〈外伝三〉儚き泡沫の言葉


 ——たとえば。


 雨降らぬ荒野にて草木を潤す夜露のごとく、茫漠ぼうばくと荒んだ心を潤し癒すことができるなら。

 朝日の輝きとともに儚く消える朝露のごとく、たとえ誰にも存在をおぼえられないとしても。

 最後の『心』として、ここにること。

 最後の良心として――祈り続けると。

 それがおのれで捧げた誓いならば。

 この身が存する限り。





 背後から流れる風が細い髪を舞いあげる。輝く水色の髪は、ひとにあらざる者の証。少年とも少女ともつかぬ優しげな顔立ちと、憂いを帯びた水珠玉アクアマリンの瞳。そして不安定に細い身体。

 眼前に広がる濃いグラデーションの蒼をその淡色の瞳に映して、幼い竜族の子供は、ふっと短く息を抜いた。


「みらいを、」


 瞬く睫毛まつげに、雫が散る。


「ください――」


 涙とともにたむけた祈りを。紺碧の海に捧げた涙を。

 受けとるものが居たかは――。




「アルティア……?」


 そう、呼ばれた。

 振り向く視線の先には、短い黒髪を潮風に荒く掻き混ぜられた、大柄の海賊が突っ立っていた。

 常に不遜ふそんな光を瞳に宿す彼が、しかしなぜかアルティアに話しかける時だけ、どこか頼りなさげな弱さを瞳によぎらせる。

 手負いの獣のような、捨てられた子供のような瞳。

 そんな具体的なことまでは解らなくても、彼がその内になにかとてつもない闇を抱えていることは気がついていた。

 もとよりアルティアは口数が多い子供でもない。

 その上、親を失ってから、記憶に魔法をかけられてから、この海賊と逢ってから、自分はきっと言葉も未来も見失った。

 絶望とよく似た、喪失感。

 けれど、うしなったものを埋め合わせるため、この海賊とともに来ることを選んだわけではない。

 なにより、彼が自分からその全てを奪ったのだと、とうに気づいている。

 でもだから。だからこそ。


「なに? ……エフィン」


 無邪気にアルティアは笑う。

 それはどこか滲みだす痛みを封じるための、造り笑いに似ている。

 海賊が、エフィンが、どこかに視線を逸らそうとした。しかしそれは成功せず、視線がぶつかる。


「おまえ……なんで、この船に、乗り込んだ?」


 アルティアは、ふわと笑う。弾みに、まなじりから雫がまた、こぼれた。


「ほかにもう、いくばしょがないよ」


 ――あのしらせを、聞いて。

 自分は、泣くことすらも赦されないと思った。

 自分があの兄妹と出会わなければ、悲劇は起きなかっただろうから。


「あなたをりくにしばりつけたひかりのおうは、もういないから」


 これは、償いだと。それは誓いか――宿命か。

 エフィンの瞳に光が揺れた。


「……済まねぇ」


 アルティアは目を見開く。この、傲岸不遜ごうがんふそんな海賊王の口から発せられた――それは、まぎれもない謝罪の言葉。


「いまさら生き方を変えるつもりはねーよ。だが、おまえとあの光竜にだけは、謝っとかなきゃ俺の気が済まねえ」


 ――その、同じ悔恨が、アルティアの心に突き刺さる。だから、


「もう、かえらないから」


 じんわりと、また涙が滲みだした。


「あやまったって、ないたって、もう、かえってこないから――いいの」


 エフィンは黙って瞳をすがめる。

