「グラン・ブルー」に憧れて

夢崎かの

「グラン・ブルー」に憧れて

 すべてを捨ててやる。そんな強い決意で沖縄の地に立った。彼氏である博史への思いも、アスリートである浦島加代の人生も、この沖縄に置いてくるつもりだった。


 私のそんな決意を知る由もない博史は、時折、笑顔を交えながら、今後の予定を説明している。レンタルしたワゴン車を、片手で器用に運転しながら、私の方を見て話しかけてくる。お願いだから、前を見て運転して欲しいという私の気持ちは、きっと届かないのだろう。どこまでも鈍感な男だ。


 出会った頃は、すべてがうまくいっていた。

フリーダイビングの選手としての私は、潜るたびに自己記録を更新していき、近い将来、日本記録を更新するだろうと言われていた。コーチでもある博史の指導方法が、最適だったのだ。


 二人で、世界各地を転戦した。ホテルの手違いで、同じ部屋に泊まることになっても、紳士らしく振舞う博史に、好感を抱いていた。自分よりも五歳年上なのに、随分、大人だと感じていた。それが恋心に変わるには、時間はかからなかった。


 フリーダイビングに出会ったのは二十三歳の頃。新宿で、その当時、付き合っていた彼氏にひどいフラれ方をした日だった。


 若い女性がひとり涙を流しながら歩くには、新宿の街は優しすぎた。すれ違う男たちが、次々と声をかけてくるからだ。傷心の女性は口説きやすいと、どこかのマニュアル本で見たことを、愚直に信じている、ノリも頭も軽い男たち。


 しかし、その時の私には、優しさを受け入れる余裕はなかった。男たちから逃れるように、一軒のミニシアターに飛び込んだ。


 その時、上映されていたのが、リュック・ベッソン監督の「グラン・ブルー」だった。主人公のジャック・マイヨールがフリーダイビングの世界記録に挑むという話だったと思う。監督の演出も、俳優の演技も、それはそれで素晴らしいものだった。しかし、それよりも、私の心を釘付けにしたのは、海の中の美しさだった。


 クリスチャン・ラッセンの絵画でしか見たことがない、深い海の紺碧と光、そしてイルカの共演。映画が終わる頃には、涙はすっかり渇き、これから自分が生きる道筋がハッキリと見えていた。


 この日を境に、私の人生は大きく変わった。

 元々、運動神経が良い方ではない。学生時代は、ずっと文系の部活に所属していたし、体育も得意ではなかった。水泳にいたっては、苦手だとさえ感じていた。それなのに、ダイビングにこんなに夢中になるなんて、神様はなんて気まぐれなのだろう。


 ダイビングスクールで、初めて伊豆の海に潜った時、楽園はこんなに身近にあるのだと気づかされた。普段、目にすることのない海の中の世界は、極彩色にあふれ、薄汚れた都会で暮らす私にはまぶしすぎるほどだった。


 ガタンと、二人の乗せたワゴン車が、大きく弾んだ。その衝撃で、現実に引き戻された。乱暴な運転だと、気持ちがますますいら立ってくる。

 そんな私の気持ちも知らず、博史は熱心に話しかけてくる。


「あと十分くらいでマリーナに着くから。そこで、スタッフと顔合わせだからな」


 博史の説明に、あいまいにうなずいた。そんな私の態度に、博史も嫌悪感を見せる。


「おい、今回は、加代のための沖縄遠征なんだからな」


 そんなこと、言われなくてもわかっている。ここ最近は、ずっとこんな調子。このままだと、また口論がはじまる。だから、嫌なのだ。


「止めて」


 私の申し出に、博史は驚きを隠そうとしない。


「おい、加代」

「いいから、止めて」


 博史は、私の言葉に従い、車を路肩に停めた。そうしなければ、ドアを開けて飛び降りるつもりだった。

 私は、ドアを開けると、車から降りた。


「気分がすぐれないから、そこのビーチにいる。スタッフとの顔合わせは、あなただけで十分でしょう」


 そう言い残して、ビーチへ向かって歩きはじめた。背後から、博史の抗議の声が聞こえたが、聞こえないふりをして歩き去った。


「もう、どうだっていい」


 投げやりな言葉が、身体の内側から溢れてくる。苦しくて、張り裂けそうで、限界まで達している胸の内を、博史は理解していない。一刻も早く逃れたくて、沖縄に来たはずだったのに、事態は一向に好転する気配を見せてくれない。


