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木野

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 赤、黄、赤の点滅をえんえんと繰りかえし、決して青にはならない古い信号機が家の近くにあった。

 

 一時停止、してから発進。十字路を過ぎる。それは四方の住宅の塀と電柱が車道ぎりぎりまでせり出す見通しの悪い交差点で、素通りする車はない。白線で、一時停止。横断歩道。ただ、買ってもらったばかりの六段変速の自転車を乗りまわす僕たちだけは、わざわざ停まるなんて一度もせずに走り抜けていった。交通安全をうたうカラフルな張り紙が雨にとけておちて、灰色の塀を汚していた。


 駅前のロータリーからのびる路は、数百メートルほど進んだところでクスノキの巨木にぶつかり、岩にあたった川水のように、そこからY字に分かれて流れる。そのクスノキの脇から交差点を数歩はずれて、実はもう一本、駅へとまっすぐにのびる細長い道路があった。白線もない、住宅街の中の狭い路で、駅にむかって一方通行の、自動車には逆らえない流れを僕はさかのぼって歩いていた。先には赤と黄色だけの信号がみえた。


 午すぎの夏日の下、路には、ちょうど側溝の蓋に沿って家々の影が落ちていて、その陰の中を塀沿いに、Tシャツの袖を擦らせながら、ときどき飛び出してくる植込みの枝葉に身を傾けたりしながら歩く。左肩だけが日に晒されて、やたらに熱いのに、汗がにじむのはむしろむりに陰にかくしているひたいや首筋ばかりで、日にあたって振るたびに熱を浴びる左腕はやけに乾いていた。その手先で、額の汗が玉になり、つると眉をこえて眼窩にすべる前に拭って、顔は空を仰ぐ。


 まぶしい。

 

 夏の低すぎる空の濃い色は、路をたわみながら横ぎり細切れにする電線の束さえも目映ゆく飲みこんで、目に眩しすぎる。

汗は、熱をもった指の腹ににじんで消えた。逃げ水のたまる路面も、空も、塀と家並を挟んで線対称にずっと細くのび、信号の赤く停滞する光の先で、木々と壁ともう形の見分けられない淡い色彩の中に交わって、うすらぎ、ゆらゆらと揺れていた。

 汗が落ちる。

 遠くにある窓ガラスや近くのカーブミラーは光を受けると、まっすぐに、僕のふたつの目を射した。

 僕は、足元に顔をうつむけたまま歩く。

 影を踏んで、

 点、々と。

 

 目の端で、黄色い光がひかり、消え、やがて赤になって止まる。普段は常に赤く点滅しているのだけれど、横に貫く二車線の車道が青になろうとすると、黄色い点滅がはじまる。そして赤になる。車道の方のつねの点滅は黄色くて、優先順位の存在がわかる。


 不安定な蓋の上に足をおろすと、ご、とコンクリート同士のぶつかるにぶい音が側溝の中に鳴りこもる。ゆがんだ銅板の上を踏んだときに立つ鋭いひびきよりは全然やわらかくやさしい。足にあたった石ころが跳ねころがる音よりも、ふしぎと空虚な鳴りだ。ご、ご、地平がかすかに傾く。うしろへ傾いた体から次の足を出して、また次の蓋に乗って何事もない。


 みぎ、ひだり、みぎ、また始まった赤の点滅に、足がむりに歩くテンポを近づけようと急くのだけれど、点滅はパッパッパッと消えては点き、足が動くには速すぎて、視界と体の動きのズレが気持ち悪いようになって、汗が体中にじわりとにじむ。突然足元が金網にかわったことに気づかずに出した左足が、予想よりも低い地面に滑って、とっさに出した右足の爪先から門扉にあがる踏石にぶつかり、うわ、と、と、と跳ねるように、二、三歩、胴体から前へ飛び出た。点滅はやまない。その一歩先のコンクリートの蓋は、半身を溝に落としていた。暗がりの下から、やけに明るい緑の藻の乾いてくっついたままの底にとろとろと水が流れてくる。溝の側壁にはパルプ型の円い穴がくりぬかれていて、水は藻やヘドロの固着して舌のように垂れる筋をつたっておりていた。陰の中で、水は色をもたない。


 僕はその路にあいた穴を大股にこえると、いつのまにか黒いワゴンがこの狭い路を走ってきていた。近づき、さらに近づくと、信号は車体にかくれ、そのかわり太陽のひかりを天井からガラス窓にかけて一面に光らせて、車体が白く円形にくりぬかれてみえた。その反射光をよけるように、蓋の上で背を塀に沿わせて身を横にする。すれ違いざまに、前面の窓から中の様子が透けてみえて、助手席の少年が後部座席にむかって、緑や蛍光ピンクのゴムボールを、えいっ、投げる影がみえた。ちょっとっ。椅子の頭部にボールのやわらかいバウンド、子どもらしい喚声や母親の叱る声、少女の笑い声、それらが車の内にこもってひと塊にまざりあった。家族連れだった。


