終章 リアル・ペアレンツ・スタート

「あれ、この人、どっかで見たことがある」

 お風呂の中で、美羽はニュースをぼんやりと観ていた。

 壁に埋め込まれた液晶画面には、記者会見をしている様子が映し出された。白い長テーブルには緊張した面持ちの女性達が座っている。その中央にいる女性がマイクを持って話し出した。

 テロップには「レンタルベイビー訴訟原告団代表 宇津木さやか」と表示されている。

「私は子供を身ごもっていました。でも、それは望まれない妊娠で、レンタルベイビーを受ける前に身ごもってしまったんです。私は、たった一人ででもその子を産んで育てるつもりでした。でも、政府は、私には子供を産む資格はないと決めつけて、強制的に中絶施設に送られてしまったんです。私は仕事ではそれなりに稼ぎがあるから、一人で子供を育てることはできました。何度そう言っても、『年齢的に厳しいからダメだ。35歳を過ぎてたら障害児が生まれやすい』の一点張りで……。こんな、こんなひどいことってありますか? 子供を産んで育てる権利すら認められていないんですよ? いつ妊娠して、子供を産もうが、その人の自由じゃないですか。たとえ障害児だって、その人が育てたいって思うんなら、産んで育てる権利があるはずです。今の日本は、そんな当たり前の権利すら認められていないんです。そんな世の中を変えたくて、レンタルベイビーを廃止する訴訟を起こすことにしました」

 緊張のせいか、手が震えている。顔を真っ赤にしながら、女性は必死に訴えかけている。

 ――この人、どこかで、どこ……。

「あっ」

 美羽は声を上げた。

「レンタルベイビーの説明会で、隣に座ってた人だ……」

 最初に行った説明会で、「レンタルベイビーをする前に妊娠したらどうなるのか」と担当に聞いていた女性だと気づいた。

 ――そうなんだ、この人、子供を産めなかったんだ……。

 他の女性もみな同じような境遇にあるらしい。レンタルベイビーで不合格になったために、子供を産むのを断念しなくてはならない女性もいた。

 画面はスタジオに切り替わり、深刻そうな表情をした女性のキャスターが、「レンタルベイビーに関しては、つい先日、野党が出産率はこの10年間で低下しているというデータを出していました」と語りはじめた。

「今まで民自党はレンタルベイビーを導入した10年間で出生率が上がっていると公表していましたが、そのデータは改竄したものであったことが、野党の調査で分かりました。民自党は一切指示をしていない、厚労省の内部で勝手に改竄したと主張していますが、国会で現在追及されています。野党の調査では、虐待の件数も10年前からほとんど減っていないというデータもあるそうです。むしろ、レンタルベイビーで評価の高かったカップルが、現実の子育てはうまくいかなくて、虐待に走るケースが増えているという意見もあります。レンタルベイビーの制度を見直す時期に来ているのかもしれません。さて、次のニュースですが……」

 その時、泣き声が聞こえてきた。

「あー、起きちゃったか」

 美羽は液晶画面のスイッチを切って、湯船から立ち上がった。

 体をざっと拭くと、バスローブを羽織って、頭にタオルを巻きつけてリビングに行く。流がうんざりした顔で、「お風呂長すぎ」と言った。

「ごめん。だって、昨日も入れなかったんだもん」

「オレ、もう行かなきゃいけないから、後よろしく」

「ハイハイ」

 美羽はベビーベッドから、真っ赤な顔をして泣いている赤ん坊を抱き上げた。

 生まれて3カ月になるベビーだ。女の子で、名前は葵という。

「もう、パパはすぐに逃げちゃうんだから、ねえ」

 美羽は葵に語りかける。ソファに座って胸をはだけて、乳首を葵の口に当てると、勢いよく吸いはじめる。

「はーい、朝ご飯ですよ~」

 玄関のドアが閉まる音が響いた。

 美羽はため息をついた。卓上型のドライヤーのスイッチを入れて、頭に巻きつけていたタオルを取り、髪を乾かす。葵が生まれてから買ったアイテムだ。

 あんなに感動的に空と別れたというのに、流はいざ我が子が産まれると、ほとんど育児に手を貸そうとしなかった。おむつを替えるのを嫌がり、お風呂にも怖くて入れられないと言う。泣きだしたら、すぐに美羽に渡して自分ではあやそうともしない。そして、夜泣きが続くと一人だけリビングに避難して眠るのだ。