 アルティアの言葉は語彙ごいが豊富なわりに、たどたどしくて、抑揚よくようがない。

 はじめて逢ったときからこの子は話すことをしなかった。父親が目の前で殺されたショックか、それとも元からなのか――それはエフィンの知るところではない。

 しかしもしも前者なら。


「俺が、おまえを」


 エフィンは顔をあげてアルティアを見る。


「おまえはおぼえてねえかも知れねーが、俺はおまえの親父を」


 アルティアは大きく目を見開いた。


「うん。しってた」

「――おまえッ、知っててついてきたのかっ! なんでだ!?」


 思わず声を荒げるエフィンに、アルティアは三度みたび、笑った。


「それが『ちかい』だから」


 その一言にエフィンは、返答を失って息を呑む。

 幼いながらにいだくその言葉の重さに、気がついたゆえに――。






 竜族が親子で同じ属性というのは珍しい。アルティアの父も水竜だった。


『決して村の者に手出しはさせない』


 粗暴な海賊たちを何十人も前にして、一歩も退かず立ち塞がった。

 おのれの身が滅びた後も決して消えることのない、守護結界。それを背にして立つというのがどれだけの覚悟か、エフィンに解らなかったわけではない。


 その高潔さは竜族を憎んでいたエフィンにとっては、より一層憎悪を駆りたてるものだったから。

 ――手を下したのは自分だ。

 アルティアはその時、同じ場所に居た。結界の中で一部始終を見届けていた。

 それがどんな意味を持つのか、この父子おやこの間でどんなやりとりがあったのか、エフィンに知る由はない。


 父の命が尽きる瞬間に、結界の中から駆けだしてきた小さな水竜の子。投げだされた細い手にすがって泣きじゃくる幼子おなさごに、その時は何の憐憫れんびんもわかなかった。

 聞きつけて飛んできたシエラがその様子に愕然がくぜんとしていたときも、卑屈なあざけりしか心に浮かばなかった。

 心が壊れてしまわないようにとシエラが記憶を消したはずなのに。


 エフィンは無言で唇を噛む。

 記憶を失っているこの子供を動かしているものが一体なんなのか、エフィンには理解できない。常ならばそういった不可解な感傷をひどく厭わしく思うのだが、しかし、今は違った。

 胸に迫りあがるのは、憐憫れんびん。そして悔恨かいこん。それはエフィン自身がはじめて覚える感情であり、どう処理すべきか解らない。

 エフィンは、眉間にしわを刻んで目を伏せた。そしてきびすを返す。

 遠い記憶のはじまりに、自分を見つめるシエラの両眼に映っていた感情を、その時はじめて理解したような気がした。

 誰かが死ぬことのかなしさを、はじめてったような気がした。





 肌にまとわる潮風が、甘い記憶を呼び起こす。


「ばかだよね――きおくそうさって、すいりゅうになんて……」


 伏せた睫毛を濡らすは、透明な光のかけら。その雫の一つ一つ、流れる潮の香混じりの湿気すべて、封じられた記憶とあまりに近しくて。


「とうさん」


 てのひらの中で永遠に失われた温もりが、哀しいほど懐かしくよみがえる。

 魂に刻みこまれた深いつながりを魔法ごときで断てるわけがないと、悔しいから教えてなんかやらない。

 彼らが気づかなくても、託されたものはここ、てのひらの中に存在している。カタチなど無い、それでも確かに託された『誓い』――それが父の最後の魔法だった、忘れるわけがない。

