31.ご老中様、二一世紀を見聞す

 人間は驚きの表情で固まったまま、歩くことが出来るのだなと俺は思った。

 田沼意次がそうしているので。それでもヌルヌルとスムーズに歩く。

 

 一応、事前に二一世紀がどんなところかというのは知っているはずだ。

 街中の映像も見せたし、江戸に存在しない自動車、電車、建物などの説明もした。

 パソコンを始め二一世紀の科学には触れている。

 それでもそれを実現した「世界」を直に目にすれば驚くだろう。

 

 ときどき「ぬぅぅ――」とか「おおおッ」という声が漏れる。

 叫ぶことはない。

 ただ、その驚きの声の中には、理解不能から来るような「恐怖感」は感じられない。

 純粋な好奇心みたいなモノがにじみ出ていた。


 ご老中様の二一世紀見学コースは、俺の自宅から出て歩いて鮒橋駅周辺を巡って帰還する予定だ。

 それが、アパートのドアを一歩出た瞬間から驚愕の表情を固めたままなのだった。


 アパートの前の通りを小型のトラックが走りっていった。徐行と言っていい速さだ。

 歩道と車道の区別のない細い道で、チラホラと人が歩いている。それで速度を落していたのだ。

 俺の住む鮒橋市の道路事情はかなり悪いので、珍しくはない。


「土岐殿」


 田沼意次が、小さな声で俺に話しかけてきた。


「なんですか? 田沼様」

「あれが、鉄でできた#機巧__からくり__#の車か……」

「ええ、そうです」

「なんとも、大きく、速いものだな」

「速いですか……」


 俺は去っていくトラックを見ながら言った。

 時速三〇キロ程度しか出していない感じだった。


「しかし、あの様なモノが出来ては、馬子や駕籠かきは#生業__なりわい__#を無くしてしまうのぉ」

「いきなり、あんなものは出来ないですよ。日本でも『車』がこれだけ多くなったのは五〇年くらい前からですよ」

「一八〇年後ということか……」


 一八世紀の日本の交通、運輸は海路、水路が中心だ。

 江戸の街や大阪も運河や川を利用した水路中心となっている。

 そして、田沼意次も印旛沼を干拓して、運河を作ろうとした。

 もしそれが出来れば、房総半島をくるっと回って東京湾(江戸湾)に船をいれなくとも、北方の物産を輸送できる。

 経済や輸送効率を考えれば、悪くないが、着工した時期が最悪だった。

 あり得んほどの暴風雨で、工事は失敗してしまうわけだ。

 

 まあ、これは今後の検討課題だ。急がなければいけない課題でもない。


「実際、田沼様の時代では馬や牛ですらさほど利用されていないですからね」

「そうかもしれぬ。出来うることはやるべきであろうな」


 同じ時代のヨーロッパに比べ、日本では馬車が発展しなかった。

 別に発想が無かったわけではない。

 田沼意次が失脚した後、寛政の改革の最中に、松平定信に「馬車道」の整備を具申した家臣もいたりする。

 当然、却下されたけど。


 基本的に江戸時代とは「幕府の存続」が最高の目的であり、そのための「社会の変革」というのは徹底して嫌われる傾向にあった。


 江戸の三大改革――

 享保の改革、寛政の改革、天保の改革。

 その全ては、幕府の存続のために行われたものであり、基本的には、社会制度の維持が目的だ。

 歴史の流れの中で変わっていく社会を押し戻そうとする改革でもあったわけだ。 

 あの、名君といわれた徳川吉宗も「発明」を禁じるお触れを出しているくらいだ。


 既存の社会構造を変革してしまうような「改革」を目指したのは田沼意次くらいなものかもしれない。


「おお、城の天守よりもなお高き建物がこれほど……」


 田沼意次は、駅前のタワーマンションを見あげていた。

 鮒橋駅に近づくと、高層建築物も増えるのだ。

 パソコンで見せていた東京よりは、高い建物が少ない。

 むしろ、いきなり新宿辺りに連れて行ったら、パニックを起こしかねない。

 鮒橋辺りが入門には丁度いいと思ったりする。


 一応、その圧倒的な質量は目で見ることで実感できているようだった。


「ここに住む者は―― そうか…… この世界に武士はもうおらぬか……」

「確かに、身分という意味では『武士』はいませんけどね。まあ、そこそこ金が無いと住めないですね」

「やはり、金の世になるか……」

「それは、身分でガチガチよりはいいのでは?」

「まあ、どうであろうかのぉ」


 ポツリと田沼意次が言った。

 この人も幕臣というか、老中なのだ。

 しかし、低い身分から実力で這い上がってきた人物でもある。

 そして、身分が高いというだけの人間が今、自分の敵にまわっているのだ。


 ただ、それでも割り切れぬ何かは、有るのだろうなと思う。

 元の身分が低くても、江戸という社会体制の中で生きていた人だ。

 そして、今は老中の筆頭。


 つまり、幕府の存続、徳川家の安寧が使命であるといっていい。

 身分制度を維持する組織、社会体制を守る立場にあるわけだ。

 その内面で、身分に対しどのような思いがあるのせよだ――


 そして、この二三〇年後の世の中には身分制度を作り上げた幕府など存在しない。

 それをどう思っているのか、タワーマンションを見つめる目から読み取ることはできなかった。


「徳川家は二三〇年後もあると聞いているが。土岐殿」

「ええ」

「国が豊かになるのに、徳川家も幕府は必要ないということか……」

「まあ、有っても豊かになれないということではないでしょう」

「そうであるか」

「幕府が変わっていけば、ですけどね――」


 国が豊かになるかどうか?