 博史は、コーチとしては一流ではない。むしろ、無名と言って良かった。しかし、何故か、私とは相性が良かった。フリーダイビング初心者の私には、博史の言葉がしみ込むように伝わってきたのだ。わかりやすいと言うような単純な言葉では表せない関係性。もっと年が離れていたら、きっと師弟関係という言葉がしっくりくるのかもしれない。


 そんな二人の関係も、今では崩壊寸前だった。いや、もう、とっくに壊れているのかもしれない。ただ、お互いのプライドが、それを認めたくなくて、ここまで続けて来ている。だから、余計にツラくて、苦しいのだ。


 原因は、アスリートとしての私の記録の伸び悩みだった。競技を開始してからすぐは、潜るたびに記録を更新していった。しかし、日本記録更新の期待が高まりはじめると、その期待に反比例して、記録は伸び悩みはじめた。今では、私に日本記録更新を期待している者はいない。有望な若手が、次々と記録を追い越していったのだ。


 笑顔で健闘を称えていた人も、それとなく引退を勧めるようなことを言うようになった。


「日本の女子のレベルを一段階、押し上げたのは、あなたの功績だ。お疲れ様でした」と。


 私自身も、もう限界なのではないかと感じていた。それでも、まだやれると、心のどこかで信じていた。あの時、映画の中のジャック・マイヨールが見た景色を、まだ見てない。それだけが、心の支えだった。


 沖縄のビーチは、砂が白いので裸足でも歩ける。足元の白い砂は、きめが細かく、裸足で歩くと指の間に心地よい刺激を与えてくれる。頭上の空は、抜けるような青空で、水平線でコバルトブルーの海と絶妙なグラデーションを見せながら混じり合っていた。波打ち際には透き通った波が、絶え間なく押し寄せ、私を水際にいざなっている。


 私は、波に誘われるままに、波打ち際を歩き始めた。手にサンダルをぶら下げて、まるでドラマのヒロインのように。海の水は、思っていたよりも冷たく、火照った心を冷ましてくれるかのようだった。


 しばらく歩いていると、前方に黒い塊が見えてきた。それは、白い砂浜には似つかわしくない異物。波打ち際で、波にさらされている。

 ゆっくりと近づくにつれ、それがウミガメだとわかった。大きな甲羅を背負った、堂々とした体格は、周囲を圧倒するかのようだった。

 私は、ウミガメに近づくと、洋服が濡れるのも構わず、隣に座った。冷たい海水が、服にしみてきて心地よい。


 ウミガメは、波打ち際で波に巨体をさらしながら、目を閉じていた。隣に座った人間のことなど、まるで意に介していないようだ。何物にも屈しない、堂々とした風貌からは、神々しいオーラのようなものを感じる。

 そっと甲羅に手を当ててみた。夏の太陽に照らされた甲羅は、かなりの高温になっている。あまりの熱さに、すぐに手を離してしまった。


「あんた、暑くないの」


 そう言いながら、手で海水をすくって、甲羅にかけてやった。しかし、その程度の水では、甲羅はすぐに乾いてしまう。今度は、両手で、少し多めにすくってかけてみた。


 ウミガメは、右腕を上にあげて、パタンと砂浜を叩いた。まるで、水をかけるなと抗議しているかのようだ。そして、ゆっくりと顔をもたげて、私の方を振り返った。ウミガメの黒いつぶらな瞳が、私の視線とぶつかる。悠久の時を生きる賢者のような風貌で、すべてを見通すような優しい目だった。やがて、ウミガメは、のそりのそりと海の中へ進んで行った。


「何よ、亀は浦島には優しくするもんだよ」


 その声に、ウミガメが反応することはなかった。

 ウミガメを見送った私は、また一人になった。一人になると、また悲しい考えで頭がいっぱいになる。


 ふと視線を落とすと、白い砂が付いた小麦色の右腕が見えた。昔は、こんな色ではなかった。休みの日でさえ、家の中で本を読んで過ごしていたので、血管が透けるのではないかというくらいに白い肌をしていた。それが、ダイビングをはじめると、一年中、小麦色の肌に変わった。


