第17話 緑の目をした獣

 稽古ができなくなったのは、沙…現代日本の少女に転生したシェイクスピアも面白くなかった。500年前に死んだはずが目覚めてみたら少女の姿で、しかも、勝手も分からぬアジアの果てで暮らさなくてはならない。

 家にも学校にも慣れはしたが、それらにつきあうのは骨が折れる。唯一、心が安らぐのは、最初から勝手が分かっている稽古場だけなのだ。

 他所にも学校があると分かった以上、使わない手はない。

 だが、「黄金週間ヘブドマス・オウレア」とかいう休日に入るので、学校は休みになるらしい。

「さて、どうするか……」

 職員室前を素通りする。

 どうやら顧問を通さないと他校へは行けないらしいが、最後に啖呵を切ってから、顔を合わせづらい。そもそも、校内で会うことがない。座長のナミキも演出のイスズも顧問が苦手らしかった。

「もし、落ちましたよ」

 声を掛けられて振り向くと、同じ目の高さに、鼻筋の通った少年が微笑んでいた。

 確か、レイアーティーズ役にしては小柄なカサギという奴だった。

 はい、と言われて差し出した手に載せたのは、薄く小さな金属製のブックマークしおりだった。緑の目をした、可愛らしい怪物の姿をかたどったものだ。

「いや、私は……」

 身に覚えのないものだが、カサギはさっさと3年の教室へと、階段を上っていってしまった。

 沙のカンに、寒気を伴って訴えるものがあった。

 確か、自分で書いた『十二夜』にも、こんなシーンがあった。

 深窓の令嬢オリヴィアが男装の美少女ヴァイオラを見たその場で恋に落ち、忘れてもいない指輪を押し付ける。

「まさか……」

 だが、そこで沙の頭に閃いたものがあった。

 

 そして、長い休みの最終日、一座は私立照星高校の門をくぐることとなった。

 カソリック系の学校の名前を中国の文字で覚えるのは、沙の好奇心を大いにくすぐった。

 だが、カサギのそばで沙が微笑しているのには、他の理由がある。

「ねえ、オキナさん」

「イサゴでいいよ」

 悪魔の嘲笑を天使の笑顔に変えて、鼻筋の通った少年を横目で見やる。かつて書いた『オセロー』の悪役、イアーゴーなら、やはりこうしただろう。

 後ろでは、ナミキとイスズが並んで歩いていた。

「残念だったわね」

「部内恋愛禁止って言わないのか」

 イスズの皮肉をぶすっと返すナミキに、沙は振り返ってみせる。

「おかまいなく」

 本当に、その必要はなかった。

 どうやら、沙は(あくまでも自分とは言わない)、一目惚れされたらしい。しかも、カサギが野心と劣等感の塊らしいことは分かっていた。 

 だから、逃げ回ることなく、逆に自分から近づけば、手玉に取るのは造作もなかった。顧問とつながっているカサギは沙の口車に乗り、名門校の見学を申し出たのであった。

 まさに、イアーゴーの台詞の通りだった。

「It is the green-eyed monster which doth mock…… The meat it feeds on」

 ほとんど同時に、カサギがつぶやいた。

「そいつは緑色の目をした獣で、与えらえた肉を……」

 イスズが冷ややかに補った。

「弄ぶ……シェイクスピアの時代の、古い英語ね」

 カサギは不機嫌に、足を速めた。


 照星高校はカソリック系の学校らしく、随所に聖母子像が掲げてあった。

 そんな廊下を急ぎ足でやってきた、上品なブレザーにスカートという制服姿の座長は、折り目正しく頭を下げた。

「すみません、こんな休日に……実はウチ、平日は練習できないんです」

「え……」

 呻いたのはナミキだった。

「だって……去年はたしか全国大会に」

「ええ」

 こともなげに頷く照星高校の座長は、体育館へと背中を向けて歩き出した。

「こちらへどうぞ。急がせてすみません、2時間しかもらえなかったんで」

 遠ざかっていくその姿を見つめながら、カサギは乾いた笑い声を立てた。

「さすが……進学校」

 