 江戸時代は封建体制下あっても「鉄と石炭があれば産業革命が起きていても不思議ではなかった」と後世で評価されるほど成熟した社会を作りつつあったのだ。

 江戸幕府が社会的な安定を作りだしたという良い面もある。


 ただ、本当に近代化して、ヨーロッパ諸国――

 特に一八世紀移行に世界の覇権を握るイギリスと伍していくには課題も多い。

 国民が自分の財産を保証され、働けば豊かになる確信を持つこと。

 これで、国民が国家に対する所属意識を持つことになる。


 物流コストが低く、商業資本の発達は江戸幕府の元でもある程度上手くいっている。

 ただそれをコントロールできないわけだけど。


 科学技術については、他のアジア諸国のような忌避感は薄い。

 明治維新後もキリスト教徒は全く増えなかったが、西洋の技術は積極的に取り入れていった。

 日本人にとっては、科学技術の方がキリスト教よりよほど受け入れやすいものだ。


 資本の集積はこれからの課題か……

 まあ、そのために俺は色々やっているわけであるが。


「田沼様は、昔ながらのやり方では幕府は行き詰まると考えてますよね」

「そうであろう。事実、そのようになったではないか」

「幕府が変われば、時代の流れも変わるでしょう」

「うむ」

「幕府が存在しながらも、こういった豊かさを実現できる可能性もあるかもしれません」

「なるほど。それが我らの目指すところか――」


 田沼意次の言葉に俺も頷く。


 一九世紀に強制的に開国され、弱肉強食の国際社会に直面し、必死の努力で生き延びた日本。

 明治維新はそれ自体、世界史レベルの偉業だと思う。

 しかし、その大きな成功は約七〇年後に大きな失敗を引き起こす。はっきり言って破たんする。

 そこには、色々な要因があるとは思う。

 日本の近代の成功と失敗。

 失敗の大きな因子は、明治維新のときに埋め込まれたんじゃないかという考えは俺の中にあった。


 幕末期――

 別に幕府は鎖国体制の中で引きこもって、漫然としていたという訳でもない。

 特に、1840年に始まった「アヘン戦争」で清がイギリスに負ける。

 この衝撃は幕府にとってかなり大きかったことが今では分かっている。


 ペリーの黒船来航、そして開国にあたっても海外情報はかなり集めていたし、一時期言われていたほど無策な対応をしたわけじゃない。

 上陸した外国人の移動を制限できたりなど、成果もあげていた。


 それでも、日本がヨーロッパ、アメリカに対し後れをとったというのは事実だ。

 そして、その遅れから「富国強兵」政策を突き進め、成功をしていく。

 日清、日露戦争で勝利し、第一世界大戦でも戦勝国に列席することになった。

 日本は恐るべき速度で、世界有数の列強になり、一等国になったわけだ。


 明治維新から始まった日本の改革は上手くいきすぎた。

 それが、日本全体を錯覚させてしまったのかもしれないと俺は思っている。

 そして第一世界大戦における「国家総力戦」の実態を把握する。


 それは当時の日本にとっては、とでも実現できそうにない戦争の形態だった。

 日本の指導層は日本が一等国から落ちていくことを必要以上に怖れたのではないかと思う。

 そして「総力戦」が出来る国家である「一等国」を目指す――


 その結果――

 毎年8月15日に黙とうを捧げる戦後がやってくるわけだ。


 もし一八世紀から日本が世界に出て、そして海洋商業国家として進んでいたらどうなっていたか?

 俺の頭に、色々なシナリオが浮かぶ。

 自分たちの歴史とは違う日本の近代。それがあり得たんじゃないかと俺は思うのだ。

  

        ◇◇◇◇◇◇


「このような狭き部屋―― いったい? ぬぉぉぉっ! 土岐殿! 罠か!」

 

 エレベーターのドアが閉まった瞬間「罠」とか言い出す老中様。

 微妙な加速によって生じる違和感も、江戸時代人にとっては味わったことのないモノだろう。


「上に上がっているだけですから」

「上に?」


 田沼意次は、はぁはぁと呼気を荒くして、俺の言葉をおうむ返しする。


「この部屋ごと鉄の綱で引っ張り上げられているんですよ。井戸の釣瓶みたいなもんです」

「おう…… なるほど。そのような機巧か」 


 俺は簡単にエレベーターの説明をする。仕組み自体はそれほど複雑じゃない。

 似たような者は江戸時代にもあるし、田沼意次も仕組みを理解し、落ち着いてきた。


 俺と田沼意次は、駅前のデパートに入ったのだ。

 最初はエスカレーターで行こうとしたのだが、江戸時代の老中様にはハードルが高かった。


「ぬぅっ!! 動く#階梯__かいてい__#か…… これもエレキテル……」


 その分析は正しかった。しかし、それだけ。


 田沼意次は足を踏み出すことができなかった。

 動くエスカレーターにタイミングを合わすことができなかったのだ。


「ぬぅ、ぐぐぐぐう、間合いと拍子が読めぬ――」


 呻くような声を漏らしながら、エスカレーターの前で固まる老中様。

 アナタは仕合中の剣豪ですか?