 二十代前半の頃は、小麦色の肌の枕詞は「健康的な」だった。それが三十代を前にすると「シミが心配な」に変わり、四十代になると「きっとシミだらけの」になる。年齢で意味合いが変わるなんて、実に不公平だと思っている。

 このまま、シミだらけのおばあちゃんになったとしても、後悔はない。死んだように生きていた自分が、情熱を燃やした証なのだから、すべてを受け入れようではないか。


 砂を払って、立ち上がると、波が届かない場所で、再び、腰を下ろした。辺りを見回しても、海水浴客はいない。百メートルほど先に、家族連れらしい一団が見えるが、これだけ離れていると、話し声も聞こえない。完全にプライベートビーチだ。東京近郊では、まず味わうことができない、至福の時間。


 私は、砂浜に横になり、目を閉じた。波の音が心地よい眠気を呼び覚ましてくる。ここ最近は、気持ちが乱れて、夜にゆっくり眠れることも少なかったので、あっと言う間に眠りに落ちてしまった。


 身体を揺さぶられて、目を覚ました。そこには、見慣れた男の顔があった。博史の肩越しに見える空は、夕焼けに染まっている。一体、どれほど寝たのだろう。随分、ぐっすりと眠り込んでいたようだ。


「打ち合わせは、無事に終わったよ」

「そう。お疲れ様」


 寝起きだったせいか、思っていた以上に感情がこもらない言葉になった。それを聞いて、博史はため息をついた。それでも、私は怒らない。そんなことでは、もう怒りすら湧かないほどに、二人の関係は冷めきっているのだ。


「ホテルに戻ろう」


 そう言うと、博史は車に向かって、さっさと歩きだしてしまった。私も無言でそれに続く。波音だけが、変わらず静かに打ち寄せ続けていた。


 翌朝は、朝食をすませると、一息ついてから、ホテルを出た。ワゴン車でマリーナに向かい、そこからボートで沖に出て、エントリーするポイントを目指す予定だ。今回はトレーニングなので、五十メートル前後まで潜るつもりだ。


 海でのフリーダイビングには、大きく分けて四つの競技がある。足ヒレをつけて潜る種目と、足ヒレを着けないで潜る種目。そして、ロープを手繰りながら潜る種目。あとは、ザボーラという機械を掴んで潜る種目だ。当然、機械で潜る種目が、一番、深くまで潜ることができる。女子でも百メートルを超える記録を持つ選手がいるほどだ。


 私は、足ヒレを着けない競技をメインにしていた。初めて、スキューバダイビングをした時に、ボンベなどの装備品があることが違和感だった。自然の美しさの中にあって、人工物は違和感でしかない。

 本当なら、裸で潜りたいと思う。そうすることで、自然の中の一部になれそうな気がするのだ。しかし、男性スタッフに囲まれて、それを実行する勇気はない。三十を目前にしながらも、まだ乙女の恥じらいは残っている。


 ボートは、順調にエントリーするポイントに到着した。天気は良く、波は穏やかで、風もない最高のコンディションだった。

 博史は、ボートの上を右に左に動き回り、テキパキとガイドロープを張っている。このガイドロープに沿って、潜っていくことになる。

 私は、ボートの上で、軽くストレッチをしながら、この日の体調を確認した。


 フリーダイビングは、非常に繊細な競技だ。呼吸を止め、心を制御し、思考を停めなければならない。そのため、トレーニングにヨガを取り入れる選手も多い。直前まで、瞑想している選手もいる。


 海のコンディションは悪くない。今日はいける。大丈夫だ。

 自分のコンディションも良いと感じていた。以前、自己ベストを出した時以来の懐かしい感覚。今日が大会でないことが心底悔やまれる。

 それでも、この練習で、何かきっかけでも掴めれば、また第一線に復帰できるかもしれない。それは暗闇に差すたった一条の光のように、か細い希望なのかもしれない。


「ダメなら、それで全部おしまい」


 誰にも聞かれないように、小さくつぶやいた。自分なりの決意表明だった。

 博史の準備が終わり、スタッフもそれぞれ配置についた。あとは、私が自分ののタイミングで入水し、ダイビングを開始するだけだ。全スタッフの視線が、一身にそそがれる

 ゆっくりと時間をかけて、ゴーグルを正しい位置に装着し、しなやかな身のこなしで、ボートの縁を乗り越え、入水した。大きく水しぶきを上げることのない、静かな入水だ。これは、いつもと変わらないルーチンワークだ。


