第Ⅹ夜 Wenn es ein Märchen wäre.

「グレーテルは、にいちゃんの後ろに隠れているんだ。僕が絶対に守るから」


 お兄ちゃんは優しかった。頭が良くて頼り甲斐があって、大好きだったお兄ちゃん。私は兄の後ろに隠れていた。

 怖い魔女が、お兄ちゃんを牢屋に入れて私がご飯を持っていくことになった。お兄ちゃんは魔女に食べられる。魔女はお兄ちゃんを太らせて食べようとしていた。

 けれど、頭がいいお兄ちゃんは目が悪い魔女に細い丸太を差し出して、毎日のチェックを逃れていた。太っていくお兄ちゃんは、その太ってきたことを隠し続ける。

 お兄ちゃんは頭が良い。

 何日も何ヶ月も騙し続けた。

 ある日、魔女は痺れを切らしてお兄ちゃんを今すぐにでも食べようと牢屋からひきづり出した。魔女は私に竃の火をくべるように言って私はその通りにした。

 その時に閃いた。

「グレーテル! 竃の火はどうだい!」

「……いいえ、私は分からないわ」

「なんだい、このグズめ。こうして見るんだ」

 魔女が竃に前かがみになったその瞬間。

 私は魔女を蹴飛ばして、魔女は竃に落ちていった。私は扉を閉めて魔女が出れないように閉じ込める。

 魔女の悲鳴と怒声。

 魔女の脂が溶ける音。

 魔女の肉が燃える匂い。

 魔女が赤くなって燃えている。

 ――轟々と、炎が魔女を焼いていく。

「グレーテル……? 何をしているの」

 あぁ、なんて、――……しい匂いだろう。

「魔女を殺したの。お兄ちゃん、これで私たちは自由だよ? お兄ちゃん。やっと、私は――」

「……どうして、笑っているの」

 お兄ちゃんは私を不思議そうに、いや、目が怖がっていた。私を怖がっている。

 恐怖の目で私を見ている。

「グレーテル、おかしいよ。確かに魔女は殺せた。けれど……、グレーテル、君は魔女を殺した人間のして良い表情をしていないよ、違うよ、違う。僕が知ってるグレーテルじゃない」

 どうして?

 お兄ちゃんは私を怖がるの?

 魔女を殺せたんだよ?

 私には分からないよ。

「グレーテル、目を覚まして。グレーテル」

 お兄ちゃんはどうして私がおかしいなんて言うの?

「……私、お腹が空いたの」

「あぁ、お腹が空いて変になっちゃったんだね。なら食べてから話をしよう。お腹いっぱいになったら元に戻れるよ」

「私、お兄ちゃんのご飯を持っていく時、野菜のクズとか、お肉の端っことか、残った残飯しか食べてなかったんだ」

「そうだね。お腹空いたよね。けれど、魔女はもういないんだ。ご飯をたっぷり食べられるよ」

 お兄ちゃんは知らない。

「いいえ違うの、私が食べたいのはね」

 お兄ちゃんは知らないの。

「……私、お兄ちゃんを食べたい。まるまると太ったお兄ちゃんが食べたい。私、我慢してたの。毎日太っていくお兄ちゃんがとっても美味しそうで、魔女がお兄ちゃんを食べるなら私がお兄ちゃんを食べたいって、思ったの。だから、私からお兄ちゃんを奪って食べようとした魔女を殺したの。お兄ちゃんを食べるなんて許せない。お兄ちゃんは私が食べる。私はそのためにお兄ちゃんのご飯を持って行ったの」

 いつからかは知らない。

 いつからか、私は「お兄ちゃんが食べたい」と思うようになった。むちむちの手足、脂がのった頬っぺた。はち切れそうなまん丸のお腹が、食べたらどんな味がするんだろう、噛み締めたらどんなに美味しいだろうか、と、考えるようになったのだ。

 いつからだろう?

「もう我慢できないの」

 私が、魔女になっていくのだ。

 人間を太らせて食べる魔女になっていく。

 人間が食べたくて食べたくて堪らない。

 食欲が抑えられない。

「私、お兄ちゃんが食べたい」

 それからの記憶はない。




 次に目覚めた時、ボクはベッドの上にいた。傍らには目をつぶった少年の遺体。ボクは首を傾げた。

 この少年は誰だろう。

「……兄さん?」

 と、思ったが、その顔に見覚えはなかった。ボクが兄さんの顔を覚えていなかった。だからこの少年は、兄さんかもしれないし、兄さんではないかもしれないし、似た誰かかもしれないし、兄さんだと思ってる他人かもしれない。

 ソレを棺桶に入れて植物を入れたら、その少年を覆うように植物が生えて、まるで食人植物のようだった。餌が人間の肉だったし、これは食人植物だ、と思う。

「兄さん、今日は人間の胃にチーズを詰めてみたよ」

 と、ソレに捧げる。

 どうして捧げるのか? と言われると困るのだが、それがやらなければいけないことのような気がしてするのだ。

「美味しいかい?」

 だからボクは捧げる。

 それだけだ。

「美味しいねぇ」

 ボクは、魔女がいたお菓子の家に囚われて出られない食人鬼。人間を食べなければならないバケモノ。お菓子の魔法が解けて、この屋敷がただの屋敷になってからもそれは変わらない。

 出ることは出来ない。

 魔女を食べたから、ボクはバケモノになってこの屋敷から出ることができなくなったんだよね。魔女を焼き殺して食べたんだよね?

 ボクが魔女、そのものになったんだよね?

 魔女の屋敷はここだから。

 ボクが魔女だから出られないんだよね?

 お兄ちゃんは食べてないよ、だってここにいるんだもの。目の前にいるもの。

 ボクは、お兄ちゃんを食べたから魔女になった……わけではないだろう? 違うだろう?

 ――違う、よね?

 ああ。



「カボチャちゃん、これは何に見える?」

「……え? ……何も入っていない棺桶ではないの?」

「そうなんだ。そっか」

 ボクは狂ったバケモノ。優しかった兄はもういない。もういないんだ。

「……ボクにはこの中に横たわってる兄が見えるんだ」

 ボクが兄を食べたんだ。

 ボクが初めに食べたのは兄だった。

 だから、この棺桶の中にいる兄は幻だ。



「兄さんは初めからいなかったんだ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る