第2章 ペアレンティング・スタート ②パパと対面

「ただいまあ」


 9時過ぎに流は帰って来た。


「お帰り……」


 流がリビングに入ると、髪を振り乱し、あきらかに憔悴しきっている美羽がベビーベッドにもたれかかって座り込んでいた。


「何? どうしたの?」


 流が目を丸くすると、美羽は「しーっ」と唇に人差し指を当てた。


「ようやく寝たところだから、起こさないで」


 小声で話す。


「ああ、レンタルベイビー、来たんだ」


「うん。届いた直後から大泣きして、何をしても泣き止まなくて、もういきなり大変だったの。たまたま業者さんが戻ってきて、哺乳瓶のスイッチを入れてないんじゃないかって教えてくれたから、何とかなったんだけど。でも、ミルクを飲ませた後、げっぷを出さなかったから、ミルクを吐いちゃって」


「えっ、ロボットなのにミルクを吐くの!?」


「うん、よくできててビックリするよ~。白いものが口から出てきたから、何かと思った。時間が経ったら消えちゃうんだけど。またギャン泣きするし。で、おむつを外してたのを忘れてたんだよね……。ウンチをするときの音とか匂いとか、すっごいリアルなの。おくるみが汚れちゃって」


「えっ、マジでウンチしたわけじゃないんでしょ?」


「そうなんだけど、リアルにできてるの。なんか、おむつをしてない時用のプログラムも内蔵してるみたい。ロボットだからおむつしなくてもいいだろうって、外したままの人がたまにいるみたいなんだよね。時間が経ったらウンチは消えるから、よかったけど。あれ、ホントの赤ちゃんだったら、絶望的な気分になりそう」


「ムダによくできてるなあ」


「で、動くからおむつもうまくつけられないし。やっと眠ったって思っても、ベッドに寝かしたらすぐ起きるし。ホント、一日中泣いてたって感じ……」


 美羽はソファに寝転んだ。


「お疲れ様」


 流は美羽の頭をなでる。


「今何時?」


「9時」


「えっ、もうそんな時間? ご飯どうしよう」


「いいよ、何か頼もう。休んでなよ」


 流はオレンジジュースを入れたグラスを持ってきてくれた。


「ハイ、甘いものでも飲んで」


「うん。ありがとう」


 美羽は一気に飲み干す。喉が渇いているのにも気づいていなかった。


「水分とらないと、熱射病で倒れるよ?」


「うん、気がつかなくて」


「シャワーでも浴びてきたら?」


「そうする」


 美羽は重い身体を何とか起こして、バスルームに向かった。熱いシャワーを浴びているうちに、ようやく息を吹き返したような気分になる。


 ――あ~、働きはじめたばっかの頃を思い出すなあ。あの頃も、夜には何もしたくないぐらいクタクタに疲れてたっけ。


 頭と体を洗って、ようやくスッキリする。ドアを開けると、泣き声が聞こえた。


 ――あー、起きちゃったんだ。


 体を拭き終えるまで流があやしてくれるだろうとタオルを取ると、「ごめん、泣き止まないんだけど」と流が洗面所のドアを開けた。


「拭き終わるまでちょっと待ってて。流があやしてくれる?」


「いや、あやすって、どんな風に? オレ、何も知らないよ?」


「抱っこして、軽く揺らしてあげるとか」


「ムリムリムリ。オレには何もできないから、早く何とかして」


 流はドアを閉めた。


 そう言われても、体が濡れたままでリビングに行って抱っこするわけにはいかない。数分は大丈夫だろうと美羽が体を拭いていると、「段々、泣き声が大きくなってるよ?」と再び流が顔を覗かせた。


「うん、そういう仕様だから。ベビーベッドを揺らしてみたら?」


「オレがやるの?」


「体がビショビショのままで、赤ちゃんをあやせるわけないじゃない」


 流は顔を曇らせた。


 その時、チャイムが鳴った。


「あっ、ピザが届いた。オレ、そっちに出るわ」


 止める間もなく、流は玄関に飛んで行く。仕方なく、美羽は頭をバスタオルでくるみ、バスローブを羽織ってリビングに入った。レンタルベイビーはベッドの上で、真っ赤な顔で泣いている。


