編集 第九章 その1 おまつりミュージアム
「ふう、なかなか良い感じですね」
すでに照明のほとんどを落とした館内ロビーで、私は額の汗をぬぐいながらにやりと口角を上げた。
「香川の食材探訪、本当にうまくまとまっている」
館長も赤く火照った顔をにこりと笑わせる。この日、閉館した後も職場に残っていた私たちは倉庫に眠っていたキャスター付きのパーテーションを引っ張り出し、そこに何枚ものポスターを貼り付けたのだった。
ポスターの内容はカンカン亭で使われている県内産食材の紹介だ。香川県を描いた巨大な地図の各所に、小麦やミカン、ブロッコリーなどの名産品が写真とともに紹介されている。さらに料理長が実際に魚市場を訪ねる場面の写真もいっしょに載せて、食材がこだわり抜いて選ばれていることも追記している。
これを最初に聞いた時、営業の男性はカンカン亭の宣伝にもなるからと快く引き受けてくれた。
営業さんの仕事の速さには驚く。すぐに料理長と上司に話を通し、畳一枚分でもはみ出してしまいそうな大きなポスターをわずか1週間ばかりで完成させてしまった。
閉館後はスタッフ総出での当たったのだが、設営夏本番の8月に突入したとあって冷房を切った館内はあっという間に蒸し暑くなってしまった。パネルを出して貼り付けるだけなのに、全員汗まみれのずぶ濡れで、一刻も早く着替えたかった。
今日は遅くなるとわかっていたので、里美さんの子供も今日は旦那さんが代わりに保育園まで子迎えに行っている。今頃家では、お父さんと子供がスーパーで買ったお惣菜をつついていることだろう。
「あつーい。喉もカラカラ……」
ちょっとお茶でも一杯、と私が事務室に向かった時だった。突如、池田さんが「おい、あれ!」と大きな声をあげてガラス張りの自動ドアの外を指差したのだ。
黒の背景に輝く星々を散りばめた夏の夜空。そこに大きな花を開かせる、赤と緑と黄の色彩の炎。
誰もが「わあ」と感激の声を上げ、足を止めた。打ち上げられる巨大な花火に、自分たちが疲れ切っていることさえも忘れてしまった。
「そういえば今日だったね、花火大会」
館長がしみじみと呟く。毎年恒例、商工会と市が共同で開催している花火大会だ。近隣でもそれなりの規模で、県外からも多くの見物客が押し寄せる船出市きっての一大行事。
「すごい、おっきく見える!」
仕事を終えたテンションのせいか、思わず子供のように歓声を上げてしまう。
「まさかここが穴場だったなんて、気付かなかったなぁ」
頭に巻いたタオルを解きながら、シュウヤさんも打ちあがる花火を眺めていた。この博物館は高台にあり、打ち上げ場所の港まで何も遮るものが無い。博物館は夜になれば駐車場も閉鎖されるので、部外者が立ち入ることも無い。花火を自分たちと同じ目の高さで眺められる、絶好の鑑賞スポットだった。
「そういえばまだ夏らしいこと、何もやってなかったなぁ」
だが美しく開いては消える花火を見ていると、もの悲しさも感じ始めてくる。あんなに夏と言えばお祭りにプールにと楽しみに溢れていたのに、今の私はそんなこと考えることさえ忘れていた。今日の花火大会も高校生の頃は友達とのつながりを深めるイベントとしてクリスマスにも並ぶ存在だったにも関わらず、である。
どこか遠出したのも、せいぜいこの前2つの博物館に行ったくらいだ。土日出勤は必須となれば休みはもっぱら平日。昔からの友達といっしょにどこかへ行くにも休みを合わせるのが面倒で、いつの間にか遊びに誘うことも気が引けるようになっていた。
「そうだ、ちょっと待ってな」
何か思いついたように、池田さんが事務室奥の給湯室に引っ込む。そして両手の指にはさんで持って帰ってきたのは、数本の瓶詰のラムネだった。
「前に箱ごと買って冷蔵庫で冷やしてたんだけど、自販機にコーラが入ってから飲まなくなっちゃったんだ。せっかくだし飲もうぜ飲もうぜ」
要は余りものか。しかし日本の夏らしいアイテムではあるし、何より喉がカラカラの私には天からの恵みにも思えた。
「ありがとうございます」
受け取るなりキュポンと栓を抜き、へこんだ瓶をぐいっと傾ける。炭酸が舌の上でシュワシュワと跳ね、骨の髄まで清涼感が疾走する気分だ。この暑さからの涼しさが、夏の醍醐味なんだよね。
「あずさちゃんは夏休みどこか行くの?」