 体育館の中は、照星高校と陵高校の演劇部員しかいない。

 2時間しかないと言いながら、合同で行った基礎訓練と発声練習には30分を費やした。

 体操服の袖から覗く白い肌に汗の玉をいっぱいに浮かべた座長は、悔しそうに息をつく。

「こんなんじゃあ、全然足りないんですけどね」

 そう言うなり、それまでとは打って変わった厳しい声で鋭く指示を飛ばす。

「それじゃ、稽古始めます!」

 お願いします、と応じる声には、男子にも女子にも、限られた時間しか与えられない者の切羽詰まった響きがあった。

 舞台監督の指示で、演出とキャスト、スタッフが持ち場に付く。これこそまさに、舞台監督ステージ・マネージャーと呼ぶべき姿である。

 イスズも同じことを考えたのか、サガミの頭を小突いていた。

 演出が稽古の開始を告げる。

「ソフォクレス『オイディプス』、最初のシーンから始めます!」

「な……」

 沙の呻きに、ナミキとカサギが左右から顔を向けた。

「イサゴ?」

「オキナ?」

 名前で呼んだカサギと、姓で呼んだナミキは気まずそうに顔を背けあう。

 ナミキの目の前には、眉を寄せたイスズがいた。

 ぶすっとしてつぶやく。

「去年の文化祭でやったでしょ? 何びっくりしてんの」 


 ギリシア古典劇には、芝居を作る者が常に変えるべき、人間の原点がある。

 沙は、食い入るようにステージ上の稽古を見つめていた。

 降りしきる雨の音の中、古代ギリシャのテーバイ王、オイディプスが民草に語りかける。

「おお、テーバイよ、我が民よ……」

 才覚にあふれ、自信に満ちた王の姿がそこにある。

 今、彼はテーバイを未曽有の天変地異から救うことを約束した。

 かつて魔獣スフィンクスのかけた謎を解き、亡き先王の妻を娶って世継ぎも生した偉大な王に、恐れるものは何もないからだ。

 父を殺し、母との間に子を生した極悪人を探し出し、処刑することなど造作もないはずである。

 だが、彼は知らない。

 この災害をもたらした神の怒りが、両親を殺すまいと国を出た自分に向けられたものであることを。

 人間は、所詮、人間である。騙されやすく、欲望に弱く、それでいて自分は万能であると思っている。

 それは、かつて「成り上がりのカラス」と呼ばれた自分も同じことだ。

 たぶん、カサギもイスズも、そしてナミキも。

 

 自分の才覚で自分の罪を暴いたオイディプスが、自らの両眼を抉ってテーバイを去る。

 まだ衣装も装置もない。あるのは役者の身体だけだ。強いて言えばハコウマ箱馬と呼ばれる小さな木の箱を石や岩、椅子や階段に見立て、少しばかりの効果音を加えたくらいだろう。

 それなのに、体育館の中には古代ギリシアの風が吹き渡っているような気がした。さすがにコロス群唱までは再現できなかったようだが、これで充分だという気がした。

 座長が、体育館いっぱいに響き渡る声で告げる。

「撤収!」

 照星高校の部員たちが、一斉に片づけを始める。


 座長の見送りを受けながら体育館を出たところで、ナミキがカサギに尋ねた。

「どうだ? 納得できたか?」

「何が?」

 努めて平然としていようとするカサギが妙に滑稽で、沙はつい噴き出した。イスズも、冷ややかな声でからかった。

「ほら、笑われてるよ」

 カサギからのまなざしは、いかにも悔しそうではあったが、沙は放っておくことにした。

 オイディプスは己の才覚と権力に溺れて破滅した。オセローは、嫉妬で自分を見失って、道を踏み外した。

 この、小柄なレイアーティーズが学ぶべきことは、そこである。

 だが、カサギはやはり強がった。

「進学校だな……俺たちが去年、1か月かけた長いセリフがもう入ってるんだから」

 その目は緑色にギラついている。

 そういう問題ではない、と沙は思った。

 だが、それを口にする前に、ナミキが間髪入れずに言い返した。

「違うな」

 カサギは目を怒らせた。

「どこが?」

 イスズが言葉を継ぐ。

「ない時間を、芝居のために無駄なく使っているの。それだけ」

 味方になってほしいと哀願するかのような目で見るカサギが気色悪くて、沙は冷ややかにこう告げた。

Love's 愛はnot Time's時の道化 fool.ではない

 芝居を愛する心を、自らの詩にかこつけて歌ったつもりだったが、恋人をたしなめたように聞こえなくもない。

 ナミキはどうだったか知らないが、カサギを見る目が緑色に燃えていたような気がする。そういえば、イスズが見つめてくる目も、そう見えなくもなかった。 

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