エピローグ

第34話 雨はいつでも降るものさ

 夏休みの間も演劇部が休みになることはなく、暑い校舎内で沙はひたすら台本集めのために図書館と部室を往復させられた。

「何で私が……?」

 その上、ステージを汗で水たまりだらけにするほどの筋トレ。

 ふらふらになったのを利用するかのように、ゆる体操で身体の力を抜く。

 さらに、小難しい太極拳。

「何で……?」

 さすがに毎日ではないが、そんな日々が繰り返されるうちに、ミンミン鳴くアブラゼミの声と夕方にカナカナいうヒグラシの声は、せわしなくオーシンツクツク騒ぐツクツクホーシの声に変わっていた。

 本当に、つくづく思う。気の迷いだとしか思えない。

「何で演劇部なんかに入ったんだろう……?」

 それでもなんとなく続けているうちに、やがて新学期がやってきて、新たな台本での読み合わせが始まった。


《汽車だ……何時になった?》

《2時になります……もう明るいですよ》

 和泉が演じる実業家のロパーヒンと、1年生が演じる小間使いのドゥニャーシャの会話だけで、白夜のロシアが目の前へ鮮やかに立ち上がってくる。沙はそこで、ト書きを読み上げた。

〈事務員のエピホードフが花束を抱えてやってくるが、部屋の入り口で落としてしまう〉

 文化祭での上演作品は、アントン・パーブロヴィチ・チェーホフ『桜の園』である。

 これを選ぶまでに、沙はどれだけ図書室と部室の間を往復したか分からない。

 別に、押し付けられたわけではない。他の部員に、特に同い年の1年生に振れば済んだ話である。

 それを敢えて引き受けたのは、ただ単に、暑い部室で本を長時間読むのがイヤだったからだ。

 冷房の利いた図書室で本棚を巡る間に頭と身体を冷やしながら考えたのは、「何が面白くてこんなことをやっているんだろう」ということである。

 今でも、この4月から部員としてやってきたことは記憶にあっても、実感としてはない。

「そこ、カッコつけないで」

 一瞬、五十鈴のダメ出しにハッとする。

 だが、沙に向けられたものではない。

 小間使いのドゥニャーシャが去った後のシーンだった。マヌケな事務員のエピホードフを演じることになった相模が、照れ臭そうに頭を下げる。

 舞台監督を1年生に任せて、自らキャストに立ったのだ。

 五十鈴はというと、部長になってからも相変わらず演出をやっている。

 この『桜の園』は、舞台装置も衣装も緻密に作らないと成立しない作品らしい。そんなメンドクサイものを選んだのは、五十鈴自身も部としても、冒険的な演出に懲りたからのようだ。

 その辺りは、地区大会のことはぼんやりとしか覚えていない沙にも分かる。

 だが、五十鈴には五十鈴のこだわりがあるようだった。

「自分の言ったことを小馬鹿にするような口調で!」 

 自分の台詞に客観的になれ、と言っているのだ。何やら難しいが、それでも、学んだことは生かそうとしているらしい。

 相模は眉を吊り上げ、まるで歌舞伎のような持って回った抑揚で台詞を読み上げる。

《日ごと夜ごとの我が不幸、不平不満も吹っ飛ばし、こうして笑っております次第……》

 次第にその声は、沙の頭の中から遠のいていく。

 やっぱり、いつのまにかこんなことをしているのが不思議でならない。


 大会までのことは覚えている。

 入学してまもなく、舞台を見に来て、なぜかムカッと来て、ステージに駆け上がった。

 何だか、ものすごい英語を口走ったような気がする。正確だったかどうかは、今でも分からないが。

 分からないと言えば、あんなことをやってしまった理由だ。

 周りに男子がいるのも構わないで、上半身、下着一枚になってしまった。

 それを思い出すと、今でも顔が赤くなる。

 まだある。

 何を思ったのか1年の分際で受けた3年の模試では、全国1位になっていたらしい。

 それなのに、夏休み明けの実力テストでは惨敗。

 何事にもまぐれあたりはあるものだということで済んだが……。

「ト書きボーっとしないで、沙!」

 五十鈴の叱咤が飛ぶ。

 誰からともなく、野次が飛んだ。

「しっかりしろ、アルジャーノン!」

 2学期に入ってからは、名作戯曲の名をとって「アルジャーノンいさご」というリングネームで呼ばれるようになったのだった。

「は……はい!」

 おたおたと返事すると、9月になってもまだ暑いのを気にもしていないかのような笑い声が、部室いっぱいに反響した。

 沙は溜息をつく。


 それにしても、どうして、演劇なんか?

