガルディア・ドルグレイドは叫んだ。それに眉を顰めたのは第十番隊副隊長、シズース・ダリウシアである。

 シズースにとって、ガルディアは一回り歳下の上司であった。アディルシア公国王の直属たる聖騎士団は、騎士にとっては花形だ。選ばれた、優秀な騎士にしか入ることも許されない。その聖騎士団の隊長に、二十という異例の若さで選ばれたガルディアは正しく天才である。ここまで才能の差を見せ付けられてしまえは、シズースも最早嫉妬すら持つことが出来なかった。

 ガルディアは真に、天才である。だが彼は同時に、真に変人である。そう、シズースは分析していた。そうでなければ、執務の最中に外の子供達が投げたボールを窓を蹴破って追いかけるような奇行は取るまい。そうでなければ、突然、聖騎士団の全隊長と副隊長、そして国王が集う円卓会議中に立ち上がり叫ぶなどするまい。

「……座れ、ドルグレイド卿」

 聖騎士団のリーダーでもある第一番隊長、アダム・バリウスが睨む。泣く子も黙ると評されるその睨みは、睨まれた対象でもないのにシズースを震え上がらせた。

 しかし、睨みを一身に受けているはずのガルディアが動じることは無い。頼むから動じろと、シズースは頭を抱えた。

「吾輩は気付いたのだ。吾輩がこうして生まれ変わったのだから、主様も何処かで生まれ変わっているのではないかと」

 ――何言ってんだこいつ。

 シズースは率直にそう思った。ガルディアの奇行は今に始まったことではないが、いよいよ頭がおかしくなったかもしれないといっそ心配になってくる。

「意味の分からないことを言っていないで座りなさい。王の御前ですよ」

 第二番隊長、ガウィン・ジズルドが睨む。空気は冷え冷えとして、数多の睨みがガルディアに向いていた。それは当然である。そろそろ黙ってくれと、シズースは神に祈るような気持ちで空を仰いだ。

 だが、無情にも、ガルディアは止まらない。

「否! 我が主は国王ではない!」

 それどころか特大の爆弾発言を落とした。その発言は反逆とも取れる。円卓が、シズースが、目を見開き、ざわついた。

 その懐疑と敵意の目の中、ガルディアは目を見開き、何処までも真っ直ぐに顔を上げる。


 癖のあるブラウンの髪が光を反射して煌めく。彼の蒼き瞳は意志の強さを秘めていた。男らしい精悍さを備えた整った顔立ちは、女性の求婚を尽く断ってきた身持ちの固さもあり、なるほど確かに女性受けするだろうと、何故かシズースは状況にそぐわないことを思う。現実逃避だったのかもしれない。

「……吾輩は、ずっと虚無だった。栄誉を得ても、求婚を受けても、決してその虚無は埋められぬ。吾輩は、気付いてしまったのだ」

 ガルディアは背筋を伸ばし、何処までも嘘のない、真っ直ぐな瞳で、宣言した。


「吾輩は!! 主様にポン太と呼ばれ!! 腹を撫で回してもらいたいのだと!!!」


 ――何言ってんだこいつ。

 円卓の騎士達の心は一つになった。


 呆然とする彼等に背を向け、ガルディアは鎧を脱いでいく。脱いだ鎧はそこらに放り投げ、簡単なズボンとインナーという、そこらの田舎村の男がするような格好をした、栄誉ある聖騎士団第十番隊長はくるりと円卓に振り返る。

「……というわけだ」

 どういうわけだ。それは騎士達の全ての心の声だっただろう。

 ガルディアは何故か晴れ晴れとした顔で、告げた。

「吾輩は、聖騎士団を辞めるのである。今まで世話になったな!」


 その言葉の意味を騎士達が理解する頃には、ガルディアはとうに会議室の外に駆けており。

 ガルディアは――否、かつて『ポン太』であった柴犬は、



 アディルシア公国に怒号と喧騒を残し、旅だったのであった。

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吾輩は犬であった。 ミカヅキ @mikadukicomic

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