第29話 女の戦争と平和
「じゃあ、私、ここ!」
沙は子どものように、客席の最前列、しかもど真ん中に陣取った。次の演目を聞いたら、シェイクスピアとしては居ても立ってもいられなくなったのだ。
アリストファネス『女の平和』。
ギリシア・ローマ時代の傑作喜劇である。まだ駆け出しの作家だったころは、いつかこんな自由な台詞と筋立てで芝居を書いてみたくて、昼夜を問わず読みふけったものだ。
男子校が演じると聞いて、さらに胸は高鳴った。17世紀には、男しか舞台に上げることはできなかったから、男が女たちを演じること自体は珍しいことではない。
だが、男しかいないところで敢えてこの作品を選んだ理由が知りたかったのだ。
間もなく、ナミキはすぐ隣に座った。もっとも、この作品を同じ男としてどうとらえているかは分からない。
そこへ、さきほど大喧嘩を始めるところだった照星とシーボルトの男子たちがぞろぞろやってきた。
さっきは黙って見ていたが、それは仕方がない。ニシンに当たって死ぬ前の、52歳の男なら押しが利いたかもしれない。だが、今の身体は小柄な少女だ。
止めようにも止められないし、それならいっそのこと、男同士の戦いの行く末を見守っていた方がまだマシだと思ったのだ。
もう、そんなことは起こるまいが、双方の雰囲気は最悪である。
だが、そこで並木が声を上げた。
「あ、こっちに席、空いてますよ! ほら、こっちにも」
照星とシーボルトは何となく、ナミキと沙のいる辺りを挟んで、離れたところに座り始めたようだった。ただし、照星の部長はというと、並木を見て、はにかみながら上品に微笑んだ。
意外に、モテている。
それではイスズがどうするかと見ていれば、ナミキの後ろに立った。
照星の部長をちらりと見やると、何をやってるんだと言わんばかりに沙を見下ろす。くるりと振り向いて、陵高校の部員たちを呼んだ。
「はい、この辺に座って!」
照星とシーボルトの間に、一種の緩衝地帯を作ったつもりなのだろう。
やがて、その緊張した空気が前奏であったかのように、幕が上がる……。
明け方、アクロポリス(アテナイの中心地)城門の前。
男子の演じるヒロイン、リューシストラテーの前に、これも男子が演じる女たちが思い思いの格好で座り込んでいる。
ちぐはぐな姿に、客席からは失笑が漏れた。
待ってましたとばかりに、リューシストラテーは妙に甲高い声を張り上げる。
《スパルタとの戦を止めるために、みなさん、ひと肌脱いでくださる?》
リューシストラテーの提案に、女たちは全員、服に手をかけた。腹を抱えて笑うナミキを、イスズが後ろから小突く。
セクハラ、というやつに当たるのだろう、この仕草は。
女たちも観客も制するように、リューシストラテーが呼びかけた。
《その逆をやりましょう、今夜から》
その意味を察したのは、舞台上の「女」たちだけではない。遠くからでも、照星の女子が赤くなって縮こまり、男子がどう振る舞っていいか分からずにうろたえているのが分かった。
リューシストラテーが取り出したのは、この時代では「シースルー」と呼ばれているらしい、透けて見える下着だった。
因みに沙は、まだ着けたことはおろか、今日の今日まで見たこともない。だが、シーボルトの側からは、興奮した男子の声が聞こえた。
それを叱り飛ばすかのように、リューシストラテーは宣言する。
《男たちが戦をやめるまで!》
女たちに夜を拒まれた男たちが、上半身と下半身を真逆の状態にして休戦協定を結ぶと、爆笑のうちに幕は下りた。
席を立った照星とシーボルトの部員たちが、それまで何事もなかったかのような顔で談笑しながら外へ出ていく。
これが、よい芝居の力なのだ。
そんな感慨にふけっていると、イスズが肩を叩いた。
「ちょっと」
そうなるだろうとは思っていた。幕が下りる辺りから、ナミキがずっと見つめてきていたからだ。
ただし、困ったような目で。
