父と娘

 マイラーノ大橋を渡ってすぐの中央広場の左手前にレッジョの冒険者ギルドはある。その建物からルロイとマティスが出てくる。正直言ってルロイは肩を落としていた。

 『はるかなるきざはし』に臨むにつき、当然ルロイは冒険者ギルドに足を運んで助っ人を頼むつもりでいたのだったが、こんな時に限って腕の立つ中堅どころ以上の冒険者が全て出払っていて、いるのは経験の浅いルーキーばかりと言う有様。『はるかなるきざはし』で通用しそうなレベルの冒険者はいないとくる。

「済みませんね、懇意こんいにしてる冒険者に護衛を頼もうと思ってたんですけど」

「別に構わん。俺一人で十分だ」

 不安そうに頭を掻きむしるルロイに、マティスは平然としてた。

 マティスの得物えものは使い古したハルバード、防具は修羅場しゅらばを幾つか潜ってきたのであろう傷だらけの竜の鱗で作った鎧。

「これまでだって、フレッチと俺、フレッチの助けが望めないなら一人でな、ダンジョンにも臨んできた。問題はねぇさ」

 軽い準備運動のように、マティスは鎧と得物をガチャリと鳴らして見せる。

「こっちもまぁ、護身用の短剣くらいなら持って来ましたがねぇ。無用な心配であることを願いますよ」

 いつも通りの仕事着の黒のケープとペンと証書、インク壺にベルトに括り付けた護身用の短剣。これから『はるかなるきざはし』に挑むにはルロイの装備はあまりに心もとないのだった。

「心配するな、奴のところに行くまではちゃんと守ってやるさ」

 素っ気なくもそう言われてしまうと、不思議と安心できてしまう。これも強者の役得なのかもしれない。二人がようやく、『はるかなるきざはし』へ向かおうと足を進めたその時である。

「おや?」

 ルロイとマティスの目の前に、一人の少女の姿があった。

 冒険者ではない。

 ごく普通の町娘であった。亜麻色の長い髪をなびかせた、まだ童顔の柔らかそうな頬はヘイゼルの瞳には涙をたたえていた。

「やっと見つけた……」

 切なく息を切らし、少女はようやくそれだけ言うと、亜麻色の髪の少女は何か言いたそうであった。それでも、土壇場で自制心が勝ったようであった。彼女はその言葉を必死に飲み下し、苦行のような悲壮な表情をだまって浮かべるのだった。

「おい、行くぞ……」

 マティスがルロイの肩を叩き、忌々しく彼女から目を反らし、躊躇ためらいなく歩み始める。ルロイが「いいんですか?」と小声でささやいたが、マティスは眼前の彼女同様に頑としてルロイの声をも無視して彼女の横顔を通り抜けるのだった。

「お父さん!」

 渾身こんしんの叫び声だった。少女は自分をすり抜けていったマティスに振り向きながら一歩を踏み出した。

「付いてくるな!」

「もう良いから、いい加減に……」

 彼女は既に涙をぬぐい、なおも背を向け歩み続けるマティスをにらみつけた。

 純然たる怒り。しかし、その語気を聞くに何か迷いに似た躊躇ためらいがあった。

「お前にとって俺はもう必要じゃねぇんだ。じゃあな……」

 それからマティスは遂に一度も振り返ることなく、『はるかなるきざはし』のある北の通りを無機質に足早に歩いて行った。ルロイが何度か振り返るも彼女はじっと何かに気づいてほしそうにマティスの背中を見つめるのだった。

「娘さん。ですよね?」

 遂に彼女がレッジョの雑踏に隠れてしまう段になって、ルロイは足早に歩みを進めるマティスに小走りで追いつき問いただした。

「ああ……だが、死んだはずだ」

「え……」

「フン、例えだよ例え」

「それはまたどんな?」

「竜騎士は究極的に自由な存在だ。俗世のしがらみに囚われてはならん……」

 答えたマティスの声色は投げやりだが、どこか威圧的で厳しかった。

 飛竜教と言う竜騎士たちが信仰する宗教がある。

 飛竜は自由と言う無限の思想であり、竜騎士は飛竜と共に大空を神速で疾駆しっくすることにより真の自由と救いを得ることができる。よって、竜騎士にとって飛竜にまたがり飛ぶのは正当なことであり、自由は竜騎士の本性そのものであり、その自由を邪魔するものはいかなる形の制約であれ捨て去るべきである。無限の自由を悟ることによって、肉体の鎖も、思考の鎖も解き放ちやがて生死の境さえ超越するとされる。

 それゆえに、宗教でありながら体系だった教義らしい教義は無きに等しい。竜騎士たちにとって正しい掟とは自由へ導いてくれるものだけだからだ。

 だから、親子のきずなでさえ時として邪魔なしがらみでしかない。

 そんな講釈をルロイがマティスから暇つぶし代わりに聞かされている内に、とうとう二人はそれの目の前まで来てしまっていた。

 ルロイが見上げると、やや灰がかった大理石のような材質の石材が恐ろしく均質に螺旋らせん状に積み上げられさながら巨大な螺旋らせん階段が天へ向かってそびえ立っている。

 他のダンジョン群同様、この構造物はレッジョが街としての歴史を歩み始めた時代にはすでにこの場所にあったのだ。

 見る者によって不遜ふそんにも天へと届く塔を創り、高慢にも神へ挑みし文明の末路を思わせる。が、人知を超えた何かが人間の限界を越えんとする冒険者を招き試しているかのようにも見える。

 その相反した不思議な印象こそが、ダンジョンに臨む冒険者がダンジョンそのものへ魅せられ未知への憧れへ突き動かされていく力となるものである。

「着いちゃいましたね、『はるかなるきざはし』」

 マティスもまた『はるかなるきざはし』の高みの果ての大空を見上げていた。

「俺は、少し前まで空に居たんだ。あの無限のような……もう追放されちまったが」

 自嘲気味にマティスが呟く。地上から遥かに高い空の青みが既に、それこそがマティスにとっての本来の故郷であるかのようであった。

「……ようやくだな。さっさと行こうじゃねぇか」

 マティスが皮肉っぽくではあるが、初めてルロイに笑って見せた。

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