第28話 カンフーアクション再び

 3日間にわたる地区大会が、初日を迎えた。開会式が終わると、そのまま1校目の上演となる。

 幕が開いた瞬間、並木は唸った。隣に座っている相模も、溜息を吐く。

 目の前にあったのは、衣装も舞台装置も近代ヨーロッパの上流家庭そのままといっていい舞台だった。

 わざわざ客席に対して斜めに作られた舞台で、斜めに置かれた中央のテーブル。

 やがて、そこに身なりのいい男女が向かい合って座る。

 イプセン『人形の家』だ。


 銀行の頭取を夫に持つノーラのもとに、かつて職場を追われたクロクスタがとりなしを求めてくる。

 ただ夫に従って生きているだけのノーラは断るが、クロクスタは開き直る。

《ご自分の立場がお分かりでないようだ》

 ノーラはきょとんとする。

《私の?》

《1200スペーシの借用書ですよ。病気のご主人の治療代》

 凄みのある声で、事情を淡々と語る。ノーラはきっぱりと答えた。

《サインしたじゃありませんか》

《お父さまは?》

 すかさずツッコむクロクスタに、ノーラは一瞬だけ怯む。だが、胸を張って答えた。

《サインしましたわ、もちろん》

 クロクスタはもっともらしく頷く。

《確か亡くなられたとか……その日は?》


 やられた、と思った。相模も悔しかろうと思う。五十鈴の演出する『ハムレット』とは真逆の作り方だ。

 それだけに、負けてたまるかという気がした。

 隣に座る沙がどう思っているか気になって、横目で眺めてみる。

 舞台を、食い入るように見つめていた。


《9月29日》

 間髪入れずにノーラが答えると、クロクスタは事実だけを告げる。

《サインは10月2日付です》

 今度はノーラが開き直る番だった。

《私が書いたんです。それが、何か?》

《詐欺ですよ》

 クロクスタは事実しか口にしない。一方のノーラは、どんどん感情的になっていく。

《あなたもご存知だったくせに! 主人の容態がどんなに危なかったか》

《そのご主人はクビになさった、あなたと同じことをした私を》

《命がかかってたわけじゃないでしょう? あなたの奥さんの》

 そこでクロクスタに見据えられたノーラは、息を呑むかのように口を閉ざした。

 おもむろに、止めの一言が返される。

《確かにそうですが、あなたとは……一蓮托生です》


 一歩間違えば説明台詞の羅列で終わるのに、生活と男のプライドを懸けて脅迫するクロクスタと、女の幸せを守ろうと死に物狂いで言い訳するノーラの息詰まる攻防が繰り広げられる。

 自分たちがやってきたことと比べて、焦りがないと言えば嘘になる。だが、つい引き込まれてしまうだけの魅力が、この舞台にはあった。

 沙も、きっと自分と同じ思いなのだろう。

 舞台を見つめて輝く目を見て、そうに違いないと勝手に結論付ける。だが、その一方で、どこまで同じ思いなのかということが気になって仕方がなかった。

 やがて、夫の人形でしかなかった自分に気付いたノーラが袖の奥に消えると、扉がバタンと閉まる音がした。

 ノーラが出て行ったのだ。

 幕が下りると、客席中から重い溜息が聞こえる。その中で、並木は沙に囁いた。

「ちょっと……レイアーティーズのことで」


 会場の外へ出ると、日差しが暑かった。

「涼しいところで話そうか」

「長いですか、その話」

 真面目な顔で問い返される。

「次のも見たいんですけど」

「うん……レイアーティーズ役の交代のことで、本当の気持ちが聞きたくて」

 本当は、そうじゃない。他のことが聞きたいのだが、言葉にならない。

 沙は、首を傾げた。

「やるって言ったじゃないですか。だいたい、本番前にそんなこと言われたって」

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

「そ、そうなんだけど、いや、そうじゃなくて……」

 自分でも何が言いたいのか、よく分からないうちに呼び出したのが失敗だった。こうなっては、押すも引くもならない。時間が過ぎていくだけだ。

 だが、そこで救いの女神が現れた。

「すみません、助けてください!」

 夏の太陽の下で煌く、長い髪。眩しい光が、白い肌の上で弾ける。

 照星高校の部長だ。

 思わず見とれて、はっと慌てる。女子の冷ややかな視線を覚悟して見下ろしたところには、何を慌てたのか、おどおどと見上げる沙のまなざしがあった。


「やめてくれないかな、そういう言いがかり」

 ホールの裏にある搬出入はんしゅつにゅう口の前で、すらりとした制服姿の男子が私服姿の男子を睨み据えていた。

 敷地に面した国道を、トラックの爆音が通り過ぎていく。日本海と東海道を南北に結ぶこの街道は、北海道から船で送られてきたニシンを運ぶ男たちの行き来で栄えたという。そういうわけで、ここは「ニシン街道」と呼ばれたが、道を行く男たちは気が荒く、ケンカも絶えなかったらしい。

