最終話 少年はカランコエを守る

 ふわふわと重力のない場所で浮いているようなそんな心地でした。

 或いは、心地よい日差しの中、美しい湖に浮いている様な、穏やかな気持ちです。

「……うき、悠希」

 名前を呼ばれて、悠希は目を開きました。

 ベッドに横たわる悠希を心配そうに覗き込む祖父と祖母の姿がありました。

 悠希の両親は、彼が小さい頃に彼の側から遠くへと旅立ってしまっていたのです。

「どうしたの?」

 ゆっくりと上半身を起こすと、祖母が悠希を抱きしめました。

 彼女の背を撫ぜてあげ、悠希はその視線を祖母の頭越しの祖父に向けました。

「魔女が、この家の周りをうろついているのを、何人もの人が確認している。悠希、お前は一週間も眠り続けていたのだよ」

「……まじょ」

 悠希まだ眠りたそうにしている自身の思考を奮い立たせました。

 どうして今ここで眠っているのだろうか。

 彼女の家に行って、一緒にカランコエを見ていたじゃないか。

「ねえ、魔女は」

「嗚呼、魔女は退治したから、安心しなさい」

「退治ーー殺したの」

「悠希」

 悠希の乱暴な言葉を祖父は眉を顰めて諌めました。

「のぞみ」

 悠希は祖母を引き剥がして、ベッドの外に足を放り出しました。

 そして、今度はのぞみの支えもないまま、立ち上がったのです。

「あなた、足がーー」

 祖母が驚いている姿すら悠希の視界には映り込みません。

 一歩踏み出した時、悠希の体は崩れ落ちました。

 歩けなかったのです。

「僕は、歩けたんだ。のぞみと一緒に、カランコエを見たんだ」

「悠希、落ち着きなさい」

 ベッドに引き戻そうと、祖父が悠希の体を抱きかかえます。

 その腕を悠希は掴んで、祖父の目をじっと見詰めます。

「あの人は魔女なんかじゃない。お母さんのお友達だよ」

「わかった、わかったから、ベッドに戻ってくれ」

 今度は祖父の言葉に、悠希は従いました。


 魔女が現れたのは、大雨の日でした。

 雨に打たれながら、魔女は悠希の家の周りを歩いていたのです。

 そして魔女が立ち止まったのは、悠希の部屋の窓の傍でした。

 魔女は、じっと、閉められたカーテンを見ていたのです。

 そして雨がすぅっと嘘の様に止んで晴れ渡ると、いつのまにか魔女は姿を消していたのです。

 その様子を見た人々は、心配になって悠希の家に押し寄せたのです。

 そして、静かに眠る悠希は一週間一度も目を覚ましませんでした。

 村の人たちは魔女の呪いだと叫び、決起し、鍬や包丁を手に森へと向かいました。

 魔女は、細い女でした。

 抵抗をする事ができなかったのか、或いはその意思すらなかったのかは分かりませんが、人々はいとも簡単に魔女を誅伐したのです。

 魔女を討ったその足で祖父と祖母は悠希の部屋へと駆け込みました。

 悠希は目を覚ましたのです。

 祖父の語る言葉を悠希は黙って聞きました。

 今度は、悠希がのぞみとの出来事を祖父に語る番です。

 祖父も祖母も、悠希の語る言葉に聞き入りました。

「僕は、のぞみに歩けると教えてもらったんだ」

 悠希の足が動かない事を、祖父も祖母も、そして村中の人は知っていました。

 悠希は、一人で立ち上がったのです。

 さも歩けるのだと言わんばかりに、一歩踏み出したのです。

 誰が訪れても笑顔で迎え入れ、相手が望む言葉を紡いでいた悠希が、自分の意思で部屋を出ようとしたのでした。

「森に行きたい」

「だけれど、魔女はもうあそこにはいないよ」

「それでも行きたいんだ。あのカランコエを見たい」

 祖父と祖母は一度顔を見合わせて、そして悠希にこくりと頷きました。

 家を出た事のない悠希が見たというそのカランコエが本当に咲いていたのなら、魔女はもしかすると悪い存在ではなかったのかも知れません。

 祖父と祖母に支えられて、悠希は再び森へと入りました。


 悠希がのぞみと歩いたあの経験は夢だったのかも知れません。

ーーだけど、あの手の温もりは、本物だ。

 悠希は道が分かれていようとも、なんの迷いもなく二人を案内しました。

 祖父と祖母の足は段々と重たくなっていました。

 この手で退治した魔女は、もしかすると悠希の足を治してくれた存在なのではないのかと思い始めていたからです。

「あそこだよ」

 二人はつい先ほど、皆で襲った荒屋を前にして呆然と立ち尽くしました。

 悠希は二人の手をぎゅっと握り、歩き始めました。

 荒屋の裏側に辿り着いた三人の眼前で、何事もなかったかの様に色とりどりの花が美しく咲いていました。

「のぞみは僕に、この花を枯らさないでと言った」

 その場に座り込み、悠希はそっと花に触れました。

 その様子をただ見つめていた祖父と祖母の目から涙が零れ落ちました。

「嗚呼、あれは魔女ではなく天使だったのだ」

 二人はその場に崩れ落ち、悠希は花を見続けました。


 魔女征伐から一ヶ月経ちました。

 魔女の荒屋を人々は天使の家と呼んでいました。

 誰も立ち入らなかった森に、人々は入る様になったのです。

 相変わらず暗い森ではありますが、祝福する様に、天使の家の周囲だけは光が注がれていました。

 荒屋の前には一つの石が置かれ、その周囲は様々な花で彩られています。

 悠希はその石の前でそっと祈りを捧げ、カランコエの世話を始めました。

 どの色も美しいのですが、悠希の好きな色はオレンジ色のそれです。

 のぞみは、この結末を知っていたのかも知れません。

 だからこそ、彼女は悠希に花を託したのかも知れません。

 悠希は立ち上がり、花を見渡します。

「明日も、明後日も、ずっと僕が守るから」

 そして悠希は森を出ました。

 ゆっくりとぎこちなくはありますが、悠希はもう一人で歩ける様になったのです。

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魔女の森 檀ゆま @matsumayu

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