終章

結.序章に繋ぐ終章


 ふわり——と。

 音もなく降りたつ気配に、ティリーアはふいと瞳をあげた。


 青い風に銀の髪を波だたせ、今にも倒れてしまいそうにひどい顔色で、クォームがそこに立っていた。

 界渡かいわたりが得意な異界に住む銀竜、ハルの友で、婚礼のときにも祝福のために訪ねてきてくれた彼は、どういう経路かでその死を聞きつけたのだろう。


 輝きの失せた青い両目は吸いつけられたかのように黒い墓標を見つめている。凍りついたように色をなくした唇がかすかに震えている。

 彼の頰に涙の跡はなかったが、ティリーアには分かっていた。


「クォーム、……来てくれたのね」


 彼女の囁くような呼びかけに、光揺らぐ瞳を傾けてクォームはこちらを見た。硝子ガラス細工のように無機質で感情の凍りついた瞳をティリーアは知っている。

 まるで、臆病なあきらめが心を殺した、遠い昔のわたしのよう。

 その凍った涙をかしたのは、太陽よりも熱い彼の愛。

 ティリーアはふんわり微笑んだ。無理などしなくても、それはとても自然に簡単にできた。


「クォーム、あなたにも教えてあげる」


 言いつつ、ゆっくりとそばに歩み寄る。

 消えてなんかいないわ。わたしはそれを知ってる。何より輝く恒星が、囁きかける愛のことばを。

 日ごと降りくだる幾千の光のかけら。高く広げた両手に降り積もる。

 その音に耳を澄ませれば。


「聴こえるわ。クォーム……あなたにも聴こえない?」


 虚ろな瞳がティリーアをとらえた。風が通りすぎて銀の髪を揺らす。黒い墓標を覆って広がる、丈の高い草の葉をさざめかせて抜けてゆく。

 両のてのひらを耳にかざし、目を瞑って、彼女は確かに聴いていた。


「あなたにも聴こえるはずよ。……だって、大気に、大地に、わたしはあのひとの魔力いのちを感じることができるもの。これってとても素敵なことじゃない?」


 ——途端、見開いたきりだったクォームの両眼から涙があふれた。

 まるで子供のように。地球ほしの色の目からあふれて落ちる透明な雫。絶望にも似た悲しみを溶かした涙は、傷口からあふれる鮮血よりなお痛い。


 でもね、クォーム。

 ひとしきり泣いて、心の傷を洗ったあとは、心を真っ白にして聴いてほしいの。


「わたしは彼を愛してる。それは今だって、変わらないわ」


 過去形で終わった、想い出などではなく。


「いつまでだって待つわ。いつハルが、帰ってきてもいいように」


 クォームが濡れた瞳をあげて、ティリーアをまっすぐ見た。


「永遠に……?」

「いいえ、無限によ」


 柔らかく微笑んで、ごくあたりまえの声で、ティリーアは答える。クォームの瞳が揺れて、彼はひどく頼りなげに笑った。


「ティリーアはハルを、愛してるんだね。ほんとにほんとに、愛してるんだ」

「ええ、もちろんよ」


 クォームが笑った。先ほどよりもずっと現実味のある表情かおで。


「オレ、時々はここに来ても、いいかな。いろんなこと、ハルの代わりに知らせに来ても、いいかな」

「ええ。ありがとう」


 嬉しそうに応じるティリーアを見て、彼は安堵あんどしたように笑った。そして心残りなふうに数歩、後ずさって言った。


「また、来るよ」


 言葉と同時に風に乗る。世界を渡る魔法を唱えた直後に、彼は叫んだ。


「ありがと! 教えてくれて! すごく、嬉しかった……!」


 答えを返す間もなく彼は、次の瞬間には消えていたが、ティリーアは視界が涙で霞むのを感じた。


「あなたも、会いにきてくれてありがとう」


 不器用な彼の優しさに、心が震える。

 さみしくなんかないわね。クォーム、あなたのおかげね。

 嬉しくて、わずかばかりせつなくて、ほんの少しだけ彼女は泣いた。






 あたし、今になってようやくわかったんです。

 ハルさまが兄さまの望みを聞き入れてしまったのはなぜだろうって、ずっと考えてました。

 兄さまが反逆者になって、赦されて、……それがあの、赦された海賊たちと同じだって、今になってわかりました。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 謝ったって、赦されることじゃないのはわかってます。でも、あたし、もうどうしていいかわからなくて。……ほんとうに、こんなことに、なってしまって。




 時間の流れも曖昧な日々の中、訪ねてきた二人の女性を思い出す。

 顔を合わせるなり泣き崩れてしまった少女と、悲しげに瞳を曇らせ深く頭を下げた女性と。




 ハル様は、どこまで知っておられたのでしょうね。

 私、エティカちゃんを託された時あの方と言葉を交わしたのに、全然気づくことができなくて。

 あの方は、私に言いました。

 自分の不幸を呪って、その原因を転嫁してしまうのは簡単なことだ。

 それでも私は人間きみたちに、運命と闘うことを願いたい。不幸に甘んじるのではなく、精一杯できることを行なって、未来を切り拓いてほしい。

 そうジェラークに、伝えて欲しい。

 と。

 これは罰なのかもしれません。

 断罪されるのではなく認められてしまったゆえに、彼はもう逃げることなんてできない。

 だから私も、彼の運命に寄り添おうと思います。

 もしかして彼がすべてを失うことがあっても。誰もが彼を見限っても。最後に残るのが私でも。

 私だけは、最期まで彼と一緒に。






 あなたは何の言葉も残さずってしまったから。

 ほんとうのところ、あなたが何を考え、何を願っていたか、知ることはもうできないけれど。

 あなたが決して、人族にんげんと、この惑星ほしを見捨てたのではないことも。

 わたしを裏切ったのではないことも。

 わかっているわ。

 形にすると言葉なんて、真実ほんとうでも偽善いつわりのようになってしまうから。あなたはたとえ後代に非難されると知っていても、沈黙を貫くことにしたのでしょう。

 シエラもきっと同じ思いで、あなたの名を伝説の中に風化させたのでしょう。

 まるでそれは——風が運んで散らす砂漠の砂のよう。

 でも、あなた。

 人間の中には、あなたの想いを知ろうと願うひともいるの。

 今だって。

 これからだって、きっと。



 太陽と月は逢うことができるのよ。

 真昼の白い月。

 夜にだって、太陽は輝いている。

 月が照り返す幾許いくばくかの魔法。

 見えなくたってそこにるなら、感じられるわ。

 だから、いつだって逢えるわよね?



 ねえハル。あなたの言ったとおりよ。

 日ごと、夜ごと、わたしに降るあなたのこころ

 手を広げると、あたたかくて。

 夜のさむさを防いでくれる。

 だからきっと。

 永遠の愛はここに、るわ。——いつだって。



 ねえハル、聴いて。

 素敵な知らせを今日、クォームが伝えてくれたの。

 ちいさな竜の子を連れてきてくれたの。

 名前はファイア。

 勇気を運ぶ、ちいさな炎の竜。



 ねえ。

 いつかあなた、その大きな手であの子の頭を撫でてあげて。

 あの子にも、言ってあげてほしいの。

 わたしに言ってくれたように。

 愛しているよって。

 ……ね?

 あなた。







 ——…‥・ 第二部 完

 


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