 その「ニシン街道」の傍らでは、今、現代の少年たちが対峙していた。 

「いや、笑ったろ、オレらのこと」

 見覚えがあった。シーボルト学園の男子だ。小太りの身体で背中を丸めて、左右にふらふら揺れながら威圧にかかっている。

 だが、照星高校の男子は怯む様子もなかった。

「いや、制服着てないと高校生だって分かんないから……ごめん」

 そう言いながらも、目つきは冷ややかである。相手の怒りに火をつけるには充分な応対だった。

「やんのかコラ」

「まさか」

 そう言いながらも、その腕はボクシングの構えを取る。

「君にケガさせちゃうかも」

 素人目にも、身体の重心が取れているのが分かる。軽く矯められた肘や膝は、力をはらんでいる。他校生を凌駕しているのは偏差値だけではないらしい。

 照星の部長が耳元で囁いた。

「お願い、止めて……」

 言われなくても分かっている。本当に暴力沙汰などが起こった日には、この会場で、いや、大会そのものができなくなる。

 自分たちの大会はこの夏で終わりだが、まだ後輩たちが残っている。

 沙が気になったが、並木など知らぬげに、興味津々でケンカの行方を見守っている。

 あてにしていたわけではないが、ここで収めないと格好がつかない。

 一応、照星の部長に聞いてみた。

「原因は何?」

「出口でアンケート集めてたうちの男子が、シーボルトの男子がくれたの見て言っちゃったのよ……何だ、高校生だったのか、って」

 納得はできた。

 言われた方がカチンとくるのも仕方がない。

 自信はないが、思い切って、声をかけてみた。

「あのさあ……」

 シーボルトの部員は、並木を覚えていた。

「よお、久しぶり……何だ?」

 精一杯の笑顔で語りかける。

「悪気はなかったんだし……」

「悪気のないヤツが制服で同じ高校生差別すんのか?」

 そう言われると、返す言葉がない。代わりに照星の男子が、敢えて言わなかった本音を口にしてくれた。

「そもそも本人が気にしてなかったら問題ないんじゃあ……」

 シーボルトの男子が照星の男子に掴みかかる。双方の男子たちが、そこに向かって一斉に駆け寄る。

 それは地域紛争が双方の同盟国の干渉で、大戦争へと発展する図にも似ていた。

 無数の手と拳が交錯する。

 同時に、女子たちの悲鳴が上がった……かにも思えた。

「きゃあああああ!」 

 だが、それはどちらかというと嬌声に近い。

「幸恵さまあああああ!」

「陽花里ちゃん、格好いい!」

「奈々枝ちゃん、すごおおおい!」

「五十鈴ちゃん、あたし、もうガチ惚れ!」

 見れば、照星とシーボルトの男子たちが、陵高校の女子たちに手足を絡め取られている。

 例の、太極拳で。

 男子生徒の間に割って入った佐伯幸恵は、「左右搬攔さゆうはんらん」の型で一方を払いのけ、殴りかかったほうの腕を両手で押さえ込んでいた。

 他の男子の背後に回り込んだ篠原陽花里は、「白鶴亮翅はっかくりょうし」の型を使って手首を捩じ上げている。

 相手の胸元へ飛びこんだ柚木奈々枝は、片手で相手の拳を受け流し、もう一方の手でその身体を押し止めている。「扇通背せんつうはい」の型だ。

 そして五十鈴に至っては、あの「野馬分鬃やばふんそう」で相手の首と腕と肩と足首を完全にロックしていた。その痛みがどれほどのものかは、並木も身体で覚えている。

 そこへ、それぞれの高校の顧問らしい教員たちが走ってきた。

「おい、何やってる?」

 陵高校の女子たちは、すかさず術を解いて男子たちの手を取る。軽やかなステップに合わせて、照星とシーボルトの男子たちは唖然としたまま、対打(模擬格闘)の套路(型)の相方を務めることになる。

 並木は、その意を察して場を取り繕った。

「デモンストレーションです、格闘シーンの」

 何だ何だと集まってきた他校の生徒たちが大喝采する。教員たちは、「早く会場へ」と言い残して、その場を離れていった。

 安堵の息を漏らす並木の背中を、沙が叩いた。

「やりますね、センパイ」

 だが、ぴったりと身体を寄せてきたのは、別の女子だった。

「後で話があるんだけど、この件で」

 沙を連れ出したのを五十鈴が気付いていないと思ったのは、やはり甘かった。

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