愛情の先に

第19話 母との再会

 その後、最寄りの駅へ二人で向かい、電車へ乗った。夕方だけあって、車内は混み合っている。大勢の人の目がある中で欲情しないよう、僕は夕奈から少し距離を置いて座った。夕奈は寂しそうな目をしていたが、こればかりは仕方がない。他の乗客達の話し声が飛び交う中、僕達は無言のまま時を過ごした。


 そうして何度か電車を乗り換え。降りた駅の先には、団地やアパートの立ち並ぶ街が広がっていた。駅前だからか、コンビニや大型スーパーも見受けられる。そこからほんの少し歩いたところに、二十階くらいはあるだろう立派なマンションがあった。


「ここがボクの家だよ。そういえば、朝斗は一度も来たことがなかったね」


 僕ら兄妹はこの三年間で何度となく会っていたが、互いの家に行ったことはなかった。別れた妹の家に行く、というのは何ともドキドキする。


 マンションの入口に設置されたエレベータで、一気に九階へ。その一番奥の部屋の前には、『神楽崎』と表札が貼ってある。


「ただいま」


 玄関を開け、夕奈が先に中へ入る。


「ほら、朝斗も入った入った」

「お、おう。お邪魔します」

「どうして、そんな他人行儀なのさ」


 夕奈は不服そうに細い眉をしかめる。それから僕の鼻面に、人差し指を強く突き出した。


「ここは『ただいま』でいいんだよ」

「ここは僕の家じゃないだろ」

「いいんだよ、『ただいま』で。ここは、朝斗にとって第二の我が家なんだから」


 第二の我が家って。何だか、不倫している男が、本妻と不倫相手の二人の間を行き来しているみたいだな。


「そんなに堅苦しく考えないでいいんだってば。さあ、入って」


 靴を脱いだ僕は、夕奈に引っ張られて中へ入る。滑ってしまいそうなほどに磨かれた廊下を進み、居間へ。夕奈が扉を開けた先には、一戸建ての我が家よりも二回り程広いフロアがあった。


「夕奈? 帰って来ているの」

「うん、お母さん、ただい――」


 夕奈が言い終える間もなく、居間から小さな影が現れた。そのまま、彼女にラグビー選手のごとく飛びつく。


「夕奈、おかえりおかえりおかえりっ!」


 夕奈の頬に、自分の頬をすり合わせる妙齢の女性。この、ベタベタにスキンシップをする癖も変わっていない。小学生のような小柄な体格。歳を感じさせない、瑞々しい肌。くりっと大きな瞳。そして、夕奈と同じ艶やかな黒髪。見間違うはずがない。この人こそ、僕を産んだ張本人。神楽崎恵美(かぐらざきえみ)である。全くもって、四十一歳に見えない幼……もとい、若々しさだ。


「お母さん、ただいま」

「あぁっ、今日は遅かったじゃないの。心配したわよっ」

「ちょっと寄り道をしただけさ。心配なんて何もないよ」

「何を言うの。我が子の心配をするのは、親の権利よ!」


 夕奈が苦笑を浮かべながら、優しい手つきで母さんの頭を撫でる。どっちが親なのか分からない光景だ。それから夕奈は、後ろで母娘の痴態を眺めている僕を指差した。


「お母さん。今日はもう一人、お母さんの子どもがいるよ」

「え?」


 そう言われて初めて、母さんは後ろに立つ僕の存在に気付いたようだ。呆然とした顔で、僕の頭から足先まで順に見る。


「朝斗、なの?」

「あ、ああ。ひさしぶり、母さん」


 ぎこちなく手を挙げてみせようとした、その次の瞬間。


「朝斗、朝斗朝斗朝斗朝斗朝斗ぉぉぉっ!」

「うおぁっ!」

「久しぶりね、元気にしてた? 大きくなったわね、そうよね成長期だものね。最後に会ったのは、中学生になる直前だったから、もう三年よね。本当に立派になって。ああ、もう、愛しの我が子、もう離さないっ!」