「最初のレンタルベイビーの時とおんなじじゃん」

 美羽は何度も、もっと手伝ってほしいと流に頼んだが、「美羽は今仕事してないんだから、美羽がやってよ」と取り付く島もない。

「男の人は、赤ちゃんをどう扱ったらいいか、分かんないものなのよ。あんたのお父さんもそうだった。二人目が生まれた時は私だけじゃ手に負えなくて、お父さんも手伝うしかなくなったのよね。それで慣れていった感じ」と、たまに様子を見に来てくれる萌は話していた。

 ――それなら、流も二人目が生まれるまでは、ずっと協力してくれないってこと? それとも、空の時のように、1歳ぐらいになったらかわいがろうっていう気になるのかな。どっちにしても、まだまだ先の話じゃない。

 萌は「辛抱強く待つしかないわよ」と言っていたが、美羽は待てる自信がなかった。1年ぐらい実家に里帰りしようかと、本気で考えるときもある。

 美羽は大きく息を吸って、目を閉じた。

 ――ダメダメ、マイナスなことばかり考えちゃ。小さなことでもプラスの材料を見つけたほうがいいって、ママたちの掲示板でも言ってるし。今日も朝ご飯は作ってくれたし、洗濯物を干してくれたし、昨夜は食器を食洗機に入れてくれた。流は流なりにできることをやってくれてるんだから、それには感謝しよう。

 スマフォが震えたので見ると、朝陽からメールが届いていた。

「葵ちゃん、元気に育ってる? うちのやんちゃ坊主2人は、相変わらず元気いっぱいだよ~」

 メッセージと共に、親子4人でウッドデッキで食事をしている画像が送られてきた。朝陽のところは男の子が2人生まれた。一人目は1歳で、もう一人は産まれて一カ月の年子だ。

 朝陽はシンガポールに移り住んでいる。1年に1回か2回は日本に帰って来るが、実家に帰って来た時に会いに行くと、七緒はレンタルベイビーを経験しないで産むことがどれだけ楽なのかを何度もアピールするので、うんざりした。

 美羽が、「うちはレンタルベイビーをして夫婦の絆が強くなったから、やってよかったって思う」と言うと、七緒は「うちは元々、絆は強いから」と返すのだ。

「そういえば、流さんの実家、大変ですよねえ。どうなったんですか? 会社は倒産したって聞きましたけど」と聞いてきたが、美羽は何も答えなかった。

 流の実家の会社は、多額の負債を抱えて倒産した。流の兄は借金を返すために他のファッションブランドに転職したが、仕事が全然できないのですぐにクビになったと聞いた。今はマイホームも売り払って、仕事を転々としているらしい。離婚をして、妻が子供を引き取って育てている。

 朱音は執行猶予が付いたので塀の中に入らずに済んだ。だが、拘置所から出てきた時に迎えに行ったら、総白髪になり、一気に老け込んでいたので驚いた。今は東北の実家に戻って暮らしている。流の父親はイタリアから帰って来ないまま、若い愛人と暮らしているらしい。

 そんなことが起きても、流は今までと変わりのない生活を送っている。実家とほぼ縁を切っていたので、たいして影響はなかったのだ。

「あんなに立派な結婚式をしたのに、残念ですよねえ。私、地味婚でよかったって思って」

「七緒、いいかげんにしろよ」

 朝陽に叱られても、七緒は一向に気にする気配はない。

 そんな七緒も、日本で暮らす友人に会いに行ってからは「早くシンガポールに帰ろう」と言い出した。

 レンタルベイビーが始まってから、海外に移住して子供を産むカップルが増えている。そのカップルが帰国すると、レンタルベイビーを体験している国内組との間で対立が起こりやすくなっているのだ。結局日本にいづらくなって、海外に戻るカップルが後を絶たない。

 ――あなたも、いずれそうなるんだから。いい気になっていられるのも、今のうちだからね。

 美羽はメッセージを返す気になれず、スマフォをテーブルに戻した。

 葵が乳房から顔を離した。

「お腹いっぱいになりまちたか~」

 美羽は顔を寄せて話しかける。まだまだ泣いてばかりで、意思の疎通などできない赤ちゃん。それでも愛おしいと、美羽は産んだ瞬間から思った。お腹を痛めて産んだ我が子は、やはり愛情が違うらしい。夜泣きで寝不足になっても、空の時ほど追いつめられていない。

「ママが、全力であなたを守るからね」

 そっと額にキスすると、葵は手足をバタバタしながら、濡れた瞳で美羽を見上げる。

 ――この子のためなら、私は何でもできる。何でもする。絶対に。

 美羽は慈母のような笑みを浮かべた。


                 完

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レンタルベイビー・クライシス @nagi77

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