館長の質問に、私は瓶を口から離して「まだ決めてないです」と答える。
うちの自治体では私のような非正規雇用の職員にも3日間の夏季休暇が付与される。これは7~9月の間に使用せねばならず、休み過ぎて人手不足にならないよう職員同士がシフトを調節しながら取得する。
今年、私はシフトの関係で平常の休日と夏季休暇を組み合わせ、8月末に5日連続のお休みをいただくことができた。社会人になれば5連休なんて滅多に無い、気分を晴らしに遠くまで旅行に出るのはみんな考えることだ。
「里美さんはどこか行くのですか?」
「ええ、子供がずっと行きたがっている大阪のテーマパークに」
少しずつラムネを飲んでいた里美さんが返す。すかさず目を光らせたのは池田さんだった。
「大阪なら子供連れて楽しめるおすすめの観光地たくさんありますよ」
大阪のことならどんとこい、とでも言いたげな自信にあふれている。そう言えば池田さんは大阪の大学を卒業してから3年ほど、ソフトウェア開発会社でシステムエンジニアとして働いていたらしい。その後地元船出市の公務員試験を受けて採用されたそうだ。
「本当? 是非教えてくださいます?」
里美さんもすぐにスマホを取り出した。池田さんオススメスポットを調べるようだ。
「シュウヤさんはどうするのですか?」
「俺は教授に直接研究報告しに行きたいから、東京に行くよ」
答えたシュウヤさんはすでにラムネを飲み干していた。
「東京かあ、いいなぁ」
「行ったことあるかい?」
「はい、高校の修学旅行以来ですが」
あれは2年の頃だから、もう3年前の話か。修学旅行では友達と一緒に浅草を巡ってスカイツリーに上り、そして某夢の国で丸一日遊び倒したのが楽しかったなぁ。スカイツリーの上から大都会を見下ろしていたみんなの横顔が、今でもはっきりと思い出せる。
あの時いっしょに東京を歩いた子たちも今、同じ花火を見ているのだろうか。
「ただいまー」
「おかえり。疲れたでしょ、ご飯準備してるから食べなさい」
家に帰った私を迎えてくれたのは、母の声と取り分けてもらっていた晩ご飯の残りだった。こう遅くに帰っても自分で夕食の準備をしなくてよいのが実家住まいの有難さだ。
「お母さん、花火見た?」
よっこいしょと椅子に座る。すぐさまお母さんはあつあつの白ご飯をよそってもってきてくれた。
「ええ、2階からお父さんといっしょに見てたわ」
いつまでも仲の良い夫婦だ。この家が平和なのは、ひとえにお父さんとお母さんの仲の良さのおかげだ。
「職場からもすごい綺麗に見えたんだ。居残り作業終わったらちょうど始まって、つい見入っちゃった」
「おおらかな職場でいいじゃない」
母は温めた味噌汁も私の前に置く。おかずは旬のナスとひき肉の甘辛炒め、ご飯が何杯でも進んでしまうクセになる味だ。
「いただきまーす」
さあ待ちかねたご飯を前に、私は箸を持つ。ちょうどそこで母も椅子に座り、リモコンを押して居間のテレビを点けた。
「暑い夏、そんな時は博物館めぐりはいかが?」
突如響いた声に私はびくりと跳ね上がり、そしてほっと小さく息を吐いた。
テレビのナレーションだ。それなりに人気のある芸人コンビをリポーターに据えた、各地の観光地を巡っている当たり障りのない内容の長寿テレビ番組だった。
「上野公園には東京国立博物館、国立西洋美術館、国際子ども図書館など多くの文化施設が密集しています。外を出歩くにも辛い夏、冷房の利いた館内で涼みながら先人の偉業に触れてはいかがでしょう?」
「行ってみたいわねえ、東京」
テレビ画面の摩天楼を瞳に映し、母がぼそりと漏らす。
「お母さんどこ行きたいの?」
「一度でいいから銀座に行ってみたいわ。それにほら、あの子3年生になったら受験だし、大学を下見させておきたいのよね」
ああ、そうか。私には考え吐いたことさえ無かったが、弟には受験先として自分の進路を定めてもらいたいのだろう。
弟はおそらく大学受験のため、この家を離れることになる。どこを受けるかまでは明確ではないが、東京には魅力的な大学が数多く集まっている。偏差値やネットの評判だけでなく実際に肌で学校の雰囲気を感じてもらいらいのが、母なりの親心だろう。
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