30.「キャラの油」とはいったい何だろう

「シャワーの音がしたのです!! 先輩シャワー中なのですぁぁぁぁぁ!! ああ、濡れた先輩の肌をぉぉぉ、その濡れた髪をぉぉぉ――!!」

 

 玄関の外で熱暴走を開始するエロビッチ眼鏡チビ。

 いわゆる田辺京子と言う生物だ。

 

 玄関と風呂場が近い間取りなので、シャワーの音が聞こえたのだろう。


「先輩! 一緒にシャワーを浴びて先輩に『京子って、着やせする方なんだな……』と言って欲しいのです。ああ、シャワーの飛沫の中、ふたりは抱き合い、吐息に混ざる、その声が―― シャワーの音に掻き消され…… ああ、先輩、先輩、愛しているのです!! 京子を好きにしていいのは、先輩だけぇ!」


 シャワー音で田辺京子の脳内にあるゲスエロビッチのアクセルが更に踏み込まれていく。

 脳内でクソ下司な官能描写をして、それを口に出してやがるのだ。理解不能の生物だ――


「女子(おなご)の声? 何者なのだ? 土岐殿」


 田沼意次の困惑した顔を見つめ、俺も何と答えていいのか困る。

 田辺京子みたいな存在を一八世紀の江戸時代の人にどう説明すればいいんだよ?

 とにかく、アイツには早急にお引き取り願わねばならない。


「田沼様、とりあえず、さっきの部屋に戻ってください」


 俺は「尋常じゃないことが起きてます」という表情で田沼意次に言った。

 

「うむ…… なにやら、ただ事ではなさそうだのぉ」


 とりあえず、田沼意次をダイニングに移動させる。

 そのときに玄関前を横切ったが、エロビッチ眼鏡チビは、相変わらずドアを叩き、止まるところを知らぬクソゲスエロな妄想を垂れ流していた。

 何で、俺がオマエのこと思ってシャワー浴びながら、ソロプレイするんだよ!!


「むぅ…… アヤツ化生の類か―― 化外、物の怪か? 二三〇年後の世界に……」


 田沼意次は、ほとんど正解と言いたくなるようなことを言うと、ダイニングのイスに座った。

 しかし、どこからだどうみても、江戸時代の人だ。

 一応、チョンマゲを隠すための、夏用の薄手の帽子は買ってある。

 服も用意はしてある。


 しかし、今ここで田沼意次に状況を説明している暇はない。

 まずは、危険生物・田沼京子の侵入を阻止せねばならないのだ。


 俺は玄関に向かった。 

 ドアにチェーンを掛け、少し開けた。


「先輩! 先輩! 先輩! 愛しています!」

「うるせぇ! てめぇ、黙れ! 近所迷惑なんだよ!」

「分かりました。先輩の命令には絶対服従ですね」

「そうだ。じゃあ、帰れ」

「あ、あ、あ、あ―― そんな、切ないですぅ! 入れてください。汗をかいてしまったのです。ワタシもシャワーを、先輩と一緒に――」

「黙れ、帰れ」


 俺がドアを閉めようとすると、グイッとちっさい足を入れてきやがった。

 靴のサイズは二二センチくらいか?

 田辺京子とはいっても女だ。無理やりドアを閉めて怪我をさせるわけにはいかない。

 

「仕事の話があるんだよ。今、新しく始める仕事関係の人が家に来ているだよ」

 

 ウソは言っていない。

 そんな俺をジッと見つめる田辺京子。

 どこで買ったのか知らんが、ハリ〇ポッターみたいな眼鏡の奥から大きな瞳がジッと俺を見つめる。

 

「仕事なのですか?」

「そうだよ、仕事で人が来ているの。だから――」

「靴が無いです。先輩。先輩の靴しかないです」


 玄関に並んだ靴――

 サンダルと最近履いていない革靴が並んでいるだけ。

 俺の靴しかない。


「本当に誰かいるんですか?」


 一四六センチの背丈なので、下から突き上げるような視線で俺を見つめる。

 エロゲスなことしか頭に無いと思ったが、コイツは無駄に観察眼が鋭い。

 

「先輩、まさか…… 女を連れ込んで……」

「違うよ! 何で、女を連れ込むんだよ!」


 俺は焦って言った。

 よく考えてみれば、俺が自分の部屋に女を連れ込もうがどうしようが、コイツには関係なのだが。


「ちょっと待ってろ! いいか、待ってろ!」


 そう言って俺はダイニングに戻る。

 田沼意次はイス座りジッと目をつぶっていた。

 そして、俺に気づくと目を開け、ジッと見つめる。


「色(※情婦)のことで揉めておるのか?」


「いえいえいえ! 違います。う~ん…… ただの知り合いの年増です。気にしないでください」


 江戸時代基準で二六歳といえば完全に「年増」だ。


「そうか、声はずいぶんと若く聞こえたが……」


 確かに声は深夜アニメの声優レベル。

 見た目はJCかJKと言う感じの子どもっぽさなのだ。二六歳なのに。

 俺が教えていた中学生でも、アイツより大人びて見える生徒がいたくらいだ。

 

