第18回 孔明の人となり

 漢文大系本、第3巻、70ページ。

 西暦234年。


 亮為政無私。馬謖素為亮所知。及敗軍、流涕斬之、而卹其後。李平・廖立、皆為亮所廃。及聞亮之喪、皆歎息流涕、卒至発病死。史称、「亮開誠心、布公道、刑政雖峻、而無怨者。真識治之良才。」而謂「其材長於治国、将略非所長」、則非也。初丞相亮、嘗表於帝曰、「臣成都有桑八百株、薄田十五頃、子弟衣食自有余。不別治生以長尺寸。臣死之日、不使内有余帛、外有贏財、以負陛下。」至是、卒如其言。諡忠武。


 亮、まつりごとを為してわたくし無し。しよくと亮の知る所と為る。軍をやぶるに及び、なみだを流してこれを斬りて、のちあはれむ。李平・れうりふ、皆な亮の廃する所と為る。亮のさうを聞くに及び、皆な歎息してなみだを流し、つひに病を発して死するに至る。史に称す、「亮、誠心を開き、公道をき、刑政はしゆんなりといへども、うらむ者無し。まことるの良才なり」と。しかれども「の材、国を治むるに長ずるも、将略は長ずる所に非ず」とふは、則ち非なり。初めじようしやう亮、かつて帝にへうして曰はく、「臣、成都にくわ八百株、はくでん十五けい有り、子弟の衣食は自づから余り有り。別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。臣死するの日、内にはく有り、外にえいざい有りて、以て陛下にそむかざらしむ」と。ここに至りて、つひの言のごとし。忠武とおくりなす。


 諸葛亮は、政治を執り行うときに私情をはさまなかった。しよくは、昔から諸葛亮に目をかけられていた。しかし軍を敗北させたとき(第14回参照)には、涙を流してかれを斬り、手厚く遺族の面倒を見た。李平やりようりゆうは、諸葛亮が廃したのであった。しかし諸葛亮が死んだと聞くと、二人とも嘆き悲しんで涙を流し、(李平のほうは)ついに病気になって死んでしまった。歴史書(陳寿の『三国志』諸葛亮伝の評)では、「諸葛亮は真心を開き、公平なやり方を行き渡らせていたから、刑罰や政事が厳しかったとしても、うらむ人がいなかったのだ。まことに統治のしかたを知っていた才能ある人物である」と称えている。けれども「その才能は、国を治めることが得意だったが、将としての軍事的戦略は得意でなかった」と言っているのは間違いだ。かつてじようしようの諸葛亮は帝(劉禅)に言ったことがある。「わたくしは、成都にくわを八百本、たいしたことのない畑を十五けいばかり所有しておりますが、子弟の衣食には余りが出るほどです。その他に生計を立ててすこしでももうけを出すようなことはやっておりません。わたくしが死ぬ時には、家の内に余分な布を貯めていたり、家の外に余分な財産をたくわえていたりして、陛下にそむくようなことにならないようにいたします。」このときになって、とうとうその言葉の通りになった。おくりなを忠武という。

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