第四章 その3 新顔ミュージアム

「よろしくお願いします」


 平日朝の開館前の博物館、ボランティアの皆さんを前にロビーで頭を下げるのは悠里乃ちゃんだった。数日前までは被っていたニット帽も今は外し、一度も陽に当たったことの無いような深く長い黒髪をだらりと垂らす。


 定年世代がほぼ全員を占める博物館ボランティア、お爺ちゃんたちは驚きながらも突如加わることになった若い女の子を拍手で迎え入れた。


 おそらく一番驚いているのは他でもない私だろう。事務所で印鑑を手にしたまま、ロビーの方に顔を向けてあんぐりと固まっていた。出勤簿に印鑑を押そうとしていたのに、それすらも忘れてしまっていたのだ。


「おんやまあ、かわいらしい子だこと」


 メンバーのお婆ちゃんが、まるで久々に再会した孫を前にしたように悠里乃ちゃんに話しかける。悠里乃ちゃんはほんの少しだが、ふっと笑った気がした。やはり年齢が離れている方が、この子にとっては気が楽のようだ。


 ケーキ屋で話し合ったあの夜、てっちゃんは悠里乃ちゃんに博物館ボランティアに参加してみたらどうかと提案したらしい。悠里乃ちゃんは2、3秒黙ったまま考え込むと、その後静かに首を縦に振った。明くる日、てっちゃんからの電話でそのことを知らされた私は、電話越しに「ぎょへ!?」と乙女にあるまじき声を吐き出してしまった。


「シュウヤさん、大丈夫……でしょうか?」


 私は近くの机でパソコンを開いていたシュウヤさんに、おそるおそる尋ねた。シュウヤさんは一晩の間に受信ボックスにたまっていたメールを確認しながら「うーん」と唸り、いまひとつ歯切れ悪く口にする。


「それは悠里乃ちゃん次第だけど、館長もいるから大丈夫……たぶん」


 博識なシュウヤさんも精神医学や臨床心理学には詳しくない。私たちの周りでそういった分野に最も詳しいのは、元教師の経歴を持つ館長だ。


 その館長はというと悠里乃ちゃんが博物館ボランティアに加わると聞いた時、「それはいいことだ!」と手放しで賛同したのだった。


「じゃあ悠里乃ちゃん、早速だけどこれ手伝ってくれない?」


 自己紹介が終わると、数名のお婆ちゃんが悠里乃ちゃんを事務所内の会議室に連れ込んだ。


 悠里乃ちゃんが不登校であることは市民団体の全員が知っている。悠里乃ちゃんにはその件は聞き及んでいないと思うが、館長が事前に伝えていたのだ。加えて学校の話題は出さないこと、学校に行けと強要しないことを全員が共有していた。腫れ物に触る様な接し方になってしまうが、今の悠里乃ちゃんのことを考えるとこうする他無い。一番つらいのは悠里乃ちゃん自身、そしてどうにかしなくてはと思っているのも彼女自身なのだから。


「何をするのですか?」


 ややぼそぼそとした話し方の悠里乃ちゃんだが、お婆ちゃん相手では異常と言うほどではない。


「ゴールデンウィークに向けて展示を新しくしているんだ。昔の生活のようすを再現したジオなんちゃらを作ってるんだよ」


「ジオラマのことですか?」


「そうそう、そのジオだよ」


 最近、ボランティアの皆さんが作っているのは塩田のミニチュアだ。


 船出市といえば1に塩田2に工場。公式マスコットキャラにえんでんおじさんが採用されるほど、塩田は地域の歴史と密接にかかわっている。


 ではその塩田には、大きく分けて揚げ浜式と入浜式の2種類があることはご存知だろうか。


 一般的に塩田と聞いてイメージされるのは揚げ浜式だろう。海水を汲み上げて木桶で運び、固めた泥の上に敷き詰めた砂地に向けて振り撒くあれだ。この方式は平安時代の頃より全国各地で見られた大変古いもので、特に石川県の能登半島では現在も伝統産業として継承されている。


 一方の入浜式は潮の干満差を利用して海水を塩田に引き込む方式で、地形と気候の関係上その分布は瀬戸内海沿岸部に集中している。時間とともに自動的に海水が流れ込んでくるものだから、わざわざ木桶で海水を振りまく必要もないため、効率もはるかに良い。