「とにかく、早く帰ってもらいたいんで、お願いできますかね」


「うむ…… 」


 こうなったら仕方ない。

 客が来ているという事実を見せて、田辺京子には、帰っていただくしかないのだ。

 

「すいませんが、この時代の服に着替えてくれませんか」


 ドタバタして申し訳ないが、俺は田沼意次にお願いしたのだった。


        ◇◇◇◇◇◇


「なんだ…… この違和感は……」


 俺は、現代服に着替えさせた田沼意次を見て思わず言ってしまった。

 田沼意次は日本人だ。

 それは間違いない。

 確かに、現代人から見れば小柄であるが、これくらいの身長の人間がいないわけではない。

 

 しかし、そう言ったこととは全く別次元で、なんかこう違和感の塊なのである。

 時代劇にしか出ない俳優が、現代劇に出たときに感じる違和感に近いのか。

 いや、違うか…… 微妙に違う。


「ぬっ、おかしいか? ワシの姿が」


「いえ、そうでないのですが、あの時代の姿に見慣れているせいか、どうにも私には見慣れないといいますか――」


「ワシはまんざらでもないが。悪くないぞ。この着物――」


 俺は田沼意次に用意してあった服を着せたのだ。

 俺は上から確認する。

 まず、頭のチョンマゲは、夏用の医療用帽子でカバーした。

 医療用といっても、頭全体を隠すだけで、それほど変なものではない。


 上半身は、Sサイズのグレーの半そでポロシャツ。

 特に問題はない。しっかり着こなしているといっていい。


 そして、下半身はシニア用のスラックス。

 ゴムで簡単に留めることができる。

 足の丈は俺が調整しておいたのだ。全く長さも問題ない。


 パーツで見ていくと自然なのだが、コーディネート全体を見たときには、表現しにくい「違和感」に包まれている気がするのだ。


 言ってみれば江戸人的な「佇まい」が現代の格好との間に不意協和音を奏でている感じか……

 ただ、それも俺が、和装の田沼意次に接している時間が長いせいかもしれない。


「先輩ぃぃ!! まだなのですか! もう、京子は濡れてビショビショです。汗で――」


「分かった今行くから!」


 俺は田沼意次に、話さないことを約束させ、玄関に向かう。

 客が来ていることを納得させればいいのだ。

 

 京子は、玄関の隙間から、こっちを見ていた。

 隙間から「先輩、先輩、先輩、好きー!!」と相変わらず狂っている。


 で――

 ピタッと静かになった。

 俺以外の人間がいることを確認した瞬間だった。

 その眼鏡の奥の瞳が、違和感の塊の現代の格好をした江戸人を捉えてた


 ドアの隙間からじーっと覗かれるのも落ち着かない。

 俺は、玄関のチェーンを外した。


 田辺京子は「先輩、好き、好き、好きぃぃぃ!」とか部屋に乱入してはこなかった。

 玄関の外。その場に立って、ジッと俺の隣のオッサン(田沼意次)を見ていた。

 

「えっと…… 本当に、お客さん、いらしたんですね…… 先輩――」

 

 丸眼鏡の奥の視線が泳いでいる。


「いるって言ってるよな。最初から」


「そうですね……」


 なに、コイツ顔真っ赤にして下向いてんの?

 

「先輩の仕事…… 関係の――」


「そうだよ。ちょっと色々あるんだよ。これからふたりで出かけるし」


 田沼意次は俺に言われた通り、黙っている。

 ただ、ジッと田辺京子を見ている。なんか、鼻息が荒くね?

 

 田沼意次は口の中で「天女か……」と小さくつぶやいていた。

 どこにいるんだよ?

 そんなの?

 これ? この田辺京子のこと?

 えーーーーっ?


「なんか、あの―― すいませんでした。あの、また来ます。先輩」


 ペコペコと頭を下げる田辺京子。

 いつもの俺に対する態度とは全く違うのだけど。なんでだよ。


 彼女はスッと顔を上げると、俺を見つめる。いつなく、真面目な顔でだった。

 

「先輩――」

「ん? なんだ」

「なんで、伽羅之油(きゃらのあぶら)の匂いがするんですか?」

「はあ? キャラの油? なにそれ?」


 俺がそう言うと、チラリと田辺京子は田沼意次に視線を走らせた。

 メガネの奥の瞳がエロビッチではなく、江戸の専門家の物になっているような気がした。


 なにかに気づいたのか?

 コイツは――


 田沼意次の方は、見惚れたかのように彼女のことを見ているだけだった。

 こう言った女が好みなのか? 

 コイツの年齢を言ったら、驚くかもしれんなと俺は思った。


 スッと田沼意次から視線を外して俺を見やる田辺京子。

 

「いえ、いいです。気にしないでください」


 そして小さく「あり得ないです……」と呟いていたのが聞こえた。


「あ、そうか……」

 

 とりあえず俺は呟きの方は聞かなかったことにした。

 そして田辺京子はあっさりと引き下がった。


 俺は京子の後ろ姿を見ながら「キャラの油」とはいったい何だろうと思っていた。


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■土岐航のアパートの間取り図

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