第16回 五丈原の戦い(前編)

 漢文大系本、第3巻、68~70ページ。

 西暦231~234年。


 ◯蜀漢丞相亮、又伐魏囲祁山。魏遣司馬懿、督諸軍、拒亮。懿不肯戦。賈詡等曰、「公畏蜀如虎、奈天下笑何。」懿乃使張郃向亮。亮逆戦、魏兵大敗。亮以糧尽退軍。郃追之、与亮戦、中伏弩而死。亮還、勧農講武、作木牛流馬、治邸閣、息民休士、三年而後用之。悉衆十万、又由斜谷口伐魏、進軍渭南。魏大将軍司馬懿引兵拒守。亮以前者数出、皆運糧不継、使己志不伸、乃分兵屯田、耕者雑於渭浜居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。亮数挑懿戦、懿不出。乃遺以巾幗婦人之服。亮使者至懿軍。懿問其寝食及事煩簡、而不及戎事。使者曰、「諸葛公、夙興夜寐、罰二十以上、皆親覧。所噉食、不至数升。」懿告人曰、「食少事煩、其能久乎。」


 ◯しよくかんじようしやう亮、た魏をち、ざんを囲む。魏、をして諸軍を督し、亮をふせがしむ。へて戦はず。曰はく、「公、しよくおそるること虎のごとし。天下の笑ひを奈何いかんせん」と。すなはちやうかふをして亮に向かはしむ。亮、むかへて戦ひ、魏の兵、大いにやぶる。亮、糧くるを以て軍を退く。かふ、之を追ひ、亮と戦ひ、ふくあたりて死す。亮、かへり、農にすすめて武を講じ、木牛・流馬を作り、邸閣を治め、民をいこはしめ士を休ましめ、三年にして後、之を用ゐる。しつしゆう十万、た斜谷口より魏をち、軍をなんに進む。魏の大将軍司、兵を引きてふせぎ守る。亮、前者さき数〻しばしばづるも、皆な糧を運びて継がず、己の志をして伸べざらしむるを以て、乃ち兵を分かちてでんとんせしむ。耕す者、ひんの居民の間にまじはりて、百姓あんし、軍にわたくし無し。亮、数〻しばしばに戦ひを挑むも、、出でず。すなはおくるにきんくわく婦人の服を以てす。亮の使者、の軍に至る。の寝食及び事のはんかんを問ひて、じゆうに及ばず。使者曰はく、「諸葛公、つとよはね、罰二十以上は、皆な親しくる。かんしよくする所は、数升に至らず」と。、人に告げて曰はく、「食少なく事わづらはし。く久しからんや」と。


 ◯しよくかんじようしようの諸葛亮はまた魏を攻撃し、ざんを包囲した。魏は、にもろもろの軍を監督させ、諸葛亮を防がせた。は戦おうとしなかった。らは言った。「あなたはしよくを虎のように恐れている。天下の笑いものになるのをどうしようか。」(『三国志集解しつかい』はいう、は既に死んでおり、ここに出てくるのは別人であろうと。)は、そこでちようこうに命じて諸葛亮の軍へ向かわせた。諸葛亮は迎えうって戦い、魏の兵は大敗した。諸葛亮は、食糧が尽きたので軍を引き上げた。ちようこうは追いかけ、諸葛亮と戦い、伏兵の(機械仕掛けの弓)に当たって死んだ(231年)。諸葛亮はしよくに帰り、農民に働きかけて武芸を教え、木牛や流馬という運搬用の仕掛けを作り、家や屋敷を造り、民や兵士を休ませ、3年の後にかれらを用いた。全部で10万の大軍が、こんどはしやこくこうから魏に攻撃し、すいの南に進軍した(234年)。魏の大将軍は、兵を引き上げて防御に徹した。諸葛亮は、以前にもたびたび出兵したものの、いずれも食糧の供給が継続できずに志を遂げられなかったことがあったため、兵を分けて畑を作らせた。耕す者はすいのほとりの居住民の間に混じって、民はあんし、軍にも私的な略奪行為が発生しなかった。諸葛亮は、たびたびに戦いを挑んだが、は兵を出さなかった。そこで女物の髪飾りと婦人の服を送った(男らしくもない臆病者と辱しめる意)。諸葛亮の使者が、の軍にやって来た。は、諸葛亮の寝食や仕事の忙しさばかりを尋ねて、軍事関係のことはかなかった。使者は言った。「諸葛公は、朝早く起き夜遅くに眠り、罰が棒叩き20回を超えるものは、みな自分で見届けています。食べるものは、数升にもなりません。」は人に告げて言った。「食事は少なく、仕事は多い。先は長くあるまい。」

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