「離せ、頼むから、離せ!」


 一瞬にして飛びついて来た母さんは、夕奈のときと同様に頬擦りをしてきた。その目はまるで、尻尾を振りながら人間の顔を舐め回す犬のようだ。こちらがドン引きするほどに、愛情丸出しの言葉をまくし立てる。僕も抵抗しようとするのだが、どういう腕力を持っているのか、僕の腰に回した母さんの腕は解けない。


 母さんはこの通り、自分の子に対して過度な愛情というか、スキンシップを取りたがる癖がある。さすがに人前では恥ずかしいのでやめてほしい、と何度お願いしたことか。だが、それもあっさりと流され、家の外でもお構いなしにベタベタとひっついて来ることが多々あった。


 困り果てた僕をみかねてか、夕奈が苦笑しながら話に割って入る。


「お母さん、その辺りでどうか我慢してくれないかな」

「そうね。名残惜しいけれど」


 泣く泣くといった様子で、母さんが腕を解いてくれた。

 童顔で妙齢の美人、というのは息子から見ても魅力的だと思う。これなら、言い寄る男も少なくないだろう。いや、この過剰なスキンシップに、ついていける男がいるのか。


「でも、急にどうしたの。やっぱり母さん達と暮らす方がいい? あんな男のところにいたら、いつ怪しい実験に利用されてしまうか分からないわよ。そうよ、一緒に暮らしましょう。ね、ね?」


 もう既に利用されている、とは言えない。夕奈に目配せすると、夕奈は不服そうに唇を噛み締めながらも、黙ってくれた。


 父さんと母さんの出会いは、大学生のときのことだったのだという。母さんいわく「気の迷い」で交際し、結婚した。破局したのは、結婚十四年目のことだ。それまでにも何度となく離婚の危機を迎えていたことを、一つ屋根の下で暮らしていたから知っている。


 と、母さんは僕を見つめながら突然、何やら思いついたように手を叩く。……嫌な予感がするのは、気のせいではあるまい。


「そうだ、朝斗。実験で思い出したのだけど。ちょうど良かったわ。精子を採取させてもらえないかしら?」

「……は?」


 耳を疑うお願い。その隣で、夕奈が「やっぱりか」とばかりに、額を押さえ呆れている。


「今ね、研究に精子が必要なの。マウスじゃなくて、人間の精子がほしいのよ。それも健康で、十代の男子のが。いいでしょう? ちょっとだけでいいから」


 媚びるように、その大きな目を潤ませる母さん。さすがにこれには参った。こんな顔を見るのも久しぶりだな。そういえば、以前夕奈が言っていたっけ。母さんが僕に実験の協力をお願いしていると。まさか、これだったとは。


「若い男なんて、大学にいくらでもいるだろ」


 久しぶりに会った母親相手だというのに、ぶっきらぼうな返し方。我ながら可愛げがない息子だと思う。だが、母さんはまるで気にしていないようだ。僕の手を握り、再び頬と頬を擦り合わせて来た。


「ダメなのよ。思春期の男の子の精子がほしいの! 活きのいい、絞りたてで立派な精子がいいのよ!」

「精子精子、と大声で言うな!」


 結局、折れるしかなかった。


「大丈夫? 手伝ってあげようか?」

「余計なお世話だっ!」


 精子を採取するため、トイレに向かおうとした僕を、母さんが心配げな眼差しで呼び止める。ああ、もう、相変わらず面倒くさい人だ。


 ……五分後。「いろいろ」とあって、無事に精子は採取できた。こんなの、他人様の家でやることじゃないぞ。猛烈な自己嫌悪に襲われるが、受け取った母さんは子どものようにはしゃいでいた。


「もういいかな?」


 居間で待っていた夕奈が、上品な白のソファから立ち上がる。


「朝斗。ボクの部屋へ行こう」

「えーっ、親子みんなでお話ししましょうよ」

「お母さん。すまないけれど、兄妹二人きりで話したいことがあるんだ」


 駄々をこねる母さんを説き伏せ、夕奈は居間を出る。僕は母さんから逃げるようにして、後に続いた。

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