 そのワゴン車が過ぎるのを見送ると、うっすらと運転席の父親らしい太い左腕がハンドルをはなれて少年の頭を叩くのが黒いガラスに遮られて、ぼんやりと霞んでゆき、遠ざかる窓の表面にはふいに青緑の光が、一点うつりこんできた。青? とおもってふりむくと、あの交差点の信号は青に変わっていた。

銀色の自転車に乗った少女たちが交差点を渡り、こっちへ走ってくる。

 青?

 青。

 そうだった、信号は青に変わる。

 今は。

 緑がかった制服のスカートをなびかせて、ふたり並んでやってくる。うしろにもうひとり。中学生か高校生の彼女たちを、今の僕は少女とよぶ。


 高校に入るころまでには、僕たちの遊び場だった空地や休耕田はどこも売られて、この交差点の奥の空地は半分が駐車場になり、もう半分が真新しい住宅地になった。成長してもうそこに集まることもなくなっていた僕は、そこが宅地造成されていたことを、母が再婚してこの住宅地のはずれに移り住むことになったときにやっと知った。義父になった男は、母には家を買い僕にはゲーム機や自転車を買い与え、随分よくしてくれて、そうして区域の住人が増えていった半年後くらいに、歩行者用の押しボタンがつけられたのだった。


 少女たちが背にする信号の、まだまだ新しく鮮やかな青は、また黄色に変わり、赤になる。自動車が二台つづけて十字路をすぎて、次に来た白い軽自動車も軽く徐行だけしてすぎていった。


 大学の夏休みは、帰省の話題を避けつづけるには長すぎた。盆もすぎて八月も終わる今ごろになって、父の墓参りを理由に帰ってくることにさせられてしまった。そういえば、その押しボタンがついたころにはもう受験生になっていて、高校は駅とは逆側にあったから、この交差点を通るのは予備校から帰ってくる真夜中くらいのもので、車通りはもうほとんど途絶えていて、わざわざ押しボタンを押したことはなかった。


 部活終わりなのか、少女たちはだらだらとやたらに蛇行しながら進んでくるが、僕も歩き出せば距離はすぐに縮まって、風に流れる髪も、大声で笑いだす日に焼けた顔も夏らしくさわやかで、目もあわずに通りすぎてゆく。信号は赤い点滅に戻っていた。


 やがて、塀もなく、路いっぱいまでトタンの壁が迫り出す町工場の暗いオイルのにおいをすぎると、夏草におおわれていつも荒れていた平屋があったはずの土地には、白い色調の一軒家が建っていた。まだ人は住んでいないのか、駐車場も庭まわりもまっさらでやけに白い。もしかしたら。とおもって、気がせき、その次のプランターからペットボトルやバケツまで草花にうづもれた煉瓦調の家と、もう使われなくなったピンクの子供用自転車やキックボード、へこんだサッカーボールが車の奥の縁側でほこりにまみれている生活感の染みついた家、入居者募集のパネルが雨戸に何年も貼られて、玄関と庭をつなぐ石畳だけが雑草に侵略されている角の家をすぎて、路へ切りこむ、水路沿いの細道の先をみると、ああ、なくなっていた。


 松の木がない。家並を軽々とこえて、ひょろりと細身からほとんど葉のない頭をのばす、あの古い松の木が。空白。


 水路の入口に立つと、夏日の、つよい熱の領域にからだが晒される。足元にちいさな影がはなれて、ひかりに落ちる。うつむいて睫下の暗いまなざしには道も塀も水路も色を奪われて、ぼわぼわと光ってみえた。天高く存在する熱量を重く重苦しく背負うようにして、未だにつづく赤い点滅から、足は自然と細道へ逃れ入った。


 この路を一本入ると、急に塀の並びが目よりも一段高くなり、日本家屋にせよ新築にせよ、建物は鷹揚で敷地が広くなってくる。昔のちょっとした豪農でもあったのか、棚沢姓が何軒か隣りあっていた。ゆるくうねり、湾曲する水路の内側に沿う道からは先が見通せず、左右を白い塀にさえぎられると、一瞬、街の喧騒から隔絶するのを感じた。


