第37話 月夜のガールフレンド

 日が暮れかけてきて、家の中を包む蒸し暑さが少しだけ緩んできた。僕は居間のソファに座りながら、引き続き父さんの日記を読む。夕奈はその隣で、取り込んだ洗濯物を畳んでいた。手伝おうかと何度か言ったのだが、「子どもは遊ぶのが仕事だよ」と返された。どうも、納得がいかない。


 その一方で、ソファの正面にあるテレビでは、夕方のニュース番組で芸能コーナーを放送していた。「三十歳過ぎの女性タレントが、年上の俳優との不倫関係が発覚」などと、大々的に報じている。


「ん? このタレントの名前、聞いたことがあるな」

「ああ、この女性は昔、人気アイドルグループの一人だったからね。今はグループが解散して、タレントとして活動しているんだ」

「へえ」


 テレビに映る女性タレントの顔には、いくらか老けてはいるが見覚えがあるな。


 十四年前の僕はアイドルに詳しくなかったし、この人のファンでもなかった。だから、そういう意味でショックを受けることはない。だが、自分がいなかった分の時間の空白を見せられた気がして、一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。


 そこへ、再び玄関のチャイムが鳴った。今度は誰だろうか。夕奈が作業の手を止め、インターフォンの受話器を取る。


「あ、由香ちゃん? うん、月夜ならいるよ」


 穏やかな口調と会話の中身から察するに、来訪者は月夜の友達らしい。いくらか会話を交わした後、夕奈は受話器を戻す。


「今度の来客は誰なんだ?」

「由香ちゃん、って子でね。お隣に住んでいて、月夜とは仲のいいお友達なんだ。さっき保育園から帰ってきたところで、月夜の誕生日をお祝いしたいんだって」


 僕の問いに対して、夕奈は口元を綻ばせながら語った。


 さっきの村上氏の息子は月夜をいじめているらしいが、月夜にも心を許せる子がいるんだな。それは良いことなのだが。


「今の僕だと怪しまれるんじゃないか?」

「でも、明日から君にも、保育園に行ってもらわなければいけない。今日会わなくても、問題が先延ばしになるだけだよ」

「どうして、保育園に預けるんだ? お前や母さんは?」

「ボクとお母さんは、それぞれ大学へ仕事に行かなきゃいけないからね。幼い我が子を一人、家に置いておくわけにはいかないのさ。それに明日から突然、保育園を休むと怪しまれるよ。一日二日ならともかく、君の件はいつ解決できるか分からないからね。もちろん、保育園の職員の人には、君のことを打ち明けるつもりだ。その方が、お互いに色々とカバーできるだろうから」


 保育園か。なんだか気が重くなってきたな。


 夕奈の隣を歩き、玄関へ向かう。夕奈が玄関の扉を開けると、満面の笑みを浮かべた幼女が立っていた。


「お誕生日おめでとう、月夜君!」


 チューリップの柄のスカートを履いた幼女は、健康的な白い歯を見せる。歳は五、六歳ほどといったところだろうか。大きく丸い、水晶のような瞳に、思わず引き込まれそうになる。美しい栗色の髪に、まだまだ幼いが整った顔立ち。今から将来を楽しみにさせられる、美貌の片鱗があった。この子が、由香か。


 その隣で、ショートカットの女性が由香の頭を撫でる。夕奈と同い年くらいだろうか。化粧が若干濃くて、若作りをしているようにも見える。どうやら、この子の母親であるらしい。


「ごめんなさいね。今日はせっかく保育園とお仕事をお休みしたんだから、親子二人でゆっくりと過ごしたかったでしょう? でも由香ったら、どうしても『月夜君のお誕生日をお祝いする』って言うのよ」

「ふふ、お友達にお祝いしてもらえるんですから、月夜も嬉しいと思いますよ」


 大人達の会話をよそに、由香が何かを取り出した。焦らすように背中でそれを隠す。


「月夜君。こいつは、お誕生日のプレゼントだぜ」


 由香は元気たっぷりにそう言って、折り紙でできたバラの花束を差し出してくる。へえ、よくできているな。これだけの数を折るのは、大変だったのではないだろうか。


「これ、由香ちゃんが作ったの?」

「ああ、そうだぜ。昨日、テレビで折り方を勉強したんだ」


 照れくさそうに、可愛らしい小鼻を指で掻く由香。その隣で、由香の母が声を尖らせる。


「こら、由香。そんな乱暴な言葉遣いをしてはいけません。まったく、どこで覚えたのかしら。つい先月までは、そんなことなかったのに。いくら叱っても、直らないのよね」


 僕は普段のしかめっ面にならないよう気をつけ、どうにか笑顔を作る。


「ありがとう、由香ちゃん」

「へへ、大したことねえって。照れるじゃねえか」


 深く笑みを広げる由香。その表情は、幼い女の子には似つかわしくない、実にワイルドなものだ。そんな違和感を覚えていると、由香がこちらの顔を覗き込んでくる。まるで肉食獣が獲物を捉えるときのような、何かを探る目だ。その瞬間、僕の肌が粟立つ。


 何だ、この子は。ただの女の子ではない?


「月夜君、何だか雰囲気が変わったな」

「え」


 心の内まで見透かすような言葉に、僕は思わず全身の筋肉が強張る。まずい、怪しまれたか?


「ま、今の月夜君も悪くねえぜ。じゃあ、また明日な」


 そう言い置き、由香は母親と共に玄関から去っていく。


 ……なぜだろうか。あの子が持つ猛々しい雰囲気は、昔どこかで感じた覚えがあった。

 気のせい、だよな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る