終 章 夏来にけらし
六月一日――衣替(ころもが)え。
初めて袖をとおす夏服の白さとパリッとした固さが、うきうきするような気持ちを運んでくる。
登校途中の道も、朝の教室も、おろしたての白でいっぱいだった。それだけで、昨日(きのう)と同じはずの景色、それを包む光の色までもが、まるでちがったものに見えてくる。
最初の休み時間、わたしは、となりの教室をのぞきにいった。
ミュウがいれば、すぐに見つけられる。それだけは自信があった。でも、すばやく見わたした教室のどこにも彼女の姿はない。思いきって「天坂さんは?」と、だれかにきけばいいのだけれど、まだ、それができない自分がもどかしい。
ほんとうは、たぶん、怖かったんだと思う。その相手から「え? 天坂さん、ってだれ?」と言われてしまうことが。もちろん、そんなことあるはずがない。ミュウは、まちがいなく、自分は1-Bの生徒だと言ったのだから。
でも、ありえない、と思えば思うほど、かえって不安が押し寄せてくる。そして、一度生まれてしまった不安は、なんど振りはらっても、おいそれとは心を去ってくれない。
だから、ミュウがちゃんとそこにいることを、自分の目でしっかり確かめたかったのに……。
ミュウのバカ。
結局、授業が終わるまで、わたしはミュウのことばかり考えていた。
そして、ようやく訪れた放課後――
わたしの足は、自然に「旧棟」へと向かっていた。
今日、そこにミュウがいるという保証はない。もし、そこにもミュウがいなかったら――わたしの中で、不安だけがどんどん大きくなっていく。
まさか、このままずっとミュウに会えないなんて、そんなのあるわけないよね……そんなことばかりぐるぐると考えて、そのたびにあわてて首を振る。
それどころか、「旧棟」までがぽっかりとなくなっていたら――そんな妄想みたいなことまで頭の隅をかすめてしまい、さすがに“こらこら、落ちつけ、小羽子”と自分をたしなめる。
もちろん、「旧棟」は、ちゃんとあった。
“天気雨”の青い扉も、その上に掲げられた「用無室」の表示も、初めてこの部屋を訪れたあの日のまま。
でも、まだ明るい時間だからか、部屋の電気がついているのかどうか、外からはよくわからない。結局、あのときと同じように、一回深呼吸をしたあとで、わたしは青い扉を開いた。
「……いた」
扉の先に現れたミュウは、真っ白な半袖のセーラーに身を包み、すっかりくつろいだ様子で本を読んでいた。
そのまま入り口に立っているわたしに気づいたミュウが、ゆっくりと顔をあげて「またポストのまねかい?」と笑った。「だいたい、“いた”ってのはなんだい。人をチュパカブラかなにかみたいに」
ほっとしたとたん、徐々に怒りが沸いてくる。
「チュッパチャプスなんかどうでもいいの! お休みなのかと思ったら……教室にいかないで、ここにはきてるなんて。ふつう、それって逆でしょ?」
ああ、もううるさいなあ、と言うように、読んでいた本をパタンと閉じ、ミュウはそっぽを向いた。テーブルの上のペン皿からシャープペンを手にとると、その先で、いかにもつまらなそうに髪を梳(す)きはじめる。
ミュウの反抗的態度って、意外とわかりやすい……。
「教室にはこなくても、しっかり衣替えはしてるんだね」
わたしは、少しいやみっぽく言った。白いセーラーのミュウもかわいかったが、当然、ここで甘い顔は見せてはいけない。
ミュウは、ふんと鼻で笑い「春過ぎて、夏来にけらし白妙の、さ」と答えた。「季節ごとに身なりを清め、心を新たにする日本の伝統は大切だからね」
ミュウが手にする切子細工の青いグラスの中で、氷が軽やかに音をたてる。
ていうか、この部屋、冷蔵庫もあったんだ……。
「というわけで、今日は、夏摘みダージリンのアイスティーにしてみた」
「で、アイスティーのお供も、やっぱり揚げせんべいなの?」
わたしは、ミュウの手もとの菓子鉢を指さす。
「そう、これはもう、世界のことわりだね。あらがう術(すべ)がない」
「ふうん……」
腕を組み、目を閉じて、ふう、と息を吐く。
「あのね……深雪」
「なんだい?」
ミュウが、せんべいに手を伸ばすのを見るや、“させるかあ!”とばかりに、鉢を脇にのける。
「ねえ! なんで、そんなにくつろいでるわけ? 学校にきてるのなら、せめて教室に顔を出してから、この部屋にこもりなさいよ!」
「いいじゃないか。授業に出るのも出ないのも、ぼくの自由意志だ」
「だめだよ! 進級できないじゃない! このままじゃ、来年は、わたしが一年先輩になっちゃうよ! 永遠にここで一年生やってるつもり?」
ミュウは、椅子の背に身体を投げて、てのひらを左右に振った。
「ああ、それはないから、だいじょうぶ」
「え? なんで?」
「この学校は、二年続けて留年したら、退学になる決まりだから」
た……たいがく?