 今はト書きを読んでいるが、すぐに照明プランを立てなくてはならなくなる。

 役者として妙に期待されていたのを固辞して、とりあえず照明に回してもらったのだ。

 だが、何の光をどこから何に当てていいのか分からず、キャストに転向した陽花里のところに通い詰める羽目になっている。

 それでも、いいことはあった。

「よう、しっかりやってるか?」

 小柄だが顔立ちの整った3年生が顔を出した。確か、笠置誠とかいったはずだ。地区大会でレイアーティーズをやることになったのは、この人が部活を辞めると言い出したせいらしい。

 だが、土壇場で倒れた沙を舞台袖で助け起こし、私服のままでステージへと駆け込んだ姿は、はっきりと覚えている。 

 カッコよかった。

「はい!」

 思いっきり笑顔で返事をすると、「がんばれよ」と一言残して部室を出ていった。

 図書館にいるはずだから、帰りに勉強を教えてもらいにいくつもりだ。

 笠置がくれたらしいしおりブックマークは、いつも参考書に挟んである。

 秋口になってそろそろ受験に目の色も変わり始めているが、それでも、会いに行くと、質問したところを丁寧に教えてくれる。

「部内恋愛禁止」

 また五十鈴は小言を言うが、その言葉に非難の響きは感じられなかった。だいたい、部員全員の前で告白された返事は、まだしていない。

 そこで、一言返してみる。

「センパイはどうなんですか?」

 言葉に詰まったところへ、都合よく並木がやってきた。

「あれ、さっき笠置がいたみたいな……」

 五十鈴がブスっとしてゴネた。

「いました、さっきまで沙にコナかけてました、先輩からも一言お願いします」

 並木は皮肉っぽく笑いながら返した。

「自分で言え。部長だろ?」

「それはそうですけど……」

 うつむく五十鈴だったが、まんざらでもなさそうだった。

 この夏は、並木が何となく沙に好意を寄せてきていたような気もする。思い過ごしかもしれないが、五十鈴がそれでムキになっていた覚えもあるのだから、たぶん、そうなのだろう。 

 だが、2学期にはいってからはどうも、並木の心は五十鈴に傾きかけているらしい。

 だが、五十鈴はそれを突っぱねるかのように、話題を切り替えた。

「何か用ですか? 稽古中なんですけど」

「ああ、顧問が、今日は明るいうちに帰れって」

 生徒会担当の教員がそのまま、なしくずしに顧問となっていた。退勤時間には帰りたい「5時まで教員」らしく、早い時間の撤収を急かしてくる。

「世の流れで、仕方がないですけど……」

「先生方も働き方改革か」

 五十鈴と並木の下手な時事漫才に、部室内は何とも曖昧な笑いに満たされた。


 用事を継げた並木が部室を出ると、読み合わせが再開された。

 戻ってきたドゥニャーシャは、エピホードフの去り際に飲み物の入ったグラスをひっくり返され、ロパーヒンに相談する。

《実は彼にプロポーズされまして……いい方なんですけど、ああいう方で……でも、嫌いじゃありませんし、でも、ああいう方ですし……》

 ろくに聞いてもいないロパーヒンが、はっと気づく。

《来た! 馬車だ!》

 2人が退場すると、やがて、美浪の演じるラネーフスカヤ夫人の声がする。

《子供部屋……懐かしいわ……子どものころ、ここで眠ったの……》

 エピホードフと同じく、歌舞伎役者のような節回しの声だった。

 演出の意図をきっちり表現してみせる技はさすがだ、と沙も思う。そこには確かに、家の没落を自覚していない、世間知らずの貴婦人の愚かしさがあった。


 自分はどうなのだろう。

 ふと思った。

 何となくここにいて、それでいいのだろうか?

 部室の壁をちらりと眺めてみる。シェイクスピアとチェーホフの肖像画が、こちらを見つめていた。

 シェイクスピアのほうは、夏休み中に部室の大掃除で、沙が見つけて何となく貼ったものだ。チェーホフのほうは、五十鈴がどこからか見つけてきて、対抗するように貼った。

 それぞれの下に、それぞれの言葉を添えて。

 

 世界は舞台、全ての男女はみな役者。(シェイクスピア)

 人とは、自ら信じたとおりの者である。(チェーホフ)


 世界が舞台で自分は役者。ただし、台本はない。それなら、自分がそうあるべきだと信じたことをするしかないのだろう。

 ここにいる以上は。

 再び台本に向かうと、登場人物一同の出番だった。

「老いた従僕のフィールスがせかせか舞台を横切ると、ラネーフスカヤ夫人、娘のアーニャ、小犬を鎖で引いた家庭教師のシャルロッタ……」

 長い長いト書きの間に、どこからか、どこかで聞いたような歌声が聞こえてくる。

 バイオリンの粘りつく音のような……。


A great while ago the world begun,

《遠い昔に世界は始まったのさ》

With hey, ho, the wind and the rain

《ヘイ、ホウ、雨風吹いて》

But that's all one, our play is done,

《でも、これで全部さ、芝居も結び》

And we'll strive to please you every day.

《で、これからもたっぷり楽しんでもらうぜ》


「あ、雨だ!」

「うわ……帰れるかな」

 部員たちが騒ぎ始めて、五十鈴がパンパン手を叩いた。

「はい、集中! 集中!」

 だが、沙の目には、開け放たれた部室の扉の向こうに、不思議な幻が透けて見えるような気がしていた。

 急に降り出した雨の中に、三角屋根の家並みや、教会の屋根の十字架、小さな波紋の輪の立つ水路が見えるような……。

(完)

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高校演劇奇譚 兵藤晴佳 @hyoudo

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