 ボートの脇に浮くブイに掴まり、呼吸の調整に入る。ここからは、一瞬たりとも気を抜くことができない、繊細な作業が続く。


 フリーダイビングでは、少しでも多くの酸素を肺に取り入れるために、パッキングと呼ばれる呼吸法をする。息をいっぱいにまで吸い込んだ後に、細かく息を飲み込むようにして肺に酸素を送り込むのだ。これを行うだけで約四リットルもの差ができると言われている。


 パッキングの独特の呼吸音を響かせながら、自分の思考を停止する作業に入る。いわゆる、無になるということだ。脳が動くと酸素を消費するので、無になった方が有利なのだ。

 やがて、パッキングが終わると、思考を停め、あとは体に染みついた感覚だけで、ひたすら深みを目指す。


 グイッと身体をもたげたあと、頭を下にして潜水を開始した。足を水面に突き上げ、ゆっくりと一蹴りする。体にまとわりついていた酸素が泡となり、ゴボゴボと音をたてながら浮上していく。それはまるで、これから奈落を目指す勇者を応援するファンファーレのようだった。


 沖縄の海は、世界でも有数の透明度の高さを誇っている。そのため、海中でもかなり明るい。浅場には、熱帯の海特有のカラフルな魚たちが泳いでいる。しかし、そんな綺麗な魚に目をくれることはない。


 平泳ぎのように腕をひとかきして、先行速度を上げる。ただ、これもむやみに行うと酸素を消費するので、無駄遣いはできない。

 今度は、ドルフィンキックで、また少し進む。もう五メートルは通過しただろう。


 私は、今までの経験から、かつてないほどの手ごたえを感じていた。今日の泳ぎは、いつもと違う。悪くない。はっきりとした実感があった。


 水深も十メートルを過ぎると、徐々に魚の姿が減ってくる。海の青さも、透明から徐々に青みを増してくる。海水の濃度が上がったかのようだ。


 水深二十メートル通過。口元から、少し泡が漏れた。酸素を少し吐き出したのだ。


 水深三十五メートルを過ぎると、フリーフォールが起こりはじめる。気圧で肺が小さくなり、ダイバーの浮力が低下し、脱力した状態でも、自然に沈みはじめるのだ。それは、暗黒の海底に潜む悪魔が、ダイバーを奈落の底に引きずり込もうとするかのようでもあった。

 ゆっくりと、地球の重力に引っ張られた私の身体は、ガイドロープに沿って沈んでいく。その速度は、まるで精密機械で測っているかのように一定だ。


 ガイドロープが五十メートルの通過を知らせる。ここからは、ダイバーの判断ミスが生死を分けることになる。


 フリーダイビングでは、目標の記録に達成したら終わりではない。無事に浮上し、意識があることを示すために指でオッケーサインを作り、「アイムオッケー」と言わなくてはならない。

 これらを、十五秒以内に行わなければ失格となる。そのため、余力があるうちに浮上しなくてはならないのだ。


 まだいける。そう判断した。あと五メートル。いや、七メートルはいけるだろう。今までの経験から導き出した回答だった。


 その瞬間、頭の中に不意に博史の顔が浮かんだ。何故、このタイミングなのかはわからない。思考はオフにしていたはずだ。

 博史の顔が浮かぶと、続いて、二人の思い出がよみがえりはじめる。楽しかった思い出。幸せだと感じていた日々。そして、スレ違い、こんがらがった苦しみの時。

 自分の中で、抑えきれない感情が溢れはじめた。停止していたはずの脳は回転をはじめ、我慢に我慢を重ねていた不満が溢れ出した。もう自分の意志では、止めることはできなかった。


 少し多めの息を吐いてしまったので、急旋回して海面を目指すことにした。また失敗ダイビングだ。後悔の念が頭の中に湧き上がってくる。

 両手で大きく水をかき、足を蹴って急浮上する。海面まで息が持つか、微妙なところだ。気持ちばかりが焦るが、全然、身体が浮かび上がらない。このままでは、ブラックアウトしてしまう。