「ますますだめじゃないの!」
わたしは、テーブルに両手をついて身を乗りだした。
「いい? わたしたち、いっしょに二年生になるんだからね」
「どうして」
「どうしてって……そんなの……決まってる……」ひと呼吸置き、こくんとつばをのんで、胸に手を置く。「友だちだからに決まってるじゃない」
言えた。ミュウに、ちゃんと「友だち」って言えた。
ミュウのきれいな瞳が、わたしをじっと見ている。
その表情が、ふっとゆるんだ。
「うん……まあ、そうだな……多少は、努力してみるよ」
ミュウの耳の先が、ほんの少しだけ赤くなった。
「それに――きみと遊べなくなるのは、ちょっと寂しいからね」
「ほんというとね、ここにくるまでに、もしかしたら、この『旧棟』が、すっかり消えちゃってるんじゃないか、なあんて、おバカなことまで考えちゃった」
ミュウの隣に腰をおろしたわたしは、ついついそんな、言わないでもいいことまで打ち明けてしまった。
「なんだい、それは。ここは、アッシャー家なのかい?」
ミュウが、あきれたような声を出す。
「え? 芦屋家?」
「……きみは、その、明石家とか芦屋家とか、そういうのが好きだね」
「別に好きってわけじゃなくて、まじめに話をしてるだけなんだけど」
「うん、きみは、いつもまじめでおもしろい。そこがいい」
「ははは、ありがと」
なんども言われると、やっぱり、ちょっと複雑な心境になるなあ……。
ふと、テーブルに投げ出された本――さっきミュウが読んでいた本だ――が気になり、ミュウの背中越しにのぞきこむ。
「あれ? それって、もしかしてマンガ?」
「ああ、『少年は荒野をめざす』。作者は、吉野朔実」
「少年が主人公なの? どんな話」
「五歳の野原に少年を置きざりにした女の子が、真昼の青い日向(ひなた)で、世界の果てをめざしながら小説を書く」
「そ……そうなの」
それにしても、その表紙、どう見ても少女マンガなんだけど……。
「もしかすると……その本も、用務員さんのものなの?」
「いや、ぼくが持ちこんだ本だよ」
その答えを聞いて、わたしは、ほっとした。いや……用務員さんが、少女マンガをコレクションしたって、別にいけないわけじゃないけどね。
そんなことより、ミュウがマンガも読むってわかったのはうれしい。これなら、わたしだってミュウと会話ができそう。うん、マンガだって、立派な読書だ。
「ね、その本、今度、貸してもらって読んでもいい?」
「ああ、いいよ。そのかわり、アリ子のおすすめ本も教えてもらえるとうれしいね」
「うんうん、わたしの今イチオシはね……」
わたしは、そこで、あれ?と首をひねった。
「今……もしか、わたしのこと、アリ子、とか言わなかった?」
「うん、言ったよ」
しれっとした顔で答えるミュウ。
「いいじゃないか。“アリ子”っていう呼び名のことばっかり聞いてたから、ぼくの頭の中では、きみの名前は、もう“アリ子”がデフォルトになっちゃったんだ」
「そんなのダメ! あれは、美鈴さんだから、渋々ゆるしてたの!」
「そうか……ああ、そうだ、アリ子の“子”を、“ス”と読んで、“アリ子(ス)”。これなら、ぼくのオリジナルだから問題ないだろう。もともときみは、この部屋に飛びこんできたアリスみたいなものだからね。ヨウム室のアリ子(ス)――うん、なかなかいい」
「あり……す?」
エプロンドレスでウサギを追いかける自分を思い浮かべ、あわてて打ち消す。
「そ、そんなの、もっと恥ずかしいじゃない!」
「きみが、最初にぼくを呼んだ“ミュウ”と、どっこいどっこいだろう?」