 重い頭をもたげ、塀から水路をこえて百日紅のはなびらが花期を終えかけて、こぼれおち、路面をうす紅色によごしている。砂利にまみれ、まだはなの中に少しの水気を残しながらも平らに踏まれて地面の凹凸に吸い込まれるように貼りついているはなびらを、一足に跳んでよけ、ななめに右足をだすとそのすぐ横に左の爪先をつけて置く。水たまりのように散るうす紅色のかたまりに、わあわあと無数の蟻たちがより集っていた。


 路の果てでは、うすらかだった積雲が、徐々に輪郭をあらわにして、底にかげをつくりはじめている。一面に日の宿るひなたにいるのに、ここはなんとなく涼やかで、駅からまっすぐのびる路にこもっていた熱苦しい湿気とはちがう、水気をふくんだ風がかすかに流れていた。風は髪も袖も動かさず、ただ首うしろの肌の表面だけをかすめて、水音も葉ずれの音もきこえない。


 水は黒く、浅い水流の下に底の石や藻を透かしていたが、先の方をみれば水面に映った遠い雲が白く浮かんでいる。かげになる雲底が水と側壁とのきわに動く透明な境界線にかかって、ぐいとカーブし、その先に松のある古家がみえてくるはずだった。水路は、そこから湾曲をはなれて、路の下からちょうど堀のように古家の裏に沿って進み、畑の中をつっきると、やがて駅前からY字にわかれてきた一方の車道をこえて、市立病院の裏手に迂回する。住宅街の中で家々をななめに押しわけ、明るい印象のあった水路も、そこまでゆくと昼間でも暗い、角ばった建物群の塊の陰に隠れる。


 その古家に、長らく人の住んでいないことは知っていた。屋根は砂がこびりついて蔦が這い、瓦の合間を草が生えて押しひろげれば、次第に崩れて屋根の面を歪ませた。朽ちて灰色になった木板の壁を苔が明るい緑に染め、葛や大荒地野菊などいくつかの草々が周囲の足場を埋づめた。玄関のくすんだ引戸のガラスは、石か何かを投げ入れられた跡が、点々としてそれが少しずつ増え、いつのまにか倒れて割れた。松の木のあった庭の奥は低木の小さな林の暗がりがあったが、家屋自体は道に面して門扉も塀もなく妙にあっけらかんとしていたからか、肝試しをしたり怪談話の素材になったりするのを僕はきいたことがない。しかし、それも僕が小学生のころの話で、こっちに引っ越してきて数年ぶりに古家をみた時には、瓦の崩れがさらになだれて屋根に穴をあけ、家屋の周囲が鉄板で囲まれてしまっていたから、中の様子は全く見通せなくなった。


 いや、ちがう……、それもすでに昔のことで、カーブの先にあらわれたのは、まっさらな更地だった。今は鉄板が取り払われ、家屋も解体されている。松の木も林もなくて、乾いた土の面が露出している。そこにあったものがなくなると、土地だけではなくて、空間自体もぽかりと空白になるようで、空がおおきく口をひらいていた。ひろがった空白の底で、市民病院の隅に立つクレーンのくすんだ赤いあばら骨が、白雲を細かく千切っていた。


 僕はその家の跡地に近づき、アスファルトから土へ、黄色と黒のロープをまたぐ。取り壊されたのは夏前なのか、犬麦、メヒシバ、ネコジャラシ、すでに雑草が低く入り乱れて感触がやわらかい。数歩進むと、足の裏に瓦礫を踏んでソール越しに刺されかけたが、体重をかければすぐに沈みこんだ。土と草たちは、家のあった位置を記憶しているらしい。ぼんやりと円くとり囲んで、その中心をショベルカーで掻きまわされた不毛のままに残している。取壊しがすめば工事内容の表示もみられないし、不動産の看板も出ていなかった。


 散らばる砂利をふみ踏み家の裏手までゆくと当時は藪の中に流れを隠していた水路があらわれている。住宅街を流れている姿と何もかわらない、片足で跳べばこえられるくらいの、コンクリートで三面を固められたドブ川だ。その先は畑地で、特段商業用に栽培管理されている農地とちがって、ふいに蔓の先から枯れた支柱の一列や、雑多な草花が畦道から収穫されたあとの土へ浸入していく一画など、人の気配がうすらかに退いてみえる。その水路の藪と家の間に、松の木は生えていたはずだが、もうどこだか痕跡もわからなくなっていた。


 松の痩せた幹がのび、枝葉を広げていたはずの、空を見上げる。

日射しを避けて手をかざすと、天頂へと濃度を増して黒に近づく空の青をさえぎって、かすれた筆で書かれたような巻雲がいくつか、空の高い場所にあるのがみえた。それよりも低く、重なるようにしてちいさな積雲の一群が上流の、山のある方角からまた動いてきて、空にははっきりとした風が出てきたらしい。太陽は相変わらず地上を焦がしていたが、そのうちに風はここまで下りてきそうだった。