 酸欠状態になって、意識を失うことを、フリーダイビングでは、ブラックアウトと呼ぶ。命にもかかわる、非常に危険な状態だ。そのため、フリーダイビングの選手は、常に自分の身体と対話し、隅々にまで気を配るのだ。


 急浮上していく中、ゴーグルに太陽の日差しが差し込んだ。あと十数メートル。しかし、もう余力は残っていなかった。薄れゆく意識の中、何者かが急接近してくるのを感じた。


 太陽の光を浴びながら、漆黒の巨体で現れたのは、ウミガメだった。ウミガメは、私を甲羅に背負うかのようにして、浮上をはじめた。その時、自分の中で忘れていた記憶がよみがえってきたのだった。


 まだ小学校に入る前の話。家族旅行で沖縄を訪れたことがあった。その時に、両親とともにウミガメの孵化を見に行った。

 白い砂浜の中から、小さなウミガメの赤ちゃんが次々と這い出してくる光景は、神秘的なものだった。誰に教わった訳でもないのに、皆、海を目指して進んで行くのだ。


 そんな中、一匹の子亀が、穴にハマって裏返しになってしまった。必死に手足をばたつかせているが、表になる気配はない。このままでは死んでしまうだろう。

 しかし、両親は私が子亀を助けるのを止めた。それが弱肉強食の世界に生きるルールだからと諭してきたのだ。

 幼い私には、到底、理解できるルールではなかった。死にそうな可哀そうな子亀を助けなければ。両親の手を振り払い、子亀を助け上げて、波打ち際に放してやったのだった。

 この子は、あの時の子亀なのだろうか。

 私の疑問に答えるように、ウミガメは両手をあげた。そして、海面を目指して、浮上しはじめたのだ。


 ダメ、待って。まだ、あの景色を見ていないの。

 カメに背負われた私は、不思議なことに、もう息苦しさを感じてはいなかった。

 ウミガメは、心を見透かしたのか、巨体を反転させ、海底を目指しはじめた。私がが夢見てやまない、水深百メートルの世界に向かっていた。


 フリーダイビングの選手は、百メートルを超えると世界が変わると言う。だから、誰もが百メートルを目指すのだ。


 沖縄の透明な海でも、水深百メートルとなると辺りは薄暗い。黄昏時といったところだろうか。


 海の色は紺碧で、その先には真っ暗闇が広がっている。ここから先は人が進んではいけない世界であるかのようだった。静寂だけが支配する、不思議な空間だった。これが、ジャック・マイヨールが見た世界。世界中のフリーダイバーが憧れる世界だ。