あ、やっぱりちゃんと覚えてたんだ……。
「ねえ……それって、つまり、わたしがこれから、あなたのこと“ミュウ”って呼んでもかまわない、ってことだよね」
にやにやしていたミュウの表情が、急にかたまった。
「いや、ええと……それは」
「ふっふ、墓穴を掘ったね、ホームズくん。ワトソンをバカにしてはいけないよ」
わたしは、ミュウに向かって、ぱちり、とウィンクを送った。
「じゃあ、きまり! いいよね、ミュウ」
やれやれ、という表情で、ミュウがため息をつく。
「しかたないね、アリ子(ス)」
そう言ったあとで、ミュウは、ふと思いついたようにつぶやいた。
「ああ、それとも、ハラグローザのほうがよかったかな」
「いえ……アリ子(ス)でいいです」
とにもかくにも、わたしの内心の自由は、ここに晴れて解放されることとなった。
アリ子(ス)という呼び名は、とりあえず、広い心で受けいれよう、うん……。
「というわけで、これからも、よろしくね! ミュウ!」
わたしは、座っているミュウに飛びつこうと両手を広げた。
「あ、だめだ……ぼくは――」
ミュウがまた、わたしを避けるように、身をこわばらせる。
はっとして、わたしは、その手をとめた。
そう――わたしはまだ、ミュウのことをなんにも知らない。
ミュウの心に、ずけずけと踏みこむことはできない。そんなこと、わかってる。
それでも、もう、伸ばした手をとめたくなかった。
だって、ちゃんと伝えたかったから。
だいじょうぶだよ、ミュウ、と。
「もう、おそいってば」
わたしは、ミュウの背中を抱いた。そのまま、肩を包むふたつの手に、強く力をこめる。
「抱きしめちゃったもんね」
ね? だいじょうぶでしょう?――ミュウの心にそっとささやく。
ミュウの白いうなじが、ショートボブといっしょに、こくんとゆれた。
グラスの中の氷が、また、からん、と鳴る。
夏を呼ぶ音だ、と思った。
「ねえ、アリ子(ス)」
ミュウが、ぽつりと言った。
「なに? ミュウ」
「クチナシとアカシヤって言葉のことをね、あれからも、ふと考えてしまうことがあるんだ。……もしかしたら、美鈴さんは、ほんとうにそうつぶやいたんじゃないか、ってね」
「クチーナ紫藤でも、赤シャツでもなくて?」
「うん……」
ミュウは、頬杖をつき、思いのうちに沈みこむようにして言葉を続ける。
「もちろん、それじゃあ、ぼくたちがたどりついた答えとかみあわない。ありえない話なんだ。あくまで、ぼくの中の妄想みたいなものさ。今の今まで、きみに話す気もなかった」
「お願い、話して」
少しだけ間をおいて、ミュウは「わかった」と言った。
「花言葉のことを、ふと思ったんだよ」
「花言葉……」
「そう、ふたつの花の花言葉さ。クチナシにはね、“楽しい日々” それから“わたしは、とても幸せです”という花言葉があるんだ」
「楽しい日々……わたしは、とても幸せ……」
“ほんとに楽しかったね”――手紙の中の、美鈴さんの言葉がよみがえる。
「じゃあ……アカシヤの花言葉は?」
「ああ、アカシヤの花言葉は、こうさ。“友情”……“秘めた愛”」
頬杖をついたまま、ミュウは、澄んだ鳶色の瞳をわたしに向けた。
「それから……“真実の愛”」
静かな、とても静かな時間が流れた。なにかが、胸の底からこみあげてくる。
そうだったんだ。答えは、最初からそこにあった。
クチナシとアカシヤ――美鈴さん、あなたの想い、あなたが伝えたかったことのすべては、もうそこに、ちゃんとこめられていたんだね。