 しかし、これはある程度仕方がない。

 昔、田舎から出てきた人が、同じようにエスカレーターに乗れなかったらしい。

 江戸時代の人では無理はないのだった。

 ということで、俺たちは、エレベーターで移動しているわけだった。


 俺と田沼意次のふたりだけを乗せたエレベーターが、屋上に着いた。

 普段は、屋上といっても、広場のような空間があるだけだ。

 ただ今の時期はバーベキュービアガーデンというかそんな物をやっていた。

 夕刻の風の中に、濃厚な焼いたに肉の匂いが流れ込んでいる。

 

「ぬぅっ…… この世界の料理屋か? 獣肉か?」


 意外に食い意地の張っている田沼意次が反応する。

 なんせ、息子とカップめん議論をし、二一世紀のジャンクフードを頬張り、コーラをがぶ飲みする老中様だ。

 つまり、この世界の食べ物に興味津々なのである。

 田沼意次を見ていると、平気でビーフジャーキーを食べるし、今言われているほど、獣肉に対する禁忌は無い感じがする。


「それよりも、こっちです。ちょっと見てほしいんですけどね」


 俺は、バーベキュービアガーデンに向かって行こうとする田沼意次に言った。

 バーベキュービアガーデンが目的で上がって来たのではないのだ。

 屋上から見渡す風景。それを見てもらうために、上がってきたのだ。


「うむ」


 田沼意次は小さく頷くと、ひょいひょいと年齢を感じさせない、滑らかな動きで人を避け俺に続いていく。

 さっきから思うのだが、ずいぶんと身のこなしが軽快なのだった。

 上半身を殆ど揺らさず、下半身だけで滑る様に動いている感じだ。


「これは…… これが下総鮒橋だと……」


 屋上からの光景を見て、田沼意次が言った。


「田沼様の時代とは違いますから」


 鷹狩、放牧地だった野原の江戸時代とは違うのだ。

 今や人口六〇万人を誇る、政令指定都市を除く日本最大の都市なのだ。


「街の切れ目がないではないか――」

「まあ、そうですね。ちなみに、あちらが東京、あ、江戸になりますけど」


 俺は残照で空が赤く染まってる空の方を指さし見やった。

 ごちゃごちゃとしたビル群が小さく見える。


「おお、あちらが江戸か……」


 そして彼はぐるりと周囲を見渡す。


「ぬぅ、あのような巨大な建物―― 如何にして造るのやら見当もつかぬ」


 田沼意次は幕張の方を見ていた。近いだけに、そこの高僧ビル群は結構よく見える。

 予備知識が無ければ、驚愕してその場で崩れ落ちてしまうかもしれぬほどの迫力はあるだろう。


「江戸はもっとありますけどね。あのような建物が」

「そうであろうな…… して、土岐殿よ――」

「はい、なんですか」

「ももんじ屋か?」

「ももんじ屋?」

「先ほどから、よき匂いよのぉ――」


 田沼意次は要するに「バーベキューガーデンで食事をしたい」と言っているわけだ。

 それは分かる。しかし、こう人目の多い所でというのはどうなのか……

 なにか、不測の事態が――

 

「『ももんじ屋』とは江戸時代の獣肉を出す店のことなのです。意外にも江戸時代から『薬喰い』として獣肉は食されていたのです」


 なんか、後ろから的確な解説が聞こえてきた。

 すごく聞き覚えのある声で。深夜アニメでヒロインやる声優みたいな声。

 なんか、不測の事態が、もう起きてしまったような気がした。

 

 俺はゆっくりと振り向いた。首関節が「ぎぎぎぎ」と軋み音を上げるかのようにだ。


「てめぇ……」

「先輩、偶然です?」


 不測の事態の結晶体がそこに存在していた。

 身長一四六センチの不測の事態。田辺京子だった。

 そもそも「偶然です?」じゃねーだろ「尾行」していたんだろ?


「先輩! ワタシもご一緒したいのです」


 両手を後ろで組んで、チョコンと腰を屈める。

 長いポニーテールが屋上を吹く風で舞うように流れていく。


「む……」


 田辺京子は「にぃぃ」っと笑みを浮かべた。

 俺の後ろで田沼意次が「おお、あの天女の様な娘が」とか言っているけど、全く賛同できない。

 俺の背中は嫌な汗でびっしょりなのだ。


「先輩、お食事しながら、その方についても、お話を色々聞きたいのです。すごく興味があります――」


 丸眼鏡をクイっと持ち上げ、田辺京子はそう言ったのだった。

 ゲスエロビッチの眼鏡チビではなく、江戸時代の専門家がそこにいたのだった。

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