「ハイハイ、ごめんね、遅くなっちゃって」


 おむつを確認したが、濡れている様子はない。抱っこして、しばらく揺すってみる。


 ――ミルクかな。でも、吐いた後に、また飲ませてもいいのかなあ。マニュアル読んだほうがいいかも。


「ハーイ、ピザの到着ぅ。美羽の好きな4種のチーズのピザも頼んどいたよ」


 流はピザの箱を2つ持って戻ってきた。


「んで、何が原因で泣いてるの?」


「まだ分かんない。おむつではなかった」


「じゃあ、ミルクをあげてみたら? お腹が空いてんのかもよ」


 美羽はそのセリフを聞いてイラッとした。


「吐いた後にミルクを飲ませていいのか分かんないし」


「やってみないと分からないんじゃない? ロボットなんだから、死ぬってことはないでしょ」


 ――何なの、偉そうに。そう思うんなら、自分でやってみたらいいじゃん! 自分はテンパって何もしなかったくせに。


 美羽は文句を言いたくなったのをグッと堪えた。今はケンカをしている場合ではない。


 哺乳瓶は再びミルクが入っている状態になっている。乳首をあてがってみたが、レンタルベイビーは首を横に振って泣きじゃくる。


「お腹は空いてないみたい」


「ふうん、じゃあ、何なの?」


「分かんない」


「早く泣き止ませないと」


 その一言に、美羽は再びイラッとした。


「だから、今、やってるところじゃない!」


 鋭く言い放つと、流は黙り込んだ。


 体を揺すってあやしているうちに、泣き声は小さくなってきた。


 ――ぐずっただけかな。


 美羽はホッとした。ふと、チーズのいい香りがするので見ると、流はピザを食べながらスマフォを見ている。


「ちょっと」


 美羽はキレそうになるのを抑えた。


「私、髪を乾かしてきたいんだけど」


 流は、「それで?」という表情でこちらを見ている。


「その間、この子をあやしててもらっていい?」


「えー、ムリムリ。オレ、抱き方分かんないし」


 ――だから、講習会にちょっとだけでも出たら?って言ったのに!

 不満をぶつけたいのを、美羽は何とか堪える。


「大丈夫だよ、こうやって抱いているだけでいいから」


 渡そうとすると、「いや、俺今、ピザ食べてるし」とピザを置こうとしない。


「5分だけでいいから」


「美羽は髪短いから、乾かさなくても大丈夫じゃない? 夏だしさ」


「じゃあ、私が風邪をひいたらどうするの?」


 美羽はさすがに声を荒げた。流は美羽が怒りそうになっているのに気付き、「分かった」と大袈裟にため息をついて、ピザを置いて手を差し出した。


「手が汚れてるから、洗うか拭いて」


 渋々手を洗っている流の背中を見ながら、「なんなの、普通、それぐらい分かるでしょ?」と美羽は心の中で文句をぶつけていた。


 流が両手を差しだしたので、ゆっくりレンタルベイビーを渡す。流はおっかなびっくり抱っこした。受け渡す時に泣きだすかと思ったが、意外におとなしい。


「うわ、結構重いな」


「うん、3キロあるから」


「なんか、熱いけど」


「ちゃんと赤ちゃんの体温を再現してるんだって」


「へえ~、よくできてんなあ」


 ――何回も話したのに、聞いてないんだから。


「それじゃ、よろしくね」


 ショートカットなので、流が言うとおり、あらかた乾いていたが、わざと時間をかけて乾かしているフリをした。パジャマに着替える時、下着もつけていなかったことに気付く。


 リビングに戻ると、流は誰かと電話中だ。


「そうそう、レンタルベイビー。今日からうちに来たんだよ。今抱っこしてるんだけど、結構重いし、熱いんだよ。赤ちゃんの体温を再現してるんだって」


 流の腕の中を覗くと、レンタルベイビーはうつらうつらしている感じだ。


「そう、よくできてるよな。もっとうるさいのかと思ったら、オレが抱っこしたら全然泣かないから楽勝だよ」


 ――よく言うよ。さっきは、できないってオロオロしてたじゃん。


 美羽はレンタルベイビーをそっと受け取った。とたんに泣き出す。


「ああ~、せっかく眠ってたのに。いや、オレじゃなくて、泣かしてるのは美羽だから」


 その言葉に、美羽は軽い殺意すら覚えた。最初の説明会で観た、女性がレンタルベイビーを壁に投げつけた動画を思い出す。あの女性はこういう小さなところから追い込まれていったのかもしれない、と美羽は思った。


 結局、レンタルベイビーを再びあやしてベッドに寝かしつけたころには、ピザは冷めきっていた。流はシャワーを浴びに行ってしまい、美羽はピザを温め直しながら、グッタリと椅子に座りこんだ。


 ――レンタルベイビーが大変って言うより、流の態度にイラつくんだけど。


 テーブルに飲み残しのビールがあり、美羽は一気に飲み干した。ビールもぬるくなっていて、美羽は余計に空しい気分になった。

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