 そしてその上に重ねられた、もう一つの誓い。


「もっとはやく、あえてたらよかったのに、ハルさま」


 誰に、とは言わない。叶わぬのぞみをいまさら口にするのは悲しいだけだ。

 変えられぬ過去を嘆くことよりも、今は。


「みらいをください」


 とうさん、ハルさま。二人の願いを知っているから、それを叶える力が欲しい。

 二重の意味を持つ、誓い。

 おのが小さな身には重すぎるなどと、アルティアは考えない。そういう考え方をまだ知らない。

 願いはただ一つ。


「ぼくとおなじ、かなしいおもいをするひとが、ひとりでもすくなければいい」


 そのためになら、どんなことだってすると誓った。

 どれほど容易ではないか、知っている。けれどそれ以外にどうやって、生きる意味を見つければいいと言うのだろう。





 甲板の小さな後ろ姿に、シエラは思わず足を止めた。

 逃げるように海に出たエフィンを追って、魔法を駆使してわざわざ追って来たというのに、甲板にいるのは船の主人あるじでなく小さな竜の子。

 無論、彼への用事はこの子に関してなわけで、無関係ではないのだが。


「アルティア、エフィンは?」


 引け目があるため、語調がどうしても遠慮がちになる。アルティアは振り返り、黙って首をかたむけた。

 淡い色の瞳に揺れる、光。シエラの両眼が険しくなる。


「泣いてんのか? アルティア、そうまでしてなんでこいつの所に居る!?」

「ちがう、なにかあったわけじゃない」


 淡々と答えるアルティアを見ていたらどうしようもない気分が込みあげてきて、シエラは泣きだしそうに表情を歪めた。


「解らねえよ、坊や。おれが奴を放りだせねえのは、おれがあいつの命を拾った当事者だからだ。でもおまえには、そんな義理ないだろう?」


 小さな水竜は瞳を伏せ、ふわりと笑った。


「ちかったのは、ぼくもおなじ」


 その言葉がシエラの思考を奪う。驚愕きょうがくに固まる銀河の竜を見あげ、アルティアはうっすらと目を伏せ言った。


「あまくみないで」


 氷片のように澄んだ幼い声が、淡々と言葉を重ねる。


「ぼくはかれを、にくんだりしない。ぼくはとうさんのねがいを、かなえなくてはいけない。ひかりのおうのため、いきるかぎりつぐなわなくてはいけない」


 そのつよさに、シエラは言葉を失う。そうして、自分が抱く罪悪感と同じものをこの子自身も抱いているのだと、気がついた。


「アルティア」


 もしもこんなとき、ハルならばなんと言うのだろうか。そんなことを思いながら、心の中に生まれたのは儚い、祈り。


「ハルは未来に希望を託したんだぜ、坊や。あいつは今でさえ、人間ひとを信じて、愛してる」


 アルティアが驚いたように目を見開いた。


「あいつがおまえに負わせたのは、そんな重いものじゃない。償いの人生なんてハルは望んじゃいねえよ。そしてそれは、おまえの父さんも同じじゃねえのか?」


 黙ってじっと聴いていたアルティアの瞳から、あふれた涙がこぼれ落ちる。

 その透明な雫こそが人の心を癒してゆくのだとは、気づかぬままに。


「だから、どうする? アルト」


 精一杯の、シエラの優しい問いかけに、アルティアは泣きながら笑った。そして濡れたその笑顔で、言ったのだった。


 ぼくはやっぱりかれのそばにいる、と。






 床に複雑な魔法文字を描いてゆくアルティアを、エフィンは黙って見ている。


「僕、水竜であることを捨てる」


 なぜかと問うたシエラに、竜族の名を汚すのは嫌だと答えて、やっぱりアルティアは笑った。

 この子は自分とともに生涯を過ごすつもりなんだな、と思う。

 竜族が嫌いだった。自分は竜族に厭われているという自覚もある。それゆえに、連なる者を苦しめることで自分を誇示してもいた。

 だが今は自分自身でも気づかぬままに、この水竜の少年をいとおしく思っている。

 それがの王ののぞみに繋がる予兆であるということなど、知るはずもなかったが。


「アルト」


 呼ばれて、アルティアは瞳をあげる。


「本当にいいのか?」


 彼らしからぬ言葉に、アルティアははっきりとうなずいて答えた。


「僕が竜を捨てるのは、エフィンとともにるため。僕がエフィンを離れるときは、僕の命が尽きるとき」


 それはそのまま、描いた魔法文字が意味する言葉。完成した魔法陣の真ん中に立ち、アルティアは傲然ごうぜんあごをあげ、まっすぐを見つめる。

 はじめて逢ったときより、背も伸びた。言葉もすっかり取り戻した。

 それはすなわち、心の成長でもある。


われ、等しき代価をもって力を望む、すなわち『妖』にたぐう魂の力――」


 呼応して、くらい炎が魔法陣から立ちのぼる。それがおのれの身を呑みこむのを、甘受かんじゅする。

 妖力を身に受けるということは竜の魔力を失うということ。それは、水竜の証たる水色の髪が闇の黒に染まるということ。

 まったく抵抗が無いと言えば嘘になる。

 この水竜としての魔力は父から受け継いだ、いわばおのれの血の証。それを永遠に消し去るということなのだ。

 そうだとしても、父より受け継いだ誓いが消えてしまうわけではない。


「あなたと、共に生きたい」


 死も生も、すべてを捧げるのは竜をも恐れぬ海賊王。彼の心を得るためならば、いかなる闇にも染まる覚悟はとうにできている。

 肩口へと落ちる闇色の髪を払いのけ、アルティアはまっすぐ立ってエフィンを見返った。

 その双眸だけは、変わらぬ水珠玉の光を映して。




 捧げた誓いは、いつだってここに在る。

 途切れた未来と引き換えて、今は、永遠に魂を捕らえたままで。






 END.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る