同じ男として、気持ちは分かる。いかに優れた喜劇とはいえ、男と女の夜の交わりをほのめかす冗談があまりにも多い。
とくに、女たちのひとりなどは、今すぐにでもとびかかろうとする夫を、子どもが見ている、ここではいやだ、ベッドがない、枕がない、シーツがないと焦らしに焦らして、休戦協定に賛成させる。
このやりとりを目の前にしたイスズが、頬に羞恥を一杯に溜めたまま、身体をすくめていたのを沙は知っている。
その一方で、恥じらいもなく心の底からゲラゲラ笑っている女を見れば、たいていの男は一歩退くものだ。
シェイクスピア52歳であるところの沙にしても、そんな女は願い下げだ。
だが、男ならぬ身のイスズには、その辺りの察しがつかなくても無理はない。
ナミキが何も言えないでいるうちに、イスズは会場とは別棟にあるラウンジに沙を呼び出した。
大きな窓の前に据えられた長い長い1列の机に二人きりで座ったところで、イスズはいつもの一言を繰り返した。
「部内恋愛禁止なんだけど」
「え、私は、別に……」
何度言われても、その気はない。あるわけがない。くどいようだが、沙は52歳の男である。確かに、かつてのグローブ座には、少女役もこなせる声変わり前の少年俳優が何人もいたが、全く興味は湧かなかった。
「分かってる」
「え……?」
そっちの方が驚きだった。まさか、イスズがシェイクスピアの生まれ変わりを知っているわけがない。
「慎吾の……並木の……部長のバカが」
口ごもりながらも続く言葉に、ほっとした。娘ほども年の離れた相手のことである。こういう話なら、ひたすら聞き流していればいい。
「無理しなくても」
「無理なんかしてない。むしろ、これからは……」
再び、イスズが言葉に詰まった。何が言いたいのかよく分からないので、ちょっとからかってみる。
「じゃあ、解禁ですか?」
イスズが眉を吊り上げた。絶対に聞いてはいけないところに触れてしまったらしい。沙にしても、劇団内での男女問題がいかに面倒臭いかは、長年の経験でよく分かっているつもりだ。
だが、イスズはすぐに、落ち着いた声で答えた。
「そうじゃないの。でも、沙ちゃんがどうかなって」
「だから私は」
ナミキに好意を寄せられているのは分かっている。そこは少女としての芝居をしてごまかしているが、いずれは答えを出さなくてはならないだろう。
そのときのために、上手に台本を書いておかなくてはならない。ものの喩えではなく。
問題は、イスズのほうだった。
ナミキに関しては今まで敵意を剥き出しにしていたのに、急に仲を取り持とうとしているかのようだ。
「沙ちゃんの気持ちは置いといて……あいつ、不器用なのよ」
「いや、それは部内恋愛禁止だから……」
自分でも何を言っているんだろうと思う。正直、どうでもいいことだ。だが、どうもイスズの方は何か思いつめているらしい。
「そういうことも気にしてるのかもしれないけど、部員じゃなくなったら、気にしなくていいわけじゃない」
「……これで引退って聞きましたけど」
確か、3年生はこの大会で引退するはずだ。ただし、それで部活内のルールに拘束されなくなるのかというと、それは沙では分からない。
「まあ、引退すれば後輩にちょっかい出していいってわけじゃないんだけど」
拘束はされるらしい。だが、なぜ今になって、男に向かって背中を押すような迷惑な真似をするのか。
「じゃあ、ナミキ先輩のことはなんていうか……なしってことで」
「リアクション取れって言ってるわけじゃないんだけど」
慌てて取り繕ったイスズは、最後に一言だけ付け加えた。
「ちゃんと考えて、その、ダメならダメって」
「ええ、まあ……」
イスズの変化のほうが気になっていたので、とりあえず言葉を濁しておいた。
もちろん、ダメに決まっている。
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