第5章 リ・チャレンジ ⑦母の愛
家に戻ってベビーベッドで眠っている空に向かって、「ただいま、空。帰ったよ」と声をかけると、やがて眼を開けた。泣きだしたので、抱き上げて「よしよし」とあやす。
「なんかさ……」
美羽はあやしながら、つぶやいた。
「うん?」
「なんかさ、すごい悲しいなって。あの人、そうまでして子供が欲しかったんだよね」
「そうだね」
「だけどさ、レンタルベイビーで不合格になっちゃったから、産めなくて。思いつめておかしくなっちゃって……なんか、悲しい。すごく悲しい」
「うん」
「それにさ、旦那さんからも捨てられちゃって。かわいそうだよね。誰も味方はいなかったのかもしれない」
「そう……だね」
流は、突然「ゴメン、美羽!」と頭を下げた。
「えっ、何?」
「オレ、今までずっと非協力的だったからさ。美羽が思いつめてること、分かってたのに、何もしなかったし……オレ、最低だと思う。今さらだけど、ホント、ゴメン」
「いいよ、いいよ。私も強引にレンタルしちゃったし……今は助かってるし」
「これからは、出来る限りのことはするからっ」
「ウン、分かった、分かった。ありがと」
流は美羽をギュッと抱きしめた。美羽の腕の中には、泣き止んでご機嫌になった空。
――なんか、家族って感じだな。大丈夫。私達は、大丈夫、きっと。
その夜、久しぶりに二人は肌を合わせた。レンタルベイビーを始めてからセックスしていなかったので、美羽は流がいとおしくなって、何度も抱きしめた。
翌日の朝は、空と散歩に行くのは見送ることにした。いつも通りに出勤し、水野や香奈に昨日の出来事を話すと、「大変だったねえ」と慰めてくれた。
昨日予約を入れていた客の何人かを、今日追加で対応しなければならない。夜までフル回転で働いてから、クタクタになって美羽は帰宅の途についた。
――今晩は何作ろう。昨日のラザニアの残りがあるから、あれを温めて、温野菜サラダでも作るかな。後、スープも作ろうかな。
夕飯のメニューを考えながら歩いていると、マンションの遊歩道脇のベンチに、ベビーカーを前に座っている人がいることに気付いた。
――もう8時を過ぎてるのに、今ごろ赤ちゃんのお散歩?
前を通り過ぎる時、チラリとその人を見ると、昨日電車まで追っかけてきた女性だった。女性はベビーカーを軽く揺らしながら、歌を歌っている。慈愛に満ちた目で、ベビーカーのレンタルベイビーに微笑みかけている。
美羽は自分だと気づかれないように目をそらし、足早にそこから離れた。
エントランスに入ったところで、流に電話をかける。
「昨日の女性がいる」と話すと、「昨日の警官に連絡するから、その女の人から離れて待ってて」と緊張した声で言われた。
電話を切り、エントランスの窓から、そっと女性を観察する。女性は昨日と同じ服装だ。家に帰ってないのか、その服しか持っていないのか。
女性は、ベビーカーからレンタルベイビーを抱き上げた。あやしているらしい。
ふと、レンタルベイビーの手足が動いたような気がした。
――そんなはずないよね。腕を動かしてるから、レンタルベイビーが動いてるように見えただけだよね。
しばらく凝視していると、女性の腕の中で、レンタルベイビーは女性の髪をつかもうとしているのか、腕を伸ばしているのが見えた。
「どういうこと?」
つぶやいて、美羽は外に出た。とたんに、赤ちゃんの笑い声が響き渡る。
「ハイハ~イ、いい子ね、まゆはいい子」
女性は腕を軽く揺さぶりながら、レンタルベイビーに話しかけている。
――もしかして、レンタルベイビーじゃないとか? どこかで本物の赤ちゃんを誘拐したってことはないよね?
レンタルベイビーをベビーカーに寝かせて、女性が立ち去ろうとしたので、美羽は慌てて後を追った。
「こんばんは、レンタルベイビーですか?」
美羽が息を切らしながら話しかけると、女性は振り返った。
「ええ、はい、まあ……」
曖昧な表情のところを見ると、美羽のことを覚えていないらしい。
「うちもレンタルベイビーをやってるところなんですよ。何か月ですか?」
「1歳児です」
「うちと同じだ。動き回って、大変ですよね」
すると、女性は「うちのまゆは、ようやく昨日歩いたんですよ」と顔をほころばした。
「へえ、すごい」
「今までずっと、立ち上がっても、すぐに尻餅をついてたんですけど。2、3歩歩けたから、もう感動しちゃって。今日もちょっとだけ歩いたんです」
――レンタルベイビーには歩く機能はないはずなんだけど。立ち上がるところまでしかできないって聞いたけど。どういうこと?
美羽はベビーカーの中を覗き込んだ。ボア素材のピンクのパーカーを着たレンタルベイビーが、つぶらな瞳で美羽を見上げる。まばたきをしているし、「だぅ」「ま、ま、ま」と声を出しているのを見ると、作動しているのは間違いない。それか、本物の赤ん坊なのか――。
「女の子ですか、かわいい」
「まゆって言うんです。ひらがなのまゆ。主人が名づけてくれて」
「抱いてみていいですか?」
思いきって言ってみると、女性はさすがにためらいの表情を浮かべた。
「うち、男の子なんで。女の子ってどんな感じなのかな、って思って」
美羽の言葉に、女性は「いいですよ」と、まゆを抱き上げた。受け取ってみると、女の子だからか、空ほど重くはない。
一見、本物の赤ん坊とは見分けはつかないが、顔を寄せて匂いを嗅いでみても、とくに何の匂いもしない。レンタルベイビーのようだ。
「女の子はおとなしいですね」
「そうですか? 最初は夜泣きが止まらなくて、大変でした。ノイローゼになるかもって思ったぐらい」
女性は、フフフと笑った。
美羽は鳥肌が立って、「ありがとうございます」と、女性にまゆを返した。
「この子には私しかいないんです。私、この子のためなら、なんでもしようって思ってて。ねえ、まゆちゃん」
女性は極上の笑みでまゆに微笑みかける。まゆはそれに応えるように「あー」「ぱちぴてぃぷ」と言葉を発する。
「言葉もちょっと話せるんですよ。ママとか、マンマとか。区別は分かりづらいんですけどね。もっと話せるようになると思う。まゆは頭いいから」
その時、警官が二人、近づいてくるのが見えた。女性はまったく気づかないようだ。
数分後、女性は警官に連れられて、パトカーに乗り込んだ。ずっと腕の中のレンタルベイビーに話しかけ、笑いかけている。
美羽は警官に何が起きたのかを説明した。
「あの、レンタルベイビーのレンタル期間は終わって、スイッチが切れてるはずだって話、聞いたんですけど」
警官に尋ねると、「僕らもそういう報告を受けています。だから、レンタルベイビーが動いていて、驚いているところで……。まれにスイッチを切れないロボットもいるという話を聞いたことがあるんで、そのまれなロボットなのかもしれませんね」と言う。
パトカーが走り去っても、美羽は後味の悪い思いを抱えて、しばらくその場に佇んでいた。
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