第5章 リ・チャレンジ ⑩小さな奇跡

 その日、流が帰って来てから昼間のことを話すと、「何でそんなやつを家に上げるんだよ。上げないほうがいいって言ったでしょ?」と不機嫌になった。

「だって、エントランスで土下座してるから」

「土下座? 何それ」

「ホラ、昔のドラマで出てくるじゃない。こういうの」

 美羽は実際に土下座をしてみせた。

「ああ……そんなのどこで何しようと、ほっとけばいいのに」

「でも、他の家の人が見て、変に思ってたみたいだし」

「他の家の人に何か言われても、知らない人に付きまとわれて困ってるとか言っとけばいいんだよ」

「そうだけど……」

「とにかく、そんなやつを空に近づけるなよ」

 美羽はムッとした。つい最近まで空に関心を持っていなかったのに、急に子供を守る父親面してものを言われることに腹が立ったのだ。

「それで、お義母さんの会社がヤバいみたいよ」

「ヤバいって?」

「倒産寸前なんだって。海外に出店しすぎて、借金をいっぱい抱えてるって言ってた。お義父さんのデザインも、最近はあんまり売れてないんだって。だから、今回のプロジェクトにかけてるみたい。補助金をもらえるから」

「ふうん」

 流の表情はまったく変わらない。

「気にならないの?」

「別に。今までも何回か経営危機はあったし。オレには関係ないから。母さんや兄貴で何とかするでしょ」

 ぶっきらぼうに返す流に、美羽は内心戸惑っていた。

 ――流って、こんなにドライだったっけ? 前はもう少し、家のことを気にしてた気がするけど……。

 ただ、流は明らかに「もう家のことを話すな」オーラを出しているので、それ以上追及するのは止めた。

「とにかくさ、母さんからは何の連絡も、迷惑かけたってお詫びもないままなんだから、これ以上、何かしてあげる必要ないよ。もう誰が来ても、追い返していいから」

「……うん、分かった」

 美羽はスッキリしない気持ちのまま同意した。

「それよりさ、今日、先輩に聞いたんだけど、1歳児って立つところまでいくんだって?」

 あきらかに話題を変えようと、流は穏やかな口調になった。

「うん。そこまでいく子と、いかない子がいるみたいだけどね」

「空はどうかな。立つところまで行ったら、ポイントが高くなるって話もあるんでしょ?」

「まあね。噂かもしれないけど」

「空ぁ、立ってみようか~」

 流は空を抱えながら、立たせようと試みる。空の足元はグラグラしていて、とても立てる状態ではない。

「あー、まだダメかな?」

「無理やり立たせて転んじゃったらどうするの? ポイント引かれるかも」

 美羽が思わず言うと、流は無言になった。

「お風呂入ってこよっと」

 空をベビーチェアに座らせると、流は美羽と目を合わせようとせず、リビングから出て行った。

 ――気に喰わないと、すぐに逃げるんだから。お義母さんのこともわざわざ教えてあげたのに。教えたこっちが悪いみたい。

「ねえ~、パパは時々、冷たいでちゅよね~」

 空をパンダのぬいぐるみであやすと、手を叩いて喜んだ。空の笑顔を見ているだけで、苛立ちは一気に吹き飛ぶ。

「あ~、早く本物の子供が欲しいなあ」

 美羽はつぶやいた。その時。

「マンマ」

 空が突然、言葉を発した。

「えっ」

 美羽は空の顔をまじまじと見る。

「今、空、何て言った? マンマって言った? マンマってもう一回言ってみて」

 空はしばらく言葉にならない音を発していたが、美羽が何度か「マ・ン・マ」「マ・ン・マ」と言い聞かせると、「マ……ンマ」と再び言った。

「しゃべった……!」

 美羽は胸が熱くなり、しばらく感激に浸っていた。それから寝室に駆けこむと、ベッドに寝転んでスマフォをいじっている流に、「ねえ、空がしゃべった! しゃべったの!」と言った。流は目を丸くする。

「え?」

「空が今、マンマって言ったの! マンマって! 2回も!」

 流は飛び起きた。リビングに飛んで行き、空の前に座ると、「空、もう一度しゃべってみて」と流は顔を寄せる。

「空、もう一回言ってみて。マ・ン・マ」

「マ・ン・マ」

 二人で何回か繰り返すと、空はご機嫌でベビーチェアを叩きながら、もう一度「マンマ」と言った。

「おお~、ホントだ! しゃべった! すげえ」

「でしょ、でしょ?」

 流は空を抱き上げた。

「空。パパって言ってみな。パ・パ。パ・パ。パ・パ」

 何回か言い聞かせるが、もう何も言おうとしなかった。眠くなってきたのかむずがったので、美羽が代わりに抱いて、寝室に連れて行った。流もついてきて、美羽が空を寝かせている様子を見守っている。

 空が眠りにつくと、流は「さっきはごめん」と言った。

「オレ、家のことはあんま話したくないし、聞きたくもないんだよね。あの家では、いい思い出なんて全然ないからさ。もう二度と、あいつらとは会いたくないし」

「そうなんだ」

「だから、イラッとしちゃって……ごめん」

「ううん。私もキツイこと言っちゃって、ごめん」

「あの家は、親にも兄貴にも、問答無用で従えって感じでさ。ホント、大っ嫌いだった、あの家」

 流は吐き捨てるように言う。

 流の横顔を見つめながら、今まで知らなかった流の素顔を垣間見た気がした。

 ――私、流のすべてを知っているわけじゃないんだな。 

 美羽は急に寂しくなって、流の背中に頬を寄せた。

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