ああ、どうしよう……あふれてくる気持ちをとめられない。
「ねえ……ミュウ」
「なんだい」
「このまま、ミュウの背中をびしょびしょにしちゃってもいいかな」
「やれやれ……今日、おろしたばっかりの制服なのにな」
「うん……ごめん……」
わたしは、目を閉じ、ミュウの背に顔を寄せた。
ミュウの背中は、小さな陽だまりのように、とても温かかった。
どこからか、ボールを打つバットの音や生徒の歓声が聞こえてくる。
あれ、と思って声のするほうに顔を向けた。
校舎からは見えない側の窓の上に、細長い明りとり窓があった。その窓が少し開いていた。そこから、四角い小さな青空がのぞいている。
わたしは、ふっと思った。
もしかしたら、この部屋の入り口にも書いてあったのかな。“空あります”って……。
「へえ……ここって、静かにしてると、校庭の声とか、けっこういろんな音が聞こえるんだね」
「そりゃそうだよ。この部屋は、宇宙空間や異次元に浮かんでるわけじゃない」
「なによ、そのたとえ」
わたしは、思わず噴きだす。
「……でも、なんだかすごく気持ちいいな。子守唄みたい」
「おいおい、ほんとに寝ないでほしいんだけど」
「だいじょうぶ……でも、もう少しだけ……このままでいさせてにゃ」
「まったく……しかたない……にゃ」
「……ありがとにゃ」
ほんとうに、いつまでもこうしていたかった。
「ところで、アリ子(ス)」
「なに?」
「実はさ……きみの胸板(むないた)が背中に当たって、少し痛いんだけど」
え……? わたしは、ミュウの背中にあずけていた身体を、むっくりと起こした。
「……それはつまり、わたしに胸がなくて、それでもって胸板が直接ミュウの背中にあたって、そのせいで痛い、って……そういうことを言ってるわけ?」
「いや、そこまでは詳述していない」
「途中省略しないで言えば、そうだってことでしょ!」
今度は、ミュウが、ぷ、と噴きだした。
「あ! 人が怒ってるのに、なんでそこで笑うの!?」
「いや、アリ子のぶんむくれポイントをひとつ発見したからね」
「ぶんむくれポイント!?」
わたしの中で、ぷちん、となにかが切れる音がした。
「わかったわ。ミュウ」
「え? なにがだい?」
「あなたには、遠慮なんか、ぜんぜんいらないってこと!」
ミュウの肩を抱いたまま、ぐいぐいと身体を押しつける。
「こうなったらおしおきよ! えい、えい、どうだ!」
「うわ! お願いだ、ゆるしてくれ。痛い! 痛いぞ!」
「こらあ! 本気で痛がるなぁ!」
ミュウが、ぐったりとしたように肩を落とし「ハ……」と声を漏らした。
「なによ、その“ハ……”って。ギブアップってこと?」
「そうじゃないさ」
顔だけくるりとこちらに向けて、ミュウが笑う。
「この“ハ”はね、 “はじまり”の“ハ”だよ」
美鈴さんからもらった、まっさらなノート。
その最初のページに、わたしは今、ミュウとの出会いを書きしるす。
これからわたしは、どんな言葉で、このノートを埋めていくのだろう。
いったいどんな未来を、わたしたちは描いていくのだろう。
背中の小さな羽は、わたしをどこへつれていくのだろう。
世界は、数えきれない秘密の扉を隠したまま、わたしたちを静かに待っている。
わたしたちは、十六歳で、季節はまだ、はじまったばかりだった。
春過ぎて、夏来にけらし――
ヨウム室においでよ! ミュウとアリ子の放課後ノート エピソード0 濱岡 稔 @hamatch
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