 だが入浜式塩田の構造は複雑で、図で示してもわかりづらい。海水の浸透に毛細管現象が応用されている、なんて言われてもピンとこないだろう。


 そこに着目した市民ボランティアは、元大工のお爺さんを中心もDIY部隊がゴールデンウィークまでに実物をミニチュアで再現しようと計画しているのだった。長い職業生活で培った技術はいかんなく発揮され、大きな土台を作る人がいれば、細工のように小屋を作ってしまう人もいる。


 そんな大活躍のお爺ちゃんを応援しようと、お婆ちゃんたちはそのミニチュアを彩る人形や小道具を粘土や発泡スチロールを用いて作成していた。こちらは裁縫などの家庭生活で培われた手先、そこから生み出された人形は見るからに手作りだが、穏やかな味わいを漂わせていた。


 悠里乃ちゃんもお婆ちゃんに加わり、人形作りに取り掛かる。てっちゃん曰く人を相手にすると疲れるが物を相手にするといくらでも大丈夫とのことだが、さすが兄、妹のことをよくわかっている。


 自ら口を開くことは少ないものの、お婆ちゃんの楽しそうな会話に頷きながら、黙々と手早く、しかも丁寧にミニチュアの小道具を完成させていく。その仕事の細かさに裁縫が趣味だというお婆ちゃんも「あらまぁ」と驚いていた。


「悠里乃ちゃん、あなた上手ねえ。パッチワークもすぐ覚えられるんじゃないかしら」


「そう……ですか?」


 あまり褒められ慣れてないのか、苦笑いで返す悠里乃ちゃんに他のお婆ちゃんも「ほんとだわ」「うちの孫にも見習わせたい」と口々に乗っかっていた。


 はははと笑う悠里乃ちゃん。彼女なりの愛想笑いだろうが、不思議と私にはそれが表面上だけのものとは思えなかった。




 その日、帰宅して夕食を終えた私は自室のベッドに寝転がると、てっちゃんに電話をかけた。


「悠里乃ちゃん、様子はどう?」


「自分から話すことはないけど、結構楽しめたみたいだ」


 スマホから聞こえるてっちゃんの声は、どことなく明るかった。そして私はようやくほっと一安心する。今日一日、悠里乃ちゃんにとって辛くなかったか心配でたまらなかったのがようやく解放された。


「あれはきっと明日も行くな。だからよろしくな」


「うん、でも何かあったらすぐ迎えに来てね」


 てっちゃんも「わかった」と強く返事した時、部屋のドアが乱暴にノックされる。


「姉ちゃん、姉ちゃん!」


 弟だ。私はスマホを手にしたままベッドから起き上がると、重い足取りでドアまで向かい開ける。そこで待っていたのはキラキラと目を輝かせる弟の智則だった。


「ちょっと替わってよ」


 弟が手を伸ばす。私は無言でスマホを差し出すと、弟はそれを奪い取るように私の手からはがすとすぐさま耳に当てた。


「もしもし、てっちゃん?」


「おう智則か。どうだ、部活の調子は?」


「バッチシだよ、6月の大会に備えてゴールデンウィークは練習試合やるんだ」


 ふたりの会話は気の合う年の離れた男子そのものだ。てっちゃんも中学、高校とバスケ部に所属していた身だ、現役バスケ部員の弟のことを誰よりも理解しており、弟にとっての良き相談相手となっていた。


「あと聞いたんだけど、最近悠里乃ちゃん博物館に来てるんだって?」


 だが今日はいつもとは話題が少し違うようだ。


「ああ、楽しそうだぞ」


「実は部活の友達にさ、すっげえ歴史オタがいるんだよ。そいつといっしょにゴールデンウィークの部活休みの日に、博物館に行っても大丈夫かな?」


「大丈夫だとは思うが……見かけても話しかけない方がいいな、そこは気を付けろ」


「わかったよ!」


 てっちゃんからの返事に明朗に答える弟。同時に弟はそのキラキラとした両目を私に向けた。


 行ってもいい?


 無言ながらに弟は明らかにそう尋ねていた。


 良き姉ならここで「ええ、いいわよ」とで年上の度量の広さを見せつけるのが大概だろう。だが私はそこまで人間もできていないし、自分が働いているところを身内に、よりにもよってこいつに見られるのはあまりにも気が進まない。


「来るんなら私が休みの日にしてよね」


 ため息交じりに私は答えると、弟は「もちろん」と頷いた。

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