 恐らく、世界中のどんな有名画家の腕をもってしても、この青さは表現できないだろう。写真で撮ったとしても、この迫りくる圧倒的な威圧感を伝えることはできないだろう。


 その空間の中で、私はただ言葉をなくしていた。感慨無量。もう十分だと、心の底から思うことができた。


 やがて、ウミガメは、ゆっくりと浮上を始めた。優しく私を抱きしめるような、包み込むような、静かな浮上だった。そして、私は意識を失った。


 目を開くと、真っ白な世界が広がっていた。右も左も正面も純白の世界。それを見て、自分が死んだと思った。これが死後の世界なのだと感じていた。


 次第に脳がゆっくりと動きはじめると、自分がベッドの上に寝かされているのだと気づいた。恐らく、病院のベッドだろう。


 左右に視線を動かすと、点滴のチューブが自分の左腕に向かって伸びていた。足元には、見慣れたもじゃもじゃの頭が、ベッドに伏せる格好で乗っている。

 身じろぎしたせいで、ベッドが軋んだ。その音で、博史が足元で顔をあげた。


「加代、気が付いたのか?」


 私の顔を覗き込む博史の両目は、泣きはらしたかのように、真っ赤に充血していた。


「加代、ごめんな。俺が全部悪かった」

「何よ、急に」


 いきなりの謝罪に、私は戸惑った。何についての謝罪なのか、理解できていないからだ。


「何って、全部だよ。今回の事故も、今までのことも全部、俺が悪かった」


 事故という言葉が心に突き刺さった。ダイビングの失敗は今までに何度も経験していたが、事故ははじめてのことだった。


「私、どうなったの?」

「ブラックアウトしたんだよ。かなり深いところで」


 博史の説明では、予定の時間を過ぎても私が浮上してこないので、心配した博史が海に飛び込んだのだという。そこで、海中を漂う、意識を失った私を発見したのだと。


 ボートに引き上げたあと、懸命の蘇生措置を行ったが、目を覚まさなかったらしい。それで、救急車で病院に運ばれたのだった。


 博史と知り合って五年以上になるが、ここまで取り乱した博史を見たことはなかった。いつも冷静沈着で、大人の博史。それが、今は、母親とはぐれた子どものように、怯えた表情をしている。


「私ね、ウミガメに助けられたの」

「エッ、ウミガメ?」


 博史は、キツネにつままれているような表情になった。私は、自分が海の底で経験したことを博史に話した。


「じゃあ、昔、助けたウミガメに助けられたって言うのかい。おとぎ話じゃあるまいし」

「あら、私の苗字が『浦島』だって言うのを忘れたの?」


 私は、少し意地悪く微笑んだ。ここ最近の中で、一番いい笑顔だったと思う。博史は、少し肩をすくめると、意を決したよな顔で口を開いた。


「加代、ごめんな。俺、最近、加代の記録が伸びないことで焦ってたんだと思う。俺がコーチとしてもっと腕があったら、経験があったら、加代に日本記録を更新させてやることができたんじゃないかって」


 それは違うと思ったが、否定する勇気が自分にはなかった。でも、博史の優しい言葉が、心底嬉しかった。愚直さが取り柄のこの男は、誰よりも私のことを思ってくれていた。一番近くで、支えてくれていたのだ。それを気づかなかった自分が情けない。

 溢れてくる涙を見られたくなくて、博史に背を向けた。きっと、今、博史は、戸惑った顔をしているのだろう。女心を理解するのが、苦手な不器用な男性。


「もう、終わりにしようと思うの」

「それって」


 博史の言葉をさえぎって、続けた。


「もうフリーダイビングは終わり。引退するわ」


 ゆっくりと博史の方に向き直ると、博史は雷に打たれたような表情で固まっていた。

 あぁ、この人は、こんな表情もするのね。

 私は不思議な感慨に浸っていた。もう選手としては終わり。コーチと選手の関係もおしまい。これからは、この鈍感な男を愛しながら、一緒に歩いて行こうと決めた。

 そんな私の決心を、博史はまだ気づいていない。どこまでも鈍感な愛すべき男。


「私ね、選手だけじゃなく、『浦島』もやめることにするわ」


 ここまで言っても、まだ理解できていない表情の博史を見て、私は吹き出した。込み上げてくる笑いが止まらずに、ベッドの上で笑い転げた。こんなに笑うのは、何年ぶりのことだろう。その横には、状況がわかっていない博史のぽかんとした顔があった。


 結局、私はウミガメと一緒に、あの景色を見たのだろうか。博史はあり得ないと言うが、私は真実だと確信している。

 そして、すべてのわだかまりを、ツラかった胸の内を、あそこに置いてきたのだ。だから、こんなにも笑えるようになった。博史の全てを受け入れる余裕ができたのだと思うのだ。


「私ね、鈍感なあなたも嫌いじゃないわ」


 ようやく、すべてを理解したのか、博史の表情が明るく輝いた。久しぶりに見る、博史の嬉しそうな笑顔。私が自己記録を更新した時に見せてくれていた笑顔と同じだった。


 私は、この笑顔が大好きだったことを思い出した。この笑顔を見るために、苦しい思いをして記録を更新してきたのだ。


「そうだ、加代。誕生日おめでとう」

「エッ、誕生日?」


 博史の言葉に今度は、私がが戸惑った。博史の説明では、私は丸一日、眠っていたのだそうだ。その間に、誕生日が過ぎてしまったという。


 目を覚ましたら、三十路の女性になっていた。あの亀、とんだ、玉手箱ね。


 私は、ゆっくりとベッドから体を起こして、博史に三十代最初の口づけをした。

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「グラン・ブルー」に憧れて 夢崎かの @kojikoji1225

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