 ああ、なんだかなあ、とおもう。


 叢の中に落ちていた細い枝を拾った。松の枝ではない、やわらかく湿気をふくんで撓る枝は、浅い砂色の皮に、まだ若い黄緑の斑点がのぞいている。人間の骨よりも、焼かれて乾ききった骨よりも、生きているようで指に馴染む。もう片方の手で先端をつまみ、引いて放せば、投石器のように弾けて、何度かその軌道を往復したあと、元の姿にもどる。

 帰りを妨げる気もち。

 

 あの家は僕の実家とはいっても、小綺麗なリビングもキッチンも本当には義父と母の居場所であって、ひとりになれるのは自分の部屋とトイレぐらいだ。そうおもって家を出たけれど、もちろん東京の大学で一人暮らしができているのも、電話口の母が幸せそうなのも彼のおかげで、帰省の理由が実父の墓参りだといったって、彼は気を悪くしないことすら知っている。だから。なんだかなあ。うらはらな気もち。


 雲が動く。

 白雲の一群れが近づいてきて、その後ろには広い湖のような雲を連れて。


 近づく。

 

 日が、やがて細かにわかれた積雲の一端にふれ、光芒は雲の輪郭を侵しながら、それでも風の流れは返らず身を削られはじめる。空地へ、路の方から薄いかげが迫ってきて、家々の屋根のアンテナも、路面も、水流に移るきらめきも、ひかりを薄めて、魔法を解かれたようにコンクリートの角ばった固形に収束してしまう。すうーっ、と人には追いつけないスピードで、雲影のひろい領域が空地の端から草花の上を通り、家の跡を波のようにおし寄せ、飲みこまれた僕はその中で溺れもせず、ひかりとかげの境界線が僕の腕から指へうつり、枝をのぼりその先端から地面へ跳び下りると、もう速くも水路から畑のむこうまでいってしまったのをみた。


 日が翳ると地上は熱を失い、涼やかな風が内にこもる熱気を冷やす。ぴん、とたわめた枝先を離すのと同時に、もとのほうの手もゆるめると、枝は空に放たれて朧に光る日の暈を切り、しかしその回転もすぐに弱まって、音もなく水路に落ちた。遠い鉄塔は今も光り、小さな雲たちは光よりも白く照らし出されている。あいた手で、尻ポケットに挿してあったスマホをとった。

「駅、何時着くか、わかったら、教えてね」

 いつまでも句点の多すぎたり助詞がおかしかったりする母からのメッセージは、もう一時間も前に来ていたものだ。べつに気づいていなかったわけじゃない。


「もうこっちに着いてるよ」

 そう送ると、ぱっと既読がつき画面が突然暗転して、鮮やかに跳ねる木琴のような電子音が鳴ると、義父からの電話だった。

「もしもし」

「はい、」

「いまどこ?」

「あー」

「駅?」

「いや、もう家のすぐそこまできちゃったから」

「ええ、なんだよ、言ってくれれば迎えに行ったのに」

 そういうと、電話のむこうで母となにやら言いあうぼやけた声が交わされてるから、

「ちょっと、歩きたかったから」

と投げやりにいった。

「そんなこといって。

 遠慮しなくていいんだよ、おまえは」

 そうなんだ、義父はいい人なんだ。だから、やっぱり。ただただ、自分は混乱しているんだとおもう。まだ父のことだって整理できていない。整理したい。気もちを。墓参りに帰ってきてよかったとおもった。


「じゃ、待ってるよ」

「はい、すぐに着くから」


 だんだん風が冷えてきて、Tシャツと背中の間の熱い汗を寒気に変えていく。平らな雲よりも低いところにもっと厚く、日に障えられて黒めく積層雲が走ってきて、あの雲がこの街にやってくるころには、大きな水を湛えているだろう。すぐに、白々とふくらむ空気の塊は耐えきれずに、水を解放しはじめる。早く家に帰らないと。この平野の夕立は重い。


 僕は水路を一足に跳びこえ、畑の脇から道にむかう。

 さっきの枝はとっくに姿がみえなくて、やがて水路をゆけばその先は利根川につながり、広い河面を渡って、いずれは海まで至るだろうか。雨が降れば水路は増水して、土の濁流が猛り下る。


 しかし河口まで出れば、きっと空は晴れ、海も空を映していちめん青い。

 きっと、青い。




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